【狭山事件】真犯人や真相を検証!トトロのモチーフ?石川一雄の現在は?

多くの謎が隠された狭山事件。1963年に発生し高校生誘拐殺人事件で、映画「となりのトトロ」のモチーフではないかとも噂された事件です。また狭山事件は冤罪事件としても知られており、犯人とされた石川一雄氏の他に真犯人がいるのではないかとの噂も。その真相と現在は?

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好奇心に突き動かされてただひたすら忙しい日々を送っています。
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「となりのトトロ」のモチーフになった事件?狭山事件とは

事件 結末

のどかな田園地帯にそぐわない国を揺るがすような事件が起こりました。なぜ埼玉の静かな田舎で、後世にまで語り継がれる事件が起こってしまったのか、もう1度振り返り、ひとつずつ紐解いてゆきます。

狭山事件とは1963年に起きた女子高生誘拐殺人事件

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狭山事件は1963年に埼玉県の狭山市で起こった高校生の女子誘拐殺人事件ですが、多くの問題を含んでいるのです。人や国やモラルが重くのしかかります。実際に起こった事件です。私たちは知っておくことしかできません。

部落の差別が生んだ冤罪事件?狭山事件の真犯人とは

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日本には今でも部落問題が根強く残っています。当時は今よりも深刻な差別問題がありました。現代に生きる我々にとっては忘れるべきか記憶にとどめるべきか考えさせられる事件です。部落問題は話に聞く程度しか知りません。誰がどんな差別をしているのか見えないのです。

狭山事件とはそんな背景が強く残る事件です。そして令和の時代になってもまだ続いている事件です。知らないではいられません。今でも部落解放同盟があり、差別を受けていると訴えている人々がいますが、隠されているこの国の暗部でしょうか?

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狭山事件について時系列順に紹介①中田善枝さん5月1日に誘拐される

狭山事件は56年たった現在でも多くの謎に包まれています。被害者の高校1年生は、抵抗することもなく、強姦され殺害されています。噂は噂の域のまま証拠は提出されても証拠とは見なされません。周りでは殺害されたり自殺者が何人も出ています。

1963年5月1日は被害者女性・中田善枝さんの誕生日だった

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1963年今から56年前のことです。5月1日は中田善枝さん16歳の誕生日の日です。外は激しい雨が降り、善枝さんは高校から夕方になっても帰って来ません。いつもは17時半には帰宅しています。今日は善枝さんの誕生日ですが、家では特にお祝いをする予定はありません。

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家族構成は父(明治38年〜平成2年)、 母(明治41年〜昭和28年)、長女(昭和9年〜結婚して子供がいますが、事件の8年から9年前に家を出て現在不明)、長男(昭和12年〜存命)、次女(昭和15年〜昭和39年24歳で自殺)。

3女(昭和16年〜昭和18年3歳)、次男(昭和19年〜昭和52年33歳自殺)、4女(昭和22年〜昭和38年16歳この事件の被害者)、三男(昭和27年前〜養子に出て不明)。3男4女ですが、長男以外は死亡しているか、他家に出ています。

学校から帰宅しない善枝さんを長男が迎えに行く

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18時50分に長男が車を出し、高校まで迎えに行きました。高校は県立川越高校の入間川分校です。19時50分に学校に到着して、用務員さんに安否を聞きました。すでに学校は出た後でした。まもなく、長男は別の場所を探しに行きます。

ガード下で目撃情報も?しかし善枝さんは見つからず

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兄は妹が入曽駅にいるかも知れないと考え、入曽駅に行きましたがそこにもいませんでした。後に妹は学校で卓球をしたあと15時23分頃に下校して、郵便局と毛糸店に立ち寄り、西武線の第1ガードと第2ガード、自転車店付近での目撃情報があります。堀兼中学教諭と野球部5人、狭山西中学の野球部員がのちに調書を取られています。

下校後の立ち寄り先は郵便局、小澤毛糸店、第一ガード、第二ガード、山学校先の村の関口自転車店です。長男は結局見つけられずに19時30分には帰宅して納屋に車を入れました。仕方がなく、父と長男、三男は自宅土間で夕食のうどんを食べはじめました。

