金嬉老事件以降、警察でも犯人の制圧や人質があった場合救出するために狙撃部隊が結成されました。狙撃隊は2年後の1970年に発生した瀬戸内シージャック事件で初出動し、活躍しています。現在もテロ対策のために日々訓練を行っており、自衛隊との共同訓練も行われています。
狙撃隊で使われる銃
最初に使われたのは「豊和ゴールデンペア」というライフルです。豊和M300とは異なり、ボルトアクション方式の新型狩猟用ライフルです。1967年に初披露され、アメリカと日本で販売されることとなりました。その後フルモデルチェンジした「豊和M1500」が発売されたため、そちらが使われるようになりました。
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壮絶な人生!金嬉老とはこういう男だった
殺人事件、監禁事件を引き起こした金嬉老氏はどういう人物だったのでしょうか。裁判での争点にもなった在日朝鮮人としての生い立ち、そしてその中で形成されていった金嬉老氏の人格について迫ります。
金嬉老のプロフィール
金氏は1928年、静岡県の清水市に在日二世として生まれました。父親を幼い頃に事故で亡くしたため、母親の屑広いのわずかな稼ぎで生計を立てていました。そのため、幼少期は極貧生活で、金氏も母親について仕事を手伝っていました。
尋常小学校時代
当時小学校に在日朝鮮人は4~5人とわずかな割合でした。朝鮮人とからかわれ、弁当を床へひっくり返されたりと同級生や担任教師などからいじめや差別を受けていました。金氏は5年生で中退し、丁稚奉公に出ます。しかし定職につくことがかなわず、度々犯罪を犯して逮捕され刑務所や少年院に入ることを繰り返していました。
金嬉老の人物像
幼少期から、いじめてきた同級生に対して年上であっても対抗したり取っ組み合いをしたりと喧嘩っ早い性格であったことが窺えます。また、家庭が貧困だったことに劣等感があったためか、小学校中退後は詐欺や窃盗、強盗などの金銭にかかわる犯罪で何度も逮捕されており、人生の大半を刑務所で過ごしたともいわれています。
金嬉老の事件後から没後まで
1999年9月、金氏は韓国に渡航することを条件に仮出所しました。韓国政府の援助もあり、母親の故郷である釜山で新生活を始めることになります。韓国での人気は高く映画を作られるほどでした。日本の親族からの仕送りもあり不自由ない暮らしでしたが、この生活も順調にはいきませんでした。
夫人の窃盗・逃亡
1979年に金氏はある女性と獄中結婚をしていました。釜山ではこの夫人とともに暮らし始めていましたが、2000年の4月頃、夫人が現金や預金通帳を含め約600万円を窃盗し、行方を眩ませました。夫人は指名手配され、約1年半後に窃盗・私文書偽造容疑で逮捕されます。
金氏の再逮捕
金氏自身も、この年の9月に内縁関係となった女性の夫を殺害しようと計画して夫の自宅へ押し入り、約1時間に渡って監禁し、竹やりで脅したり布団に火を点けたりしました。この事件で金氏は殺人未遂、放火、監禁などの罪に問われて逮捕され、2年6ヶ月の懲役刑になります。これがきっかけで金氏の人気は地に落ちてしまいます。
金氏の晩年
晩年は日本にある母親の墓参りに行くことを理由として、韓国政府を通じて日本へ入国許可申請を出していました。しかしそれは叶わず、2010年に前立腺がんを患い、釜山市内の病院で亡くなりました。享年は82歳でした。
韓国人のルーツについてはこちら
事件の舞台となった「ふじみや旅館」
金氏が立て籠もり事件を起こした「ふじみや旅館」は明治時代に創業した旅館でした。もともとダム工事で訪れる職人たちが止まりに来る温泉宿として人気でしたが、金嬉老事件を気に知名度が上がり、館内の一室には事件当時の写真資料が展示されるなどしていました。
金氏に追悼の意を示した女将
金氏が亡くなったことで様々なメディアがふじみや旅館へ訪れましたが、女将は旅館を閉め取材には応じませんでした。その中で韓国メディアからの取材には応じています。当時のことはもう終わったことであり、口にしたくないという思いがありながらもインタビューに答えました。その中で、金氏への追悼の意を示しています。
「金氏の突然の死亡ニュースを耳にしてびっくりした」と言い、「悪縁ではあったけど、天国で平穏に暮らすことを祈る」として、憐憫を情を示した。望月氏は、「いやおう無しに、私の人生の半分以上を金嬉老事件と一緒に暮らしてきたことになる」と言い、「40年余りが過ぎた出来事を、いまさら口にしたくはない。もはや全て終わったことだ」と、気持ちを打ち明けた。権氏が韓国に戻った後のいかがわしい事件も耳にしたようだった。「金氏が帰国後、幸せな余生を暮らすことを願ったが、そうでもなかったらしく、残念だ」と話した。引用:東亜日報
ふじみや旅館は2012年に廃業
残念ながら、このふじみや旅館は2012年の2月で廃業しています。観光客や長期滞在の客が減ったことと女将の高齢化により経営が難しくなったことが理由です。しかし建物自体や案内図にはまだ名前が残っており、夏などには大勢の観光客が訪れているようです。
ビートたけしが金嬉老事件を実写化!
