金嬉老事件とはどういった事件なのか!?
金嬉老事件は戦後の昭和史でも非常に印象深い事件です。殺人や銃の乱射、16人の民間人を人質に88時間に及ぶ立て籠もりと内容自体も衝撃でしたが、当時の報道の過激さ、更には人種差別問題や国家機関もかかわってくる煩雑さがありました。平成が終わる前に、今一度この事件を紐解いてみましょう。
全ては金銭トラブルから始まる
ことの発端は金氏の借金から発展した金銭トラブルでした。借金は返済したものの、このとき担保として振り出した手形のトラブルによって暴力団からの取り立てに追われるようになったのです。金氏は逃げ回りましたがとうとう居場所を知られてしまい、静岡県にあるクラブ「みんくす」で会うことになりました。
暴力団をライフル銃で殺害
金氏はクラブで暴力団稲川組の二人と話し合うも口論になります。更に在日朝鮮人であることを侮蔑された金氏は「電話をかける」と言って席をはずし、車に積んでいたライフルを持って店に戻ると暴力団の二人に乱射しました。一人は心臓を撃ち抜かれて即死、もう一人も数時間後に死亡しました。暴力団の二人のうち一人は未成年だったといいます。
監禁事件に発展
暴力団の二人を殺害したのち金氏は逃亡し、翌日、静岡県榛原郡本川根町の寸又峡温泉旅館である「ふじみや旅館」に入り、旅館を経営していた家族6人と宿泊客10人の合わせて16人を人質として立て籠もりを開始しました。金氏はライフル銃に1200発の実弾、13本のダイナマイトで武装していたため警察も容易に近寄れませんでした。
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金嬉老事件最大の山場!ふじみや旅館立て籠もりの詳細
金氏はふじみや旅館に立て籠もり始めてすぐ、なんと自ら警察に通報し、居場所まで伝えました。あえて警察を呼び寄せたともいえます。金氏は駆け付けた警察へ人質解放の要件を提示し、ここから警察との駆け引き、そしてマスコミの報道合戦が始まります。
かつてない銃の乱射
銃規制が厳しい日本において過去にないほど、金氏は何度も銃を乱射しています。2日目には空に向かって10発、3日目にも40発も撃っています。更に4日目には「銃を撃ってください」というマスコミからの要望にも応えて、空へ数発撃っています。また、電話での挑発的な言葉にも激高して何度か銃を撃っています。
しかしこのマスコミからの要望は金氏に撃たれて逃げるヘリコプターを演出するような撮影の仕方だったため、のちに裁判の意見陳述で金氏がそのマスコミの報道の裏側を暴露し、不満を述べています。
異常に加熱する報道機関
各新聞・テレビ・ラジオなどのメディアにより事件は連日実況中継されました。金氏が取材に対し好意的であったことから、マスコミ記者も旅館へ取材に入って金氏へインタビューしたり旅館へ生電話をかけたり、スクープ合戦といえる白熱ぶりでした。報道の過激さは前述した「銃を撃ってくれ」という要望にまで発展しています。
韓国では
金氏の出身国である韓国でも、この事件は大々的に報道されました。金氏が自身の受けた差別や、そのほか在日朝鮮人に対する差別などを問題として公に謝罪を訴えたことから、殺人を犯したにも関わらず人種差別に立ち向かったとして英雄視されました。
警察との熾烈な駆け引き
人質解放にあたり、金氏は清水署の警察官が行った差別発言への謝罪、そしてNHKと静岡新聞の記者会見を要求しました。警察官による謝罪はテレビを通じて行われましたが不十分であるとして認めませんでした。その後も自分の手記や遺書を渡したり自殺をほのめかしたり銃で威嚇するなど、警察との睨み合いは続きました。
金嬉老ついに逮捕!その意外な逮捕劇
銃やダイナマイトで武装し、警察も旅館内に乗り込むことができないまま膠着状態が続きましたが、ついに逮捕へと踏み切ります。その逮捕は意外な方法で、かたくなに警察を警戒し武装を解かなかった金氏の唯一の油断をついたものでした。
籠城中の驚くべき行動
