内ゲバとは?その意味や実際に起こった主な事件をご紹介!

新左翼と呼ばれる集団の内紛から始まった「内ゲバ」は、外部から見ると何で争っているのか分かりにくいことも多く、謎に包まれています。しかし、歴史的には多数の死者・負傷者を出した凶悪な事件です。内ケバが起こった理由や特に注目された事件の概要を説明します。

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内ゲバとは

組織の内部で闘争や争いの末に死傷者が出るような暴力事件の事を言います。特に左翼党派内の争いや、学生運動による内紛を指して使うことが多い言葉です。内ケバが特に激しかった1970年代には多くの死者を出しています。

左翼って何?

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古くはフランス革命にまで遡ります。フランス革命において旧王族を支持した保守的な考えを持った人が議長席から右側に座り、市民革命を支持する改革派が左側に座りました。ここから右が保守、左が革新となりました。

同一党派内部での抗争

内ケバは主義や主張を同じくする政治的な思想を持ったグループ内での争いを指します。基本的には保守的な考えを持つ右翼系の組織ではなく、革命や革新という基本理念をもつ左翼系の団体内での暴力的抗争いいます。特に1960年から70年代の学生運動が盛んだった時代の出来事です

数百人の死者を出す

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左翼的な思想の根本には革命の考えがあります。革命には犠牲がつきものなのかもしれませんが、内ケバという内紛によって数百人の死者が出たといわれています。そしてその殺害の方法もリンチや放火や鉄パイプによる撲殺など凄惨を極めました。

街宣車を出す怖い人が右翼?

右翼の定義は人によって異なりますが「伝統文化を重んじ日本古来の在り方に敬意を払う」というのが根本的な思想です。ですから保守は日本の伝統の最たる天皇制も守ろうとなります。街宣車に乗って迷惑行為をする輩が保守ではありません。

内ゲバの意味・語源は?

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定義の一つに「暴力」があります。同じ考えを持つ人たちが話し合いで紛糾しても、それは内ケバとは呼びません。内ケバには血なまぐさい暴力や流血やリンチという目を覆いたくなるような暗い裏があります。

「内部ゲバルト」の略

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内ケバという内紛は正確に表現すると「内部ゲバルト」です。ゲバルトはドイツ語で直訳すれば「暴力」となります。特定の組織の内側で発生する争いや闘争なので「内」ケバルトになります。機動隊や警察や自分たちから見て別の組織に対する暴力は外ケバルトです。

警察は内ケバに何やってたの?

このような暴力に対して警察は機動隊を使って徹底的に対処しています。また、新左翼集団は公安の監視団体となり厳しい監視が行われていました。新左翼の1団体である日本赤軍は国際テロ集団としてアメリカから指定を受けていました。

内ゲバの歴史

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理想の社会を作るためには革命が必要だとする左翼組織が、革命という共通の最終目的を達成するために、国家や警察機構に対して表明した戦いの象徴のような言葉がケバルトでした。それが徐々に内向きな制裁に使われるようになります。

1950年頃の学生運動

内ケバのはじまりは1950年代の共産党の内部分裂に端を発します。1950年といえば終戦の真っただ中です。アメリカのGHQが日本国内を間接統治していた時代です。その時代の共産党内で派閥が二つに分かれ、学生運動の内部で内ケバに発展していきました。

日本共産党から新左翼が誕生

共産党から生まれた派閥に新左翼があります。新左翼は警察組織を国家の持つ暴力装置と捉え、これらに対する暴力や、現在でいうテロを公然と発表する最も過激な組織の一つでした。内部での統制も厳しく内ケバも激しかったといわれます。

新左翼内部の主なグループ

新左翼は古い左翼を既成左翼と呼び、より急性的で暴力もいとわない革命を思想に掲げた勢力です。既成左翼は日本共産党や社会党でした。新左翼は世界的な論争を巻き起こしたベトナム戦争や、安保闘争に先鋭的な関りを見せて支持を広げました。

