メッセンジャー黒田の人生は波乱万丈
彼について知らいない方はほとんどいないのでは無いでしょうか。苦労を乗り越えお笑い芸人として成功し逮捕、またのし上がり有名人と交際、最近ではおめでたい話題まで出ています。彼の人生について、魅力も含めて覗いてみましょう。
メッセンジャー黒田とはどんな人?
冒頭でお伝えしたとおりお笑い芸人を職業とし、各メディアで頑張って生活しています。コンビで1991年に結成しており芸歴も相当長いベテランです。特徴的なダミ声ですが吉本では麒麟の川島が入るまでは自称エエ声と言ってまわっています。。
お笑いコンビメッセンジャーのボケを担当
コンビではボケ担当ですが多才であるのと相方が天然なのもあり、ネタの随所で適宜にツッコミを入れる有能さが目立ちます。間の詰め方もよく、思わず彼のしゃべる一言で笑いが漏れてしまう人も少なくないのでは無いでしょうか。
大阪で認められ頭角を現す
そんな彼らはメキメキと大阪で才能を発揮しトントンびょうしに世間の目に触れられる機会に恵まれます。お笑いの世界では才能があってもタイミングや運に見放され中々芽が出ない芸人も少なくありません。簡単に経歴を紹介しましょう。
- 黒田有(くろだたもつ)大阪府東大阪市出身
- 1970年1月29日産まれ
- 高校就職後、板前に就職する
- 1991年大阪NSC10期生となり相方(あいはら雅一)とコンビ結成
- 2006年「ROPE」舞台・主演
- 2007年1月ドラマ「誰がパパやねん」に出演。脚本も担当
ここまで人気芸人の道をまっしぐらに突っ走っていった彼らですが残念ながら本人たちも予想しなかった事件が起こるのです。この事に関しては後述致しますが黒田はそれまでにもたくさんの苦労を乗り越えてきています。この事件が彼にとってどの様な影響を及ぼしたのでしょう。
メッセンジャー黒田は子供の頃は超貧乏だった?
芸人仲間ではとても有名な話ですが黒田は幼い時に尋常じゃない極貧生活を過ごしたと本人が公言しています。極貧も通り越して「赤貧」とも名言しており、かつて大ブレイクを起こした麒麟田村の「ホームレス中学生」にちなんで死後は戒名、遺品なども相方にすべて預けてあるのだとか。
貧乏な家庭で育った
どれだけ貧乏だったのかネタにもよく登場して来るのですが、エピソードが沢山有りすぎるのも困り物です。大人になった今でも詳細を語れるくらい彼の小さな背中に背負って来たものは大きかったでしょう。それをすべて受け止め笑いに変えてしまう所も魅力の一つですね。
両親は幼いころに離婚
黒田の両親は幼い頃に離婚したと有ります。原因は父親にあり、ピアノを購入し横流し、商売に手を出すなどお金に関する失敗が耐えなかった為と言われています。離婚しても子供4人と母親、五人での生活が豊かになるはずもなく逆境に耐える日々が始まるのです。
借金の取り立ては日常的にあった
今は法律などに守られ極端な取り立てが禁止されていますが、当時は無法地帯で母親一人で怖い取り立て屋とやり取りし4人の子ども達はトイレに逃げ込んでいました。ボットン便所に逃げむのですがお金が無かった為バキュームカーが取りに来てない状態なのでそれは悲惨な有様だったそうです。
壮絶!メッセンジャー黒田の貧乏エピソード①
今はネタとして番組やラジオなどで面白おかしく話している黒田ですが具体的にどの様な生活を送ってきたのでしょう。度々ネタでも「お前の価値観は違うんじゃ」と言われるほど染み付いてしまった生活。今だからこそ言える話なのでしょうが壮絶です。
腹を空かせたねずみに耳をかじられる
最も有名な話が現在の黒田を見ても確認出来るほどの跡を残したエピソードです。幼少期の彼の家はあまりに食べるものがなく、住みついたねずみさえ餌を求めても無いので黒田の左耳たぶにかじりつくと言う始末でした。今でもしっかりと耳たぶ切れているのが確認出来ます。
そんな状態なのにも関わらず当の本人は幼少だった為か「どうしたの」と聞かれるとねずみにかじられたことを告げ「だから自分はリアルドラえもんなんだ」と答えていたそうです。幼少なのが幸いでしたが、トラウマになってもおかしくないですね。
天かす欲しさに店の前で二時間待つ
激しい雨や風、台風の日は皆家にこもって出てこなくなってしまうものです。そんな台風の日に外に出てびしょ濡れになりダボダボのTシャツが張り付いてスカートに見えてしまうくらいの少年が一人、黒田でした。なんと店の前で二時間、天かすを貰うために待っていたのです。
店主もお手あげで多めに天かすを渡したと後に供述してます。人情の大阪とは言いますが昔話でもなく本当にこんな事があるとは夢にも思わないでしょう。食べるためとは言えそんな行動に出てしまうほど生活は圧迫していたのです。
