昭和の劇場型犯罪!「金嬉老事件」の全てと犯人の人物像、その後をご紹介

各新聞・テレビ・ラジオなどのメディアにより事件は連日実況中継されました。金氏が取材に対し好意的であったことから、マスコミ記者も旅館へ取材に入って金氏へインタビューしたり旅館へ生電話をかけたり、スクープ合戦といえる白熱ぶりでした。報道の過激さは前述した「銃を撃ってくれ」という要望にまで発展しています。

韓国では

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金氏の出身国である韓国でも、この事件は大々的に報道されました。金氏が自身の受けた差別や、そのほか在日朝鮮人に対する差別などを問題として公に謝罪を訴えたことから、殺人を犯したにも関わらず人種差別に立ち向かったとして英雄視されました。

警察との熾烈な駆け引き

人質解放にあたり、金氏は清水署の警察官が行った差別発言への謝罪、そしてNHKと静岡新聞の記者会見を要求しました。警察官による謝罪はテレビを通じて行われましたが不十分であるとして認めませんでした。その後も自分の手記や遺書を渡したり自殺をほのめかしたり銃で威嚇するなど、警察との睨み合いは続きました。

金嬉老ついに逮捕!その意外な逮捕劇

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銃やダイナマイトで武装し、警察も旅館内に乗り込むことができないまま膠着状態が続きましたが、ついに逮捕へと踏み切ります。その逮捕は意外な方法で、かたくなに警察を警戒し武装を解かなかった金氏の唯一の油断をついたものでした。

籠城中の驚くべき行動

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一般の犯罪では考えられないほど、金氏は籠城中に何度も記者会見を行ったりテレビに出演して主張を訴えました。「こっちからの方がいい写真が撮れる」とカメラマンを誘導する場面もあったといいます。また人質の人々と雑談したりライフルを傍に置いて入浴したりと、事件とは思えないほど自由な行動をしていました。

一瞬の隙をついた犯人確保

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金氏が籠城を始めてから5日目、体調不良を訴える一人の人質を解放するために旅館の玄関前へ出てきたところを、記者に変装しまぎれていた私服警察官に取り押さえられました。報道陣を警戒していなかったことによる一瞬の隙をついた逮捕といえます。こうして88時間に及ぶ籠城は幕引きとなりました。

人質になった人の談話

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当時人質になった人の話によると、「人質には比較的自由が与えられていた」といいます。危害を加える気はなく、食事や麻雀なども自由で共に談笑したり取材に来た記者と寝泊まりしたりと、まるで一種の同居生活のようであったそうです。銃を突き付けられたり脅されることもなかったといいます。

裁判の判決とそこから見えてきた金嬉老という男

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逮捕後、金氏の身柄は静岡刑務所の未決監独房へと移され、静岡地裁にて裁判が始まります。金氏は事件中だけでなく裁判中も注目されました。裁判には起訴されてから有罪確定まで、7年の年月がかかりました。

裁判で議論された事

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1968年3月、金氏は殺人罪や逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反など7つの罪で起訴されました。裁判では、籠城中何度も訴えた在日朝鮮人への差別という部分、すなわち金氏の在日朝鮮人としての生い立ちがこの一連の事件にどれだけの影響を与えたかという点が争われました。

裁判では無期懲役判決

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1972年6月、検察側が死刑を求刑したのに対して、静岡地裁は無期懲役の判決を言い渡しました。検察・弁護両側が控訴しましたが1974年6月に東京高裁で控訴棄却され、さらに上告したものの1975年11月に最高裁で上告棄却され、金氏の無期懲役が確定しました。金氏は千葉刑務所などで約24年に渡り服役しました。

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