わるぐち(わるくち)ではなく、こちらでは「あっく」と読みます。悪し様に貶すこと、他人を罵倒すること、蔑んだ言葉を使い他者を酷く侮辱すること、汚い言葉で怒鳴る、などといった意味があります。
綺語
きご、または、きぎょ。言葉巧みに飾り偽ること、またそのさま。その他ありもしないことをまるで真実かのように話すこと。簡単に言ってしまえば嘘をつくことですが、「綺麗な言葉」と書いてある通り「綺麗に飾り立てられた嘘」のことを言います。
十悪『意業』
こちらは心の・意思の行い、と説明させて頂きました。こちらの分類は少々難しく、「考えて動く」ことと混同しがちです。こちらには十のうち三つの悪業が当てはまります。「貪欲、瞋恚、愚痴・邪見」、こちらではこれについての読みと、その内容について詳しく解説致します。
貪欲
どんよく。「欲張る」とニュアンスがやや似ているため、「貪る」という表現を使うとイメージがわきやすいかもしれません。これは相手から飽くなく色々なものを欲し続ける心(貪取)を意味します。
瞋恚
しんに。こちらは「自身の勝手のために怒る」ことを意味し、その内容は怒りは自分のわがままが通らないため、思うようにいかないために、意思が通らないために、またひがむ心が勝って「怒る」ことを指します。
愚痴・邪見
ぐち、または、じゃけん。愚かさを意味し、捻くれた見方で相手の言葉を受け止めたり、目先の事象に執着を抱くことで先々を見通す広い心を持てないこと、邪な考えを押し通し因果の道理を無視することを指します。
業の分類③『表業と無表業』
ひょうごう、むひょうごう、と読みます。ここまで三種類に分類した「三業」について解説させて頂きましたが、更に分類は深まり、その行いには「表と無表」があるとされます。それはどういった分類なのかを解説致します。
表業
その者の表に表れる行いのことを指します。これは「外面」に表れ、他者から認識されるような行いのことをいいます。例えば見たり、聞いたりする行動。これらは表に表れ、他人から認識される行動として分類されます。
無表業
ではこちらはどういったことを指すのでしょう?こちらは他者から認識されないもの、示すことのできない行い、内面に潜む行為のことです。誰かに腹を立てたとき、それを表に出さず自分の心の中に押しとどめた経験は誰にでもあるでしょう。無表業とはそういった心の内面で起きたことを表しています。
五業
また「意業、表業(身業・口業)、裏表業(身業・口業)」の五種を合わせて「五業」と呼びます。表業は身業・口業のように「他者から認識される動き」のことをいうため、裏表業の二種についてはその表業の余韻のことを指します。
業が深い人の特徴
ここまで様々な分類を解説致しました。大まかに言ってしまえば、人間の行いを細かく分類したものですが、次はその具体的な例を見てみましょう。特に悪い行いについての例を挙げますので、普段の行いを思い返し、良い業を深めるきっかけにしてみてください。
自己顕示欲が強い
自分の存在を殊更に周囲へアピールすること。昨今、SNSの普及により、このケースを見る機会が増えてきています。例えば、他者の言葉、または画像を用いて「いいね」をもらおうとする。ありもしない景品をプレゼントすると嘘をつき(綺語)多くの人に反応してもらうなど。
強欲である
非常に欲が深いことをいいます。一つの欲が非常に強い、またはあらゆる種の強い欲を持っていると強欲とされ、その欲は金銭、男女、食など多岐にわたります。ことお金に対しがめつい人ほどこう言われることが多いように見受けられます。
嫉妬深い
これは恋愛において言われることが多いのではないでしょうか。昨今、あらゆる連絡手段が増えてきたため、異性との連絡について厳しく禁止する人も多いです。可愛い嫉妬ならまだしも、仕事において重要な相手との連絡まで禁止された、などといったケースとなると、それは嫉妬深いと言わざるを得ないでしょう。
業を深めない為には?
では、そういった悪業を重ね、業を深めないためにはどう生きるべきなのでしょう。人によってその生き方は様々であるべきですが、善い人間でいることはどの人生においても重要といえます。善い人間になるためには、ひいては業を深めないためには何をすべきかを挙げていきましょう。
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人にやさしくする
まず、善い行いをしていくことが一番の近道です。何かひとつをすれば善い人間になれるわけではありません。毎日の積み重ねが重要だといえるでしょう。日常的にこなしていける善行といえば、人にやさしくあること、敬愛すること、尊重することなどでしょう。
謙虚に生活する
周囲の評価に惑わされてはいけません。見ず知らずの人にまで自分を異様に良く見せようとする必要もないのです。見栄や虚栄心を捨て、ありのままの自分に確かな自信をもって生きることこそが大切だといえます。
欲張らない
欲の深い人間であってはいけません。欲を出しすぎて、手元が留守になってはいけません。必要な分をしっかり手堅く守っていくことが大切です。また人と分かち合う心、譲り合う心を持つと皆が豊かになるでしょう。
他人を妬まない
他人の境遇、成功、能力を妬んではいけません。結果もそうですが、その過程もまた重要なのです。他人を妬まず、まずは自分のために努力することが大切です。妬むことを心の習慣にすると、自分のために努力のできない人間になりかねません。
『果報は寝て待て』
上記でも述べたように、果報とは業の対になる言葉です。果報、といえばこの「果報は寝て待て」のことわざがメジャーでしょう。このことわざの意味、また仏教との関連性について解説させて頂きます。
『果報は寝て待て』の意味
「寝て待て」といっても、怠け、本当の意味で寝転がっていればよいというわけではありません。「運の力というものは、人の力ではどうにもできないもの。全力を尽くしたあとは、気長に待つしかない」という意味として使われます。
仏教としての『果報』
ではこの言葉についてですが、仏教の教えとしての意味は、前世で行った結果により生じた報いのことを指します。良い行いというものは必ずどこかで報いをもたらす、という教えからきており、それは現世のみならず、来世である可能性もあります。
また前世での行いが現世に影響をもたらし、果報として返ってくることもあります。巡り巡って、人の行い(業)というものは自身に影響をもたらすのです。その形がどんなものになるのかは貴方の行動次第、ということ。これを仏教では「因果応報」と説くのです。
業を深めるなら良い行いで!
業が深い。現在の使われ方を見ると、ネガティヴなイメージが強かった言葉ですが、元々は「行う」ことを示す言葉です。深める業は果報(その行いによって生じる報い)にするために、良い行いを心がけていくと、幸せな人生を歩めるかもしれません。
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