諦めて帰宅した長男は自宅のガラス戸に挟まれていた脅迫状を発見

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家族で夕食のうどんを食べている時に、長男がふっと玄関に何か挟んであるのを見つけ、三男(末の弟)に取って来させました。封筒は引きちぎられたように封が切られていました。読みにくい、当て字だらけの脅迫文でした。19時45分、隣の親戚に出かけると告げ、長男と父親が19時45分に駐在所に届け出ました。

善枝さんが使っていた自転車は所定の位置で発見される

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長男が隣の親戚に出かけることを告げに行っている間に、父親は納屋に娘の自転車が置かれているのに気が付きました。いつも置いてある場所でした。後にこのことから、自転車の置き場を知っているなら、知り合いの犯行ではないかといわれます。

自転車の戻ってきたタイミングと置き場所については納屋だったり、物置だったり、普段置かれていたとされた場所も玄関の中だったりします。戻っていたのは、被害者本人が乗って帰って来たとか、兄が場所を移動したとする記事もあります。

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脅迫状は宛名が少時様となっていて、それを線で消した後、中田江さくと書かれています。中には身代金20万を要求する文面と、善枝さんの高校の身分証が同封されていました。脅迫状は訂正箇所や方法から学力が低い者の犯行とされました。

狭山事件について時系列順に紹介②犯人と接触

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この時点で狭山で起こった女子高生が夕方帰宅しない事は事件になりました。差し込まれた封筒は身代金を要求する内容が書かれていました。いまは脅迫状はネット上に公開されています。かなりオープンに捜査がされたようです。

捜査に投入された警察官も160人を越していたようです。狭い田舎でそれだけの警察を調査にあたらせて、ものものしい状況だったでしょう。指差した先が、貧しい部落の中とあっては犯人でなくても、自分に指が指されている世間の空気は感じます。

脅迫状を読んだ中田家の家長・栄作さんは警察に届け出に

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家長の栄作さんは脅迫状を手にして読みました。長男とともに駐在所に行った父親は駐在所の巡査に伴われて狭山署に20時には到着しました。警察はすぐに捜査体制に入りました。脅迫状を読むとともに文面にあった「さのヤ」と自宅での張り込みを開始しました。

5月2日に佐野屋酒屋店にて身代金の取引をすることに

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5月2日早朝に長男は封筒の切れ端を玄関先で発見しました。当時の狭山警察署長竹内は善枝さんの母校堀兼中学のPTA会長増田を署に呼び、捜査協力を依頼しました。依頼の内容は中田さん方の次女の身代金受け渡しの説得もありました。

二女の登美恵さんが身代金を渡す係を引き受ける

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次女の登美恵さんは、身代金を渡す役を嫌がっていました。犯人からの脅迫状には女の人に持たせるようにとありましたが中田さんのところには、女性は登美恵さんしかいなかったのです。しかし説得に手間取ります。父親と登美恵さんはすでに娘は死んでいるとして、2人とも泣くばかりです。

なかなか説得には応じませんでした。3時間かけて、二人をなんとか説き伏せました。結局、登美恵さんが身代金の受け渡しに行くことになりました。20万円分の偽紙幣を風呂敷に包み、受け渡し場所に向かいました。

犯人の接触!しかし警察への連絡がバレて取り逃がす結果に

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午前9時には県警本部捜査1課長補佐が到着、中警視と長谷部警視が、20時に県警本部の刑事部長、県警本部員12名ほどと合流しました。受け渡し場所の佐野屋周辺に40人体制の張り込みを開始。佐野屋は看板も出していない店で土地勘のない者ではわからない店でした。

5月3日午前0時10分次女から30mの距離に男が現れました。犯人と次女はしばらく会話しましたが、途中犯人が動いたと思ったらすでに取り逃がしていました。犯人は40人近い包囲網をかわして逃げ切ったのです。警察の無能振りが露見したのです。当時吉展ちゃん事件で犯人を取り逃がしており、警察には冷たい目が向けられました。

狭山事件について時系列順に紹介③中田善枝さんの遺体が発見される

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警察の威信にかけて、なんとしても解決しなければならない誘拐事件の被害者が、最悪の状態で発見されました。農道に埋められていたのです。狭山では犯人はあそこの部落しかないと早々に特定したような噂が立ちました。