中核派、革マル派、革労協など

日本の新左翼には、中核派、革マル派、革労協などがあります。過激なテロリズムや暴力性が高いことから過激派とか極左暴力集団と言われることも。特に上記の3団体は内ケバが激しく、お互いに殺人者を出す「戦争状態」でした。

総じてもとは同じ組織から分裂

もともとは共産党や社会党といった資本主義とは一線を画す社会主義的な思想を持つ保守とは違う左翼団体。それが中国共産党やスターリンの影響で急性的で暴力をいとわない「テロ組織化」していきます。スターリンや毛沢東が掲げた共産主義は戦争以外で数千万の死者を出したと計算されています。

内ゲバの全盛期

この内部暴力の全盛期は1960年代がら1970年代に最も多く発生しています。1969年に左翼内の内部暴力で初めての死者を出しそれ以降毎年死者を出し88年には22人の死亡者が出ています。もともとは同じ組織に属していた組織同士が殺し合いをしていったのです。

1960~70年代に頻発

左翼内の内部暴力で中核派と革マル派は最も凄惨な殺し合いを繰り広げた組織です。この組織も例にもれず根は同じ組織。1960年代にはリンチや殴り合いが目撃され、70年代になると全国の大学で殺し合いの惨劇が繰り広げられました。

殺し合いの状態に

左翼内の内部暴力は1977年に革労協の書記長が敵対する革マル派によって殺害されると最高の緊張を迎えます。革マル派はあらゆる左翼組織に内ケバを仕掛け、自分たち以外の勢力を弱体化させ権力の集中を図っていきました。

有名な内ゲバの事件

内ゲバの中でも社会に衝撃を与えた凄惨な事件を紹介します。連合赤軍によるあさま山荘事件や、革労協書記長内ゲバ殺人事件などがとくに有名ですがそれ以外にも殺人事件や傷害事件は無数に起きています。

新左翼内ゲバ事件

  • 71年、関西大学構内内ゲバ殺人事件:革マル派が中核派2名を殺害される
  • 71年、あさま山荘事件:連合赤軍が同志をリンチの末殺害する
  • 75年、中核派書記長内ゲバ殺人事件;敵対する革マル派によって中核派の指導者が殺される
  • 77年、革労協書記長内ゲバ殺人事件:革マル派が革労協書記長を殺す
  • 77年、浦和車両放火内ゲバ殺人事件:革労協が革マル派4人に火を付けて殺す

川崎市女子職員内ゲバ殺人事件

川崎市女子職員内ゲバ殺人事件は革マル派と中核派の激しい殺し合いという内ケバの中でも、初めて女性が殺されるという象徴的な事件です。この事件は中核派の書記長であった本多延嘉の殺害に対する報復的内ケバであると、中核派の機関誌で報じられました。

革労協書記長内ゲバ殺人事件の全貌

学生運動が盛んだった全共闘時代の事を知らない方のために、革労協書記長内ゲバ殺人事件の全貌を紹介してどのようにリンチが行われ何によって殺害をされたのかを紹介します。今の感覚では狂っているとしか思えませんが、当時の若者の多くは共感していたのです。

革労協の書記長を鉄パイプで撲殺

撲殺とは殴り殺すという意味です。1977年革労協の書記長が運転する車を革マル派が襲撃。鉄パイプで滅多打ちにするという内ケバ事件を起こします。被害者は救急搬送された病院で死亡が確認されます。鉄パイプで滅多打ちにするという衝撃的な殺し方です。

2か月後に報復事件発生!人が焼き殺される

2か月後に革労協は報復的内ケバ事件を起こします。それが浦和車両放火殺人事件です。被害にあったのは革マル派のメンバー4人。革マル派のメンバーは報復を恐れていたので車の窓ガラスに鉄板や金網で防護した特殊車両に乗っていました。

トラックで前後を挟んで車両にガソリンを流し込む

革マル派の車を前後トラックで挟み込むと約10人が車を囲みます。そして車両の窓からガソリンを注ぎ込み4人の被害者が乗車したまま火を付け焼き殺しました。戦争という表現がぴったりくる凄まじい内ケバです。

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内ゲバに関する悲劇的なエピソードも

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