父親が送った養育費はみかん箱
別れた父親が唯一送ってきたのがみかん1箱です。どうやら父親は近くに住んでたようですが別の女の人と生活をしていたようです。子供4人いるのにみかん一箱が養育費って今では考えられないですよね。後に義理の妹と再会してびっくりしたとテレビの番組で話しています。
壮絶!メッセンジャー黒田の貧乏エピソード②
まだまだ余りあるエピソードの中でも印象に残ったものを紹介していきます。一つ一つのエピソードに彼を作り出す要素や人間性が垣間見れます。こんな経験をしてきたのにそう感じさせない才能が芸人としての彼を引き立たせていると感嘆するばかりです。
お好み焼き屋の店員に500円貰う
当時の500円は彼にとっては相当な価値があったことでしょう。冬空の下、短パンとTシャツで握り拳を上にかかげそこからは血が滴りおちている、一見凛々しく見えてその小さな背中に衝動的にお年玉を渡してしまったお好み焼き屋の店員の気持ちが痛いほど伝わります。
貧乏を理由に母親に2回捨てられる
笑って済ませられる話でも無いですが、実際この事実を黒田が知ったのは23歳の時でショックで2日間泣き続けたそうです。1回目は神社に捨てられた所を兄に救われ、2回目は高架下に捨てられそこもまた兄に救われたといいます。
父親は餓死
さらっとしか黒田も語らないのですがお父さんの死因は餓死だそうです。この時代に餓死とは中々聞かない話ですね。またお母さんと別れてからお付き合いした女性やその子供の行く末も気になる所です。ですが離婚して新しい家族もいるので多くを語らないのでしょうか。
クラスメイトのカンパで修学旅行に参加
お金が無い為、修学旅行に行くのを諦めていた所、クラスメイトがカンパして修学旅行に行けたとのホッコリするエピソードまでありました。貧乏でもどことなく話しやすく裏表のない彼は大事にされていたんでしょう。全力で楽しんだそうです。
メッセンジャー黒田、2009年に暴力事件で逮捕
そして、ついにお笑い芸人として順調に歩んできた黒田に影がさす事件が起こります。2009年12月26日、これからと言う時にトラブルを起こし芸人自体も謹慎処分が下される結果となるのです。その事件とはどんなものだったのでしょう。
大阪のガールズバーで店長に暴行
事件は、黒田が知人と訪れたガールズバーで会計の際に起きました。予想に反した金額を請求されたことに激昂し同席していた知人含めて店長に暴行を加えるといった内容でした。後に4人で25万請求されたと証言しておりぼったくりバーに運悪く引っかかった結末となりました。
暴力事件を受けて芸能活動を自粛
当初全治2ヶ月と言われていた怪我も示談後には2週間に訂正されましたが世間に与えた影響は大きく吉本興業本社で記者会見をすることになります。示談が済んて保釈されたとは言えレギュラー番組を何本も持ち実際に放送中止になった映像もあるためこのまま謹慎処分となり勢いを保つことは出来ませんでした。
暴力事件の時相方は?
黒田はピン芸人ではなくコンビです。相方が不祥事を起こした時に矢面にたたされるのは他でもないもう一人のあいはら雅一でした。事件を起こした時の行動やコンビ仲、またどんな人なのか黒田自身を知っていただく為にも彼の存在は欠かせません。
相方はどんな人?
あいはら雅一は黒田よりひとつ下になり1969年9月6日産まれです。過激&毒舌トークを得意とし、特異体質として自身のエロトークで持病の蓄膿症が発症し鼻声になると言われています。芸人仲間や後輩からは慕われてブラックマヨネーズ小杉やすっちーなどからは頼りになる存在としてのコメントも残っています。
コンビ仲についてはインタビューで「今まで解散を考えたことはないのか?」の問いに29歳か30歳くらいの頃に黒田一人に仕事が回り始めてすごいスピードで走っていく姿に追いつけなくて危なかったと答えています。お前もあがってこいと言われた様に感じたと前向きに締めくくりコンビ仲も良好だと伺わせる一面でした。
事件を受けての対応
事件後は生放送ラジオ「それゆけ!メッセンジャー」、「かんさい情報ネットten!」であいはらが謝罪する事となりました。「なんぼDEなんぼ」の特別番組はドラマの再放送に差し替えられました。謹慎中の黒田の帰る場所を保つためにピンで頑張っている姿が印象的でした。
メッセンジャー黒田、2010年に復帰して現在はレギュラー番組多数
そんな相方に支えられ異例の早さで復帰という形を迎えられることが出来た黒田でした。無期限謹慎処分を言い渡され1年ほど経っていましたが、本人はペン習字を習ったりDVDを見たりのんびり過ごす事も出来たそうです。この時期に恩人とされているやしきたかじんさんとご飯に行った事も有名です。