豊田商事会長刺殺事件とは
2人の男がマスコミ陣の集団に割って入り込むかのように現れ、人だかりの中で刺された暴動です。まるでサスペンスドラマを見ているかのような出来事でありました。
その一部始終がテレビで放送され世間は一瞬にして恐怖と驚きに襲われました。なぜ人前で残忍な犯行に至ったのでしょうか?お金と闇の存在について当時を振り返ってみたいと思います。
被害総額2000億円の詐欺事件
1985年の大阪市北区で発生した人を騙し、お金を搾り取った悪質な事件です。豊田商事が起こした大規模詐欺がきっかけで騒動となったとされます。
言葉を巧みに操り、いい話を匂わせ高齢者を中心にターゲットとしました。数万人が被害にあったとされ、総額およそ2000億円にもなる日本史上最悪の悪質なトラブルとして知られています。
永野一男会長(当時32歳)刺殺の様子が生中継
6月18日のジメジメとした梅雨が始まった時期に騒動は起きます。会長である永野一男の逮捕が決まり、報道陣やマスコミが彼の住むアパートへぞろぞろと押し寄せて姿を撮ろうとしていました。
2人の男が、お金を騙し取られた怒りの代表者のように、大勢人が集まる中を割り込み突如現れます。テレビカメラがまわっている中で刺殺され、その様子が放送されました。
即病院へ運ばれましたが、お腹の傷が深く致命傷となっており、息を引き取ったことが確認されました。突然の出来事で、予想もしなかった事態に周りは騒然とします。
テレビスタジオではアナウンサーが子供には見せないでほしいと懇願し、報道では今までにない異例の対応もみせました。
豊田商事会長刺殺事件の概要
一番大きな衝撃を受けたとされる虚偽事件ではありますが、逮捕が決まったとなっても被害者の怒りは収まりきらなかったことでしょう。
連日大きく報道されており、世間が注目している最中の悲劇でした。まず罪人が当日にどのような行動をとっていたのか、周りとどんなやり取りがあったのかをみていきましょう。
詐欺事件の逮捕当日でマスコミが集結
年金生活の補いにとコツコツ貯めておいた資金を、上手に騙取していったこの企業は、世界の豊田ともいえる会社とあたかも関りがあるかのような名称をつけ安心させようと企んでいたとされます。
お金を持っていそうな人物に漬け込み、多くのブラック資金を集めていったのです。贅沢は長続きはせず嘘が徐々にバレていき、捕まる日が決定となると彼の住居へ決定的瞬間を収めようと多くのメディア人が集