第三に、ヒルコの存在は、古来より日本各地に残る「福子伝説」という民間伝承と関係しているのではないか、という考え。「福子伝説」とは、ある家に障害を持った子が生まれると、かえってその家が栄える、という言い伝えのこと。障害を持った子が困らないようにと、一家の団結力が高まるため、ともされています。
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ヒルコの祭られている神社。
では次に、実際にヒルコを祀っている神社について、いくつか具体的な例を見てみることとします。前述のように、ヒルコないしエビス神を祀る神社は、日本各地に存在しています。その中でも、特に有名な神社をピックアップして、ご紹介いたしましょう。
ヒルコを祀る神社①西宮神社
兵庫県西宮市に所在する、西宮神社。全国に3500ある「えびす神社」の総本社とされ、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれて、親しまれています。本殿は旧国宝に指定されており、昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、その後復元され、ほぼ往時のままの姿となっています。
毎年1月9日、10日、11日にかけて行われる「十日えびす大祭」によってもよく知られており、特に1月10日に行われる「福男選び」が全国的に有名です。これは午前6時に神社の表大門が開かれると同時に、男たちが230メートル先の本殿まで一斉に「走り参り」をし、一着から三着までを「福男」と認定して祝うものです。
ヒルコを祀る神社②和田神社
兵庫県神戸市にある和田神社は、同じくヒルコ(蛭子大神)を祀る神社です。赤い大鳥居が目印として知られ、地元では「和田宮さん」と呼ばれています。また、日本で初めてヒルコを祀った神社であるともされています。
古来、淡路島よりヒルコが流れ着いたとされる、和田岬近くの土地を「蛭子の森」と称して祀ったことが、この神社の起源だとされています。先述の西宮神社には「産宮参り」として和田岬に渡御(とぎょ)する風習があったのも、和田神社の建つ地とヒルコの深い縁を示すものであるといえます。
ヒルコを祀る神社③蛭子神社
神奈川県鎌倉市に位置する蛭子(ひるこ)神社。かつて本覚寺(鎌倉市にある日蓮宗の寺)の山門にあった、夷三郎社(夷堂)が起源となっています。この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府を開く際、鬼門を鎮守する目的から建てたもので、文永11(1274)年頃には、かの日蓮がこの夷堂に滞在し、布教の拠点としました。
その後、明治に起こった神仏分離によって夷堂の場所が移され、さらに元来この地にあった七面大明神と、宝戒寺にあった山王大権現を合祀して、現在の形となりました。なお本覚寺の夷堂は、その後再建されています。
神の最初の子が不具という伝説はヒルコ以外にもある!
神話や伝説とはとても不思議なもので、時代や場所が大きく隔たっていても、たいへんよく似たエピソードが語られていることがあります。そうした神話や、宗教上の言い伝えなどに焦点を当てた、「比較神話学」「比較宗教学」という学問分野さえあるほどです。その例に洩れず、「不具の神」の伝説は、実は日本以外の地域にも伝わっているのです。
炎と鍛冶の神・ヘパイストスの神話
ヘパイストス(ヘーパイストス)は、ギリシャ神話に登場する、炎と鍛冶を司る神。ギリシャ神話における主要な神々「オリュンポス十二神」のなかの一柱でもあり、最高神ゼウスと、その姉であり正妻でもある女神ヘラとのあいだに生まれた最初の子どもでした。
しかしヘパイストスは、生まれつき足が湾曲しており、このことに怒った母ヘラによって、海に打ち捨てられてしまいます。ですが運良く、ヘパイストスは海の女神テティスとエウリュノメに拾われ、その後長じて、さまざまな魔法の道具を製作する、優れた職人となりました。そのことを認められ、オリュンポス十二神に名を連ねることとなったのです。
洪水型兄妹始祖神話
「洪水型兄妹始祖神話」とは、世界的規模で存在する神話の類型の一つです。太古、大洪水が起こり、ほとんどの人類が滅亡してしまった後、極めて少数の男女だけが生き残り、その男女が婚姻して子を為し、今の人類が繁栄した、とするものです。そしてその際、生き残った男女が、兄妹、あるいは母子とされる場合があるのです。
そしてこのとき、兄妹などが生んだ最初の子が、人間ではなく、蛇や蛙であった、とするパターンが多く見られます。こうした伝承は、日本の八丈島や、八重山諸島の鳩間島、さらに台湾のアミ族などに伝わっています。
ヒルコがモチーフとなった作品
『古事記』などに見られるヒルコの伝説は、学術的な研究の対象となるのみならず、後世の作家や芸術家たちにも、多くのインスピレーションを与えてきました。ここでは、そうしたヒルコをモチーフにした作品の例をご紹介いたしましょう。
映画「ヒルコ/妖怪ハンター」
『ヒルコ/妖怪ハンター』は、1991年公開のホラー映画。漫画家・諸星大二郎の人気シリーズ「妖怪ハンター」中の数話をベースとしたもので、主人公の考古学者・稗田礼二郎を沢田研二が演じています。この作品において、ヒルコは古代の古墳に封印された妖怪であり、登場人物に取り憑いて怪物化させてしまうモンスターとして描かれています。
原作を大胆に翻案したこの映画は、当時大きな話題を集め、高度な特撮技術や、鬼気迫るスリリングな展開も高く評価されました。その他、ヒルコに関連があるとされる妖怪にご興味のある方は、以下の記事をご参照ください。
ヒルコ研究の諸相①:言葉を巡って