金嬉老事件は日本や韓国で様々な小説や映画になりましたが、有名なのは金嬉老事件をもとに書かれたノンフィクション小説である「私戦」を原作としたドラマで、ビートたけしが金氏を演じた「金の戦争」です。この映画のことは金氏も知っており、金氏からビートたけしへ手紙が送られています。
なお、金が日本で服役中の1992年には、本田靖春のノンフィクション『私戦』をドラマ化した『実録犯罪史 金(キム)の戦争』がビートたけし主演で放送され、大きな反響を呼んだ。金は日本を離れる前に成田空港からたけし宛てに手紙をしたため、そこには「演じてくれてありがとう」と書かれていたという。引用:文春オンライン
実写化ドラマの見所をご紹介
当時の一方的な報道のように安易な差別糾弾や金氏をただ英雄視する作りではなく、この事件が起きたきっかけである時代背景や金嬉老の人格を客観的かつ冷静に描いたストーリーが魅力です。そのため、当時の事件について真に迫るものがあります。また金嬉老の怒りや葛藤を熱演するビートたけしの演技も見どころです。
何故ビートたけしは殺人者を演じるのか?
ビートたけしは「金の戦争」の他にも多くの犯罪者や殺人者をの役を担い、犯罪を犯す人間の苦悩や変貌していく様子などを見事に演じています。その人物になりきるのではなく、素で演じる中でその役柄が出てくる、という演技だからこそ、こうした複雑な背景をもつ人物を演じているのだと感じます。
また、たけし自身、まだ俳優よりお笑い芸人としてのイメージが強かった時代、自分の出てきたシーンで爆笑が起きたことにショックを受けたといいます。そこで、善と悪両方のイメージを持たせるために、悪人も演じるようになったそうです。
金嬉老と静岡県掛川市の深い関係が!
金氏の生まれは静岡県清水市でした。殺人事件を起こしたのも同じ清水市で、監禁事件を起こしたのは榛原郡です。実は事件前には掛川市に住んでおり、金氏の母親も掛川市に住んでいました。掛川市も金氏と深く関係していたのです。
掛川市とはこういう所だった
金氏の幼少期は戦時中で、韓国が日本の植民地となっていた時代であり、来日する朝鮮人も少なくありませんでした。いつ金氏の一家が清水から掛川に移り住んだのかは明らかになっていませんが、掛川には軍需工場があり、飛行機の工場を建設していたことからそこに動員されていたと考えられています。
金氏の母親について
金氏の母親は東京で金氏の父親と結婚し、清水市に移り住みました。金氏の父親が亡くなってからは女手一つわずかな稼ぎで生計を立て、金氏ら4人の子どもを育てました。のちに再婚し、金氏の服役中は掛川駅前で韓国料理屋を経営していたといいます。掛川市で亡くなり、墓も同市にあります。
金氏の遺骨は掛川市に納骨されている
金氏は亡くなる直前、遺言で火葬を希望し、遺骨の半分を釜山影島沖に撒き、もう半分を掛川市にある母親の墓に納骨してほしいと希望したそうです。2010年3月28日に葬儀ののち火葬され、遺言の通り掛川市に納骨されたとのことです。
事件の裏には国も絡む出来事や様々なドラマが。日本人なら是非知っておきたい事件
事件から50年以上経ち、遠い時代の出来事となりつつありますが、複雑な人種問題や国が関わる事件です。在日の外国人が増えている今だからこそこのような事件が起きないよう、もう一度記憶する必要があります。興味を持ったら是非ドラマで見てみてください。