あまりにも無責任な噂は本当に怖いですね、あそこの部落は喧嘩や暴力で何度も逮捕されているから。そこのスコップがなくなったらしいわよとか、無責任な噂がまるで本当のことのように語られるのです。証拠にも証言にもならない誹謗中傷です。警察はそれに耳を傾けてしまったのです。

5月3日には警察犬も導入し善枝さんの捜索にあたる

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捜査は公開捜査に切り替わり、5月3日午前3時には警察犬2頭を入れ追跡しましたが不老川あたりでわからなくなりました。その後の噂では犯人は権現橋付近に逃走したとか、石田養豚場が怪しいといわれていました。石田養豚場がなぜ怪しのかはこの時点では根拠がありません。

善枝さんの殺人現場に行く道筋に薬研坂という場所があります。通学路に使っていた道ですが15時50分頃に十字路で石川さんと会ったとされているところです。この道の両側には事件当時6人が作業していたと確認が取れていますが、二人の姿に目撃情報はありません。

5月4日に埋められていた善枝さんの遺体が発見される

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5月4日午前に、近くの農道に埋められた善枝さんの遺体が発見されました。遺体頭部付近に玉石があり、手は後ろ手に縛られて足首の紐にはビニールと、荒縄が結ばれていました。頭には手ぬぐいがまかれていました。

下着は膝まで下ろされていました。さらに詳しくは司法解剖を待たなければなりませが、土の被せ方なども捜査の対象となりました。ただ捜査の対象はすでに一箇所に向いていたのです。それは、辻褄を合わせる捜査でした。

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手足を縛っていたロープの結び方が漁師が用いる結び方だったとか、埋めた土のならしかたが素人ではないとか、穴に入っていた棍棒は遺体を運んだときに使ったのだろうとか、どれが推理でどれが裏付けがあるのか区別がつかない情報が1人歩きしてゆきます。穴の中に警棒のような棒が落ちていました。

善枝さんの死因は首を絞められたことによる窒息死であった

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善枝さんの首を紐で絞めたのか、手で絞めたのかはっきりしていません。遺体は被害者宅の庭で司法解剖が行われました。胃の残留物からの死亡推定時間の割り出しも行われています。遺体発見を受けて、警察庁長官は辞任しています。死因は窒息死、後頭部には損傷があり、姦淫されていました。

犯人の体液はB型、死後3日経過の硬直がありました。胃の内容物はジャガイモ、ナス、トマト、玉ねぎ、菜、ご飯、小豆でした。胃の内容物からすると学校の帰りに食べたのではないかと思われる残留物がありました。しかし立ち寄った先ではわかっている限りでは食事はしていません。遺体の全面と背面には死斑が出ていました。

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佐野屋の脇の足跡3種の石膏型を採取、また遺体付近で、頭皮を採取したとされましたが、はっがきりしません。足跡は当時はサイズが一致したとされましたが特定できていないのです。サイズが一致したというのは自白によるところが大きいようです。のちに足跡は兄のものと示唆していますがそれも不明瞭です。

つまりこの場所で採取された足跡はあとになりこの事件の証拠には使えませんでした。物的証拠がない事件です。指紋の採取はできなかったのでしょうか。捜査に出た人数が多いだけに不思議だと言われています。物的証拠として手縫いがありましたが、持ち主の特定には至りませんでした。

狭山事件について時系列順に紹介④犯人らしき人物逮捕

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数々の噂話やでっち上げの記事に翻弄され、警察庁にも冷たい目が向けられます。警察も犯人逮捕には並々ならぬ思いがあり、近隣住民は殺人事件の犯人が一刻でも早く逮捕されるように願いました。マスコミも警察も住民もあの部落だと絞りこみます。

捜査も始まらないうちから捜査すべきスポットが限られています。住民のほとんどは怖がり逮捕を急かせます。はじめから捜査する場所が絞られているのが差別的待遇です。貧しければ荒れてきます。なぜその貧しさから這い上がれないのか、当時、高度成長期と謳われた時代に置き去りにされたエリアが存在します。

5月11日に遺体を埋めるのに使われたスコップが発見される

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5月11日に遺体発見現場から127mのところで発見されたスコップが石田養豚場のものだったことから、養豚場に勤務する者27人の調書がとられました。それと同じくして被差別部落の120名の筆跡がとられました。夜20時になって、田中昇さんが、刃物で心臓を刺し自殺しました。