一般の犯罪では考えられないほど、金氏は籠城中に何度も記者会見を行ったりテレビに出演して主張を訴えました。「こっちからの方がいい写真が撮れる」とカメラマンを誘導する場面もあったといいます。また人質の人々と雑談したりライフルを傍に置いて入浴したりと、事件とは思えないほど自由な行動をしていました。
一瞬の隙をついた犯人確保
金氏が籠城を始めてから5日目、体調不良を訴える一人の人質を解放するために旅館の玄関前へ出てきたところを、記者に変装しまぎれていた私服警察官に取り押さえられました。報道陣を警戒していなかったことによる一瞬の隙をついた逮捕といえます。こうして88時間に及ぶ籠城は幕引きとなりました。
人質になった人の談話
当時人質になった人の話によると、「人質には比較的自由が与えられていた」といいます。危害を加える気はなく、食事や麻雀なども自由で共に談笑したり取材に来た記者と寝泊まりしたりと、まるで一種の同居生活のようであったそうです。銃を突き付けられたり脅されることもなかったといいます。
裁判の判決とそこから見えてきた金嬉老という男
逮捕後、金氏の身柄は静岡刑務所の未決監独房へと移され、静岡地裁にて裁判が始まります。金氏は事件中だけでなく裁判中も注目されました。裁判には起訴されてから有罪確定まで、7年の年月がかかりました。
裁判で議論された事
1968年3月、金氏は殺人罪や逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反など7つの罪で起訴されました。裁判では、籠城中何度も訴えた在日朝鮮人への差別という部分、すなわち金氏の在日朝鮮人としての生い立ちがこの一連の事件にどれだけの影響を与えたかという点が争われました。
裁判では無期懲役判決
1972年6月、検察側が死刑を求刑したのに対して、静岡地裁は無期懲役の判決を言い渡しました。検察・弁護両側が控訴しましたが1974年6月に東京高裁で控訴棄却され、さらに上告したものの1975年11月に最高裁で上告棄却され、金氏の無期懲役が確定しました。金氏は千葉刑務所などで約24年に渡り服役しました。
裁判中に見えてきた金という男
裁判で金氏は人質事件で迷惑をかけたことを謝罪するとともに、自身の生い立ちや受けてきた差別などについて意見陳述をしました。これには多くの人々が動かされましたが、一方で英雄像からかけ離れた実態もありました。
拘置所内での特別待遇
金氏は面会が自由だったほか、通常は入手できない出刃包丁ややすり、ライターなどを所持していました。金氏が何度も自殺をほのめかして看守から差し入れされ、規則違反が段々エスカレートしていったためです。包丁を差し入れた看守は厳罰を受け自殺しますが、金氏は何の反応もなかったそうです。
また、特別弁護人が今回の事件について「差別を受けても他の人たちは殺人をしていない。民族差別だけでなく、金氏自身にも問題があるのではないか」という旨の発言をしたところ、金氏は「日本人にそんなことを言われる筋合いはない」「他の朝鮮人は勇気がない」という旨の発言をしたといいます。
金嬉老事件で使われた凶器
金嬉老事件では金氏が暴力団二人を射殺したり立て籠もり時の武装としてライフルを使ったりしています。銃刀法による取り締まりが厳しい日本で使われたライフルは一体どのようなものだったのでしょうか?また、手に入れることができるものなのでしょうか?
狩猟用・スポーツ用だった豊和M300
犯行に使われた銃は「豊和M300」という、豊和工業で製造されている小型自動小銃です。「ホーワカービン」という名前でも知られます。アメリカで設計された軍用自動小銃M1・M2カービンの銃をもとに改良され、狩猟用やスポーツ用として使われていました。
悪用され銃刀法が改正に
金嬉老事件以外に1965年に起きた少年ライフル魔事件でもこの銃が使われ、多くの人が殺傷されました。これらの事件を受けて銃刀法が改正され、銃を持つことは困難となりました。免許がなく銃を所持すると、それだけで懲役刑や罰金刑になります。