では次に、謎多きヒルコに関して、今日に至るまでどのような研究がなされてきたか、そのいくつかの例をご紹介しましょう。まずは、「ヒルコ」という名前そのものを巡って繰り広げられた研究についてです。前節では、「ヒルコ」を漢字で表した場合の解釈について取り上げましたが、さらに別の視点も存在しています。
①古代琉球語「ビールー」説
「ヒルコ」という名前は、「不具児」を意味する古代琉球語「ビールー」と関連しているのでは、という説です。なぜ日本で編まれた歴史書である『古事記』のなかの記述を、古代琉球語によって読み解くのか、という疑問もありますが、このように神名の解釈に古代琉球語を用いるのは、ときどきあることです。
その理由としては、現在は失われてしまった古代日本語が、古代琉球語のなかに保存されている、という現象が起こっているからです。これは「方言周圏論」と呼ばれる説で、方言はあたかも同心円を描くかのように広がっていくという仮説であり、著名な民俗学者・柳田国男の『蝸牛考』などにも見られる説です。
②病名説
「ヒルコ」とは、かつての病名に由来する名前なのではないかという説です。これは平安時代の漢和字典である『新撰字鏡(900年ごろに成立)』『倭名類聚鈔(930年ごろに成立)』の記述に基づく仮説です。これらの漢和字典の中には、それぞれ以下のような項目が記載されています。
「痿、痺也。不能行歩也。足比留牟。」(引用:『新撰字鏡』)
「痿痺…… 俗云比留无夜末比。不能行也。」(引用:『倭名類聚鈔』)
このうち、『新撰字鏡』の「比留牟」は「ひるむ」という当て字です。また、『倭名類聚鈔』の「比留无夜末比」は「ひるむやまい」という読みであり、いずれも「痿」という字の解説として「ひるむ」という言葉を載せています。この「ひるむ」が「ヒルコ」の語源となったのではないか、とする説です。
ヒルコ研究の諸相②:「哀れ」なるヒルコ
続いては、奈良・平安期にすでに行われていた『古事記』及び『日本書紀』の研究の流れと、そうした研究及び同時代の文学作品などにおいて、ヒルコの存在がどのように受容されてきたか、という変遷についてご説明いたしましょう。
「祓われるもの」としてのヒルコ
『古事記』『日本書紀』の成立からしばらくして、「日本紀講」という行事が実施されています。日本紀講とは、平安時代初期に公的に行われていた、『日本書紀』の講読のことで、現代における学会のような催しでした。
この日本紀講の影響のもとに成立したと考えられているのが、同じく平安初期に成立したとされる『先代旧事本紀』という、今日における研究書のような書物です。この『先代旧事本紀』においては、ヒルコの誕生は イザナギ・イザナミ両神が「陰陽の理」を違えた結果であるとされ、ヒルコは不吉な「祓われる(べき)もの」として解釈されています。
「哀れ」なるヒルコ
ところがあるとき、ヒルコに別の側面から光が当てられます。そのきっかけは、日本紀講にともなう竟宴(きょうえん)でした。竟宴とは、日本紀講が終わったあとに催される宴のことで、今で言えば学会の後の打ち上げのようなものです。その席で、大江朝綱という人が、「得伊弉諾尊」と題した、次のような歌を詠んだのです。
父母は哀れと見ずや蛭子は三歳に成りぬ足立たずして(「父母は哀れと思わなかったのか、 蛭子は足が立たないまま三歳に成ってしまった」(引用:『「哀れ」なるヒルコへ : 神話生成の現場としての日本紀竟宴』)
この歌においては、ヒルコを生んだとされるイザナギ・イザナミ両神の、我が子を「哀れ」に思う心情に焦点が当てられています。この歌は竟宴の参加者たちに強い印象を与え、これから後のヒルコの「読み」にも影響を与えることとなりました。
『源氏物語』のなかのヒルコ
ヒルコのエピソードを「哀れ」の象徴として組み込んだ作品の例に、言わずと知れた『源氏物語』が挙げられます。『源氏物語』の「明石」の巻において、主人公・光源氏はとある事情により明石へと追放されていましたが、最後には許され、都へと戻ります。その際、光源氏は朱雀帝と歌のやりとりをします。以下がその場面です。
十五夜のおもしろう静かなるに、 昔のことかきつくし思し出られて、 しほたれさせたまふ。 もの心細く思さるるなるべし。
(帝)「遊びなどもせず、昔聞きし物の音なども聞かで、久しうなりにけるかな」
とのたまはするに、
(源氏)わたつ海にしづみうらぶれ蛭の児の
脚立たざりし年は経にけり
と聞こえたまへば、いとあはれに心恥つかしう思されて、
(帝)宮柱めぐりあひける時しあれ別ばれし春のうらみ残すな(引用:『源氏物語』「明石」)
この中で、光源氏は「しづみうらぶれ」た自分を「蛭の児」になぞらえており、自身にとって主君であり、父の如き存在でもあるはずの帝に対して、「あはれ」を求めています。それに対して、帝は「いとあはれに心恥つかし」、つまり帝としての責務を果たせていない自分を恥じている、という構図です。光源氏と帝の心の交流を見事に描写しています。
このように、平安時代を代表する『源氏物語』においても、「蛭の児」すなわちヒルコは「哀れ」の象徴として援用されています。当時の文化人のあいだで、ヒルコという存在がどのように受容されていたかを示す好例であるといえるでしょう。
ヒルコは不遇の目に合いながらも人々から愛される神様となった
数奇な運命を辿った神、ヒルコ。障害を持って生まれ、実の両親の手によって捨てられても、なおエビス神として「成長」を果たし、今なお多くの人びとに愛されています。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。その特異なエピソードは、私たちにも大きな希望を与えてくれます。機会があれば是非、そんなヒルコをお祀りするのもよいでしょう。