しかしこの情報は、裁判では出てこないのです。今ではこの件は実際にはなかったことかも知れません。この事件は長きに渡る事件で、調べた人、著書として発表した人、著書から情報を得た人、情報が錯綜していますので、とにかく確かな情報開示の必要があります。なぜか故意に隠されてていると囁かれている件です。

スコップは被差別部落のものが経営する石田養豚場のもの

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善枝さんの遺体から得られた犯人の情報は膣に残された精液のみです。毛髪や皮膚の一部が発見されたというのは根拠がないデマとされています。5月6日は善枝さんの葬儀が予定されていました。午前8時半頃に被害の家の作男をしていたこともある運送会社勤務の奥富玄二さんが農薬を飲み、実家の井戸に飛び降り死亡しました。

奥富さんは翌日結婚式を挙げる予定でした。6日22時には国家公安委員会で宮地刑事局長が初動捜査のミスを明かしました。初動捜査のミスとは、犯人を取り逃がしたことでしょうか?はじめから付近の住民が、あの部落の者が怪しい、そんなことをするのはあそこの者しかいないと決め付けていたことに誘導されたというのが初動ミスです。

5月23日に窃盗罪などで逮捕された石川一雄さん

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5月23日に石川さんが窃盗罪で逮捕されました。石川さんは近くの被差別部落の人です。暴行、窃盗、喝容疑です。しかしこれらは本当に日常にある些細なことを大きく捉えて逮捕の理由にしました。別件逮捕です。別件の内容はお粗末な取って付けでした。

警察は犯人像を特定していました。B型の部落の男!石田さんだけが養豚場で唯一のB型でした。しかし奥富さんもB型でした。このような場合は足跡でもなく、血液型でもなく、指紋が重要で、指紋が出れば動かぬ証拠になるのですが、指紋の話が出てこないのは私の見落としでしょうか? 不思議な気がします。

石川氏は被差別部落出身で石田養豚場に勤めていた過去も

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石川さんは石田養豚場に昭和37年10月頃から38年2月頃まで勤めていました。仲間 と一緒に辞めています。入間の航空自衛隊まで残飯を取りに行くのと豚の世話が仕事でした。堀兼の自宅の近くに小さな豚小屋を作り、そこに寝泊まりして、豚の世話をしていました。

一度釈放されるも殺人容疑で再逮捕されることに

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一度の出獄は、別件の拘留期限が23日だったからにほかなりません。釈放といわれて外に出たとたん6月17日に本件で逮捕されました。強盗、強姦、殺人、死体遺棄の犯人となりました。逮捕されるとは聞いていなかったので、うろたえていました。石川さんは一貫して自分はやっていないと認めませんでした。

当日は朝8時から夕方16時まで家の仕事を手伝って、そのまま夜まで家にいたというのが最初の上申書です。この事件は自白のみが直接証拠になっています。脅迫状の筆跡鑑定は県警本部鑑識科、警視庁科学警察研究所、文書鑑定科学研究所から出ています。石川さんはほとんど学校には行っていません。上申書は父親に手伝ってもらいました。

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石川さんは当時字の読み書きはほとんどできませんでした。脅迫状にも疑問が残ります。石川さんは取り調べの段階で、まともな読み書きができない、極端に国語の能力が低いことは取り調べ官にもわかるはずであのような脅迫文は無理ではないかと認知していたのではないかと指摘されてます。石川さんではないとわかっていたのです!

石川氏は容疑を認めた?しかし証拠は見つからず?

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殺害現場は4本杉のあたりの雑木林とされています。が殺害現場はまだ特定されていません。殺害推定時刻の3時50分に石川一雄が被害者にここで出会ったといい、事実認定されています。近くでは除草剤をまく仕事をしていたOさんがいましたが怪しい人物も見ていないし、声も聞いていないと証言しています。

犯人の自白では、ここで強姦しようとして、騒がれたので、殺害したとされています。石川さんは弁護士に接見した際もあっさりと容疑を認めてヘラヘラ笑っていたといいます。弁護士の目には異様な姿でした。死刑になるかも知れないといったら「これでいいのです」と言ったと、されています。

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自供では手で絞めて殺害したとしましたが、実際には柔らかい布で絞めたような痕がありました。この時点でも取り調べをやり直す必要があったにも関わらず、自白を疑う者はいませんでした。でも自白の不自然な様子に弁護士は疑惑を向けていました。

なぜ警察は石川一雄さんを犯人に仕立て上げたかったのか?

