川俣軍司の現在や生い立ち!ドラマでも話題になった深川通り魔殺人事件

事件開始から6人の被害者を切り付け、突き刺すという容赦ない犯行までおよそまだ5分も経っていなかったのです。この後犯人は近くにいた33歳の女性を刃物を使って脅し、人質を捕って中華料理店の中に入り、当時来店した客を脅して追い出すと、人質の女性を致命傷を負わせないように、背中を切り付けて怪我を負わせるのです。

そして緊迫した状況が続く中、既に警察が到着して立て籠る犯人を逆上させない様に交渉や取引に応じていました。この時強行突破を試みなかったのは勿論人質の命を守るためです。そして犯人の興奮も収まらず、一触即発の状況が続き約7時間が経過していました。

一瞬の隙を見て、川俣軍司を逮捕

事件発生から立て籠り約7時間が経過しようとして、夜の19時に差し掛かる直前に一瞬、犯人は人質から目を離していたのです。これを機にすぐさま人質は中華料理店から飛び出して、それを確認した警察がいよいよ強行突破して逮捕に至るのです。

この時も刃物をおもむろに振り回して危険な状態でしたが、警察の手により取り囲み、自殺することを危惧して布に噛まされていました。当時は逮捕の映像も犯人の姿をしっかり捉え、全国的なニュースで放送されており日本中が一連の犯行に凍り付いたのは間違いありません。

川俣軍司の生い立ち

事件発生から逮捕までの一連の流れの概要を皆さんにお話ししていきましたが、いかにこの犯人が凶悪で非道な犯行に及んだのかよくわかっていただけたはずです。動機やきっかけもあまりに身勝手であり、そんな身勝手な理由でなぜ罪のない人間を次々と殺めるのか?と疑問が湧いてきます。

そんな凶悪犯罪者は犯行に及ぶ前、どんな生活をしていたのでしょうか?またどんな性格、人格の持ち主なのでしょうか?ここからはそんな彼の生い立ちや経歴などについて、皆さんにご紹介します。鬼畜で非道な殺人犯となる人物は生い立ちを見ると、普通の人の家庭環境ではない場合が多い傾向にあるのです。

生活は厳しかった

今から67年前に関東地方に位置する茨城県で生まれます。彼には血の繋がった兄弟が4人もいました。その家庭では当時土地を有していなかったため、父親はシジミ漁で必死に働いていましたが、それでも生活はかなり厳しく、重湯で育てなくてはいけないくらい貧しかったそうです。また父親もかなり厳しかったのです。

川俣軍司は進学を諦めて板前の道へ

学生時代は成績優秀とは程遠く成績が悪かったのです。また父親から毎晩怒鳴り散らされていたためか、非常に大人しい子であったのです。成績状況と貧しい家庭環境から、彼は高校卒業後進学を断念して一人で生計を立てている父親に迷惑を掛けまいと、集団就職して都内にある寿司屋さんで住み込みで働いていたのです。

すし屋から転職するも3ヶ月で解雇された

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初めての仕事という事、また学生時代も勉強は苦手でしたが決して不良ではなく真面目な生徒だった事もあって寿司屋の職場でも一生懸命に働いていたのです。当時の彼の事を見ていた先輩からの評判も良いくらいで、事件を起こしたのが不思議だとも話しておりました。

しかし少年院から釈放された若い新人が入社してから、彼はその新人に虐められてしまうのです。それをきっかけに彼は退社して、新たな職場に転職するもその間に自身の身体に入れ墨を入れてしまい、その事が職場で発覚しそれが原因で解雇されてしまうのです。このあたりから段々と歯車が狂い始めてきました。

川俣軍司の覚醒剤依存の始まりと深川通り魔殺人事件

犯人の少年時代や学生時代、家庭環境。そして寿司屋に就職するも転職し、そこでも入れ墨が原因でクビになってしまう。そういった彼の大まかな生い立ちをご紹介していきました。職場で虐めにあってから転職して入れ墨を入れる等、このあたりから段々と犯人の人格が歪んでいくのです。

この見出しの題にも書いてある通りここから、犯人は覚せい剤依存者となってしまうのです。なぜ彼は危険な身を亡ぼす薬物に手を染めてしまったのか、その経緯やきっかけを詳しく皆さんにご紹介していきます。

職を転々とし、犯罪を繰り返した

事件が起きるちょうど10年前の1971年に彼は転職先に解雇された後、実家に戻ってきました。その後色々な業種の仕事に就き、職を転々としていましたが思うように長続きせず、酔っ払ってしまっての暴行犯罪を何度か繰り返していき、素行が見る見るうちに悪くなっていったのです。

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