池永チャールストーマスとは
【三鷹ストーカー殺人事件】と呼ばれる事件の犯人、池永チャールストーマス。当時18歳の鈴木沙彩さんにストーカー行為をした挙句、殺害したのです。自らを偽ってきた当時21歳の犯人の生い立ちや、後に問題視されるリベンジポルノについて、そしてそこに潜む恐怖に迫って見ます。
実際はフリーターだったにも関わらず、なぜ自分の身分を偽っていたのでしょうか。そこに隠されているのは凄まじい過去かもしれません。とはいえ殺害しても良いわけもなく、恐ろしい実態について紹介いたします。
三鷹ストーカー殺人事件の概要
2011年10月頃のこと、当時関西に住んでいた池永チャールストーマスと、都内に住み大学を推薦入学で入ろうとしていた鈴木沙彩さん。双方が知り合ったきっかけはSNSを通してでした。そこから始まった、遠距離恋愛でしたが報道によると、鈴木沙彩さんは小さい頃から芸能活動をしていたとされています。
遠距離から始まった2人ですが、彼女は将来の希望に溢れていたおり、徐々に関係は離れていくのです。そこから歪んだストーカー行為が始まったのでした。まさかリベンジポルノや殺人事件に発展するとは、誰も予期していなかったでしょう。
二人の関係
立命館大学の学生を偽って名乗っていた池永チャールストーマスに親近感を持っていた彼女には、学業と芸能活動があったのです。小学生にスカウトされた鈴木沙彩さんですが、デビューは17歳になります。その後、フジテレビ系の「浅見光彦シリーズ」の中にも出演したこともあったのです。
将来の夢は海外で活躍することだった彼女は、南米とのハーフと偽っていたことから嘘だらけだったことも知らず付き合っていたのでしょう。夢へと羽ばたいていく彼女は、海外留学をするなど必死な姿が見て取れます。最初の1年間は順調に遠距離恋愛をしていたようです。何度も鈴木沙彩さんの浮気を疑うこともありました。
被害者から別れを切り出すも
2012年に鈴木沙彩さんが留学することをきっかけに別れ話を切り出します。亀裂が入った関係はなかなか修復できません。彼女に2013年3月には、嫌がらせや脅しめいた手紙やメールを送るのです。2013年の6月には完全に池永チャールストーマスからの通話は着信拒否を決めます。最初は渋々対応していましたが、2013年6月を皮切りに一切の連絡を拒否するようになったのです。
復縁を迫ってきますが、拒むごとに行動は徐々にエスカレートしていき、ストーカーへと姿を変えます。父親にも相談するなど試みますが、「交際していた時の写真を配る」「復習する」「殺す」など、7月には海外のアダルトサイトにてアカウントを作り、更に脅しは増すのです。
被害者の自宅で待ち伏せして殺害
2013年の夏頃には殺害を計画し始めたのです。9月には15cm程のフルーツなどを切るナイフを購入します。10月1日の待ち伏せは愚か、遂には2日に海外サイトに淫らな画像を海外サイトに投稿し、流石の鈴木沙彩さんも学校に相談を持ちかけるのです。それとは裏腹に6日には動画を投稿するので、彼女も三鷹警察署にストーカー被害の相談をします。2013年10月8日、三鷹警察署も警告を出すも電話は繋がりません。
その時には既に鈴木沙彩さん宅の、2階の鍵の開いた窓から侵入をしていたのです。クローゼットに身を隠した池永チャールストーマスは、そこから友人にLINEを何十回もしていることが後に分かります。講義を受けて終わった鈴木沙彩さんに警察から安否確認が入り、無事を確認するも僅か20分程後に殺害されます。刺されていた鈴木沙彩さんは逃げ惑い道まで出てきたところ、失血死によって亡くなりました。
池永チャールストーマスの過酷な生い立ち
池永チャールストーマスの犯行には、少なからず生い立ちが関係いています。むしろ、その生い立ちからなる構造がストーカーや殺害を行える要因だったかもしれません。生まれた地域や学生だったことだけでなく、嘘で固められた状態です。
生い立ちや幼少期の出来事は、人格形成するのに大切な事柄なので歪んでいたのかを確認すると、同情とかではなく、事件に至るまでの経緯は分かるのではないでしょうか。殺害ギリギリまでLINEをしていたことから、その非情さは擁護できるものではありません。
父親は日本人で母親がフィリピン人のハーフ
南米とのハーフを主張していましたが、実は父親は日本人で母親はフリピン人の間で生まれたことが分かります。また立命館大学ではなく高校卒業だったことも、隠されていたと言えます。