狭山事件はすでに冤罪が有力です。長きに渡り囚われていた石川さんは、どうしてそんなことになってしまったのでしょうか? 不思議でならないと感じるのは、私たちが司法と警察を信じているからに他なりません。不祥事ではなく、故意に捻じ曲げたのです。司法も検察も警察も都合に合わせるねつ造をします。

弁護人側は、警察や検察が故意に捻じ曲げたと思われる捜査が行われたと主張しているので、この件は、より複雑な一面を含む事件になってしまっているのです。裁判の長さもさることながら、事件に費やした年月の異常さは、明らかに、司法のせいていうのは、誰がみても明らかなことなのです。この事件、今現在は、物的証拠は皆無です。

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今現在証拠とされているものは、弁護側が細かく検証を行った結果、どの証拠も証拠としての価値を持たないものではないか?現在の石川さんは仮出所中です。あれから56年、それでもまだ仮出所のままというのは刑を執行するだけの証拠がたりないのか、時間が経過してうやむやにしてしまうのか。裁判が開かれなければ、前進も後退もありません。

オリンピックを翌年に控え日本警察の力不足を露呈したくなかった

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1964年に東京都オリンピックが開催される。この年はすでに世界中から注目されている都市になりました。日本の治安を守る警察は不祥事を起こしてはならない。国を挙げての取り組みでした。まさに隠蔽体質の我が国の有り様です。

また東京オリンピックを控えていますね。世論を恐れて静かにする作戦に出るのでしょうか。または令和の時代に入り恩赦を適用するのでしょうか。私はただの通行人ですが、この国の司法には問題があります。裁判は常に有力者や金持ちの一部の人のもの。

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裁判を起こせるような一般人などなかなかお目にかかれません。大方の国民は異様に長い裁判を知っていますから、はなから諦めてしまいます。労働裁判は早く決着がつくようになったのですが、弁護人を雇う資金が労働者には難しい場合があります。

真犯人逮捕という目的から厳しい世論回避へと変わってしまった

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1963年3月、公園で遊んでいた4歳の吉展ちゃんが誘拐、度重なる警察の手違いのせいで吉展ちゃんはかえらぬ人となったという事件がありました。受け渡し場所に遅刻して犯人を取り逃がし身代金まで奪われて、しかも札のナンバーさえ控えていなかったのです。

日本の警察には何も期待できないというのが当時の世の中の風潮でした。今更狭山事件は誤認逮捕だとは言えない、重ねての不祥事など世論が許さない。吉展ちゃん事件の失態はこれまでにないほど国民の怒りをかいました。何がなんでも犯人を速やかに逮捕する事だけが課せられ課題でした。

警察のミスが悔やまれる吉展ちゃん事件の全貌はこちらからご覧ください

狭山事件の犯人として逮捕された石川一雄さんが受けた判決は

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当時の石川さんは長谷部警視に「無期懲役なら10年で出してやる」といわれ10年ならいいやと条件を鵜呑みにしてしまったのです。当時の日本なら、裏から手を回すのはあたり前で取調は酷いものでした。警察署に関巡査部長という石川さんの昔からの知り合いの警察官がいました。

昔近所に越してきて、小学校の野球の試合を見に来た時に知り合いになりました。この巡査部長がキーマンで、狭山事件の最初の自白は関が引き出したのです。証拠品としてあげられるれた万年筆は彼が発見しました。普段家の中になど上がらない関が被害者宅の鴨居の前にいました。

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その前に、この家には2回の家宅捜査が行われていて、隅々まで調べたはずです。鴨居など、1番始めに捜査をするものです。サスペンスドラマ好きなおばちゃんでもわかります。それが家宅捜査では見つかったのです。万年筆がこの日に偶然見つかった不自然さには驚きます。

1964年3月11日に死刑判決を受けた石川一雄さん

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第1審では弁護人は無罪を主張しました。検察側に、確固たる証拠がないのです。スコップに付着していた土も、殺害現場の土ではなかったのたです。唯一の証拠は本人の自白です。疲れさせ気力を失わせるのが、尋問です。もっともスコップ各所から採取した土は混ざってしまっていたので、確固たる証拠にはならない筈です。

被差別部落の者をどうしても犯人にしたかったのです。すでにストーリーは出来ていました。お前が無実と言うなら、兄を代わりに犯人にするからと脅されてもいました。ここを出ても警察に睨まれるに決まっています。当時の取り調べは自白したのが悪いなどとはいえない状況下です。朝となく、夜となく呼び出し眠らせず調書を取ります。

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石川さんは弁護士が謁見できない間に自白してしまいました。調書を取るときのテープが残されていますが、石川さんには脅迫状は書けないと弁護人はこのテープで確信を得ます。一字一句書き方を教えないと、文字も書けないのです。石川さんは友達に教えてもらったとかその場しのぎの辻褄合わせをします。

控訴した石川一雄さんは1974年10月31日の裁判で無期懲役に

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第2審がはじまると、石川さんは自白を撤回しました。調べが進むうち、長谷川警視が虚偽の発言をしていたことが明るみにでました。そのほかにも弁護団は無実の証拠を次々に出しますが、現場検証もされないまま却下となりました。差別か、別の理由かわかりませんが、石川さんじゃなければまた捜査のやり直しだと言っていたようです。

取り調べをした関巡査部長は石川さんは遺体の状況を知らなかった、そして単独犯行を自白したと証言しましたが長谷部警視は否定しました。しかし、第3次再審において、開示された証拠では関が正しく長谷部は偽証していたと発覚します。また長谷部は石川に言った10年の約束を否定しました。今や故人になってしまいました。薮の中です。

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石川さんの無期懲役が確定となりました。その後1977年に最高裁は事実審理もせずに、上告を却下します。石川さんは千葉刑務所での受刑生活をします。弁護団はすぐに再審請求を行いましたが、これも却下されます。弁護人は諦めません、多くの検証作業も証拠として提出します。

無罪を主張する石川一雄さん!1994年には仮出獄も

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石川さんは1994年12月に仮出獄しました。31年が過ぎていました。1996年には支援者の女性と結婚しました。2人で海水浴をしたときに、海が初めてだと言ってすごく喜んだそうです。全国を二人で回り、再審請求の署名を集めています。

石川さんは事件の解決までは両親の墓参りには行けないと、言います。ずっと励ましてくれていた両親はすでに亡くなっています。現在は80歳という高齢です。初動の段階で警察にねつ造があり、嘘がありそれでも再審すらしないのは、よほど都合が悪いことがあるのでしょうね。今更間違いだとは言えない?それとも石川さんだという確信があったのでしょうか?

真犯人は他にいる?狭山事件が冤罪だと言われている理由とは

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今でも犯罪者に対する扱いはいいとはいえません。犯罪者が居心地のいい場所であってはいけないからです。しかし、最低限の権利は保証されなくては証言もままならないのです。眠らせないで取った調書が正しい訳がないのです。寒い、ひもじい、眠いときの証言はあてにならないのです。

拷問のような取り調べ?刑事に言わされた可能性も

暴力をふるうなどどした行為はありませんが録音されたテープからは明らかに誘導する行為が確認されました。刑事に言わされた可能性は高いとされています。また犯行を知らないがゆえに質問に対する答えにもなっていないところがあります。証言刑事に促されるまま、二転三転します信憑性に欠けています。

弁護人が接見禁止になっているあいだに、仕込まれたニセ市長が来たことがあったようですが、石川さんはそんなトリックにも引っかかってしまいそうです。もちろん、警察も検事も裁判所も悪いことはしないと、一般市民も思っていますからトリックなんてころりと引っかかってしまいます。誘導尋問も軽くかかります。

証拠品の場所の地図を描くも実際は写しただけだった?

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小学校すら行かせてもらえなかった。経済な理由よりも差別によって生まれた歪みだといわれています。石川さんには脅迫文を書くことは難しかったのと同様に地図を書くことは不可能に近かったのです。それなのに石川さんが書いた地図が存在するのは、書かされたからにほかなりません。

地図に描かれた場所で見つかった証拠品は偽物?

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石川容疑者が描いた地図のところに善枝さんのカバンが埋まっていました、また家宅捜査のときにはなかった万年筆が鴨居から出てきます。この2つの証拠品ですが、地図については警察が2枚の紙を用意し、下の線をなぞって描いたものと判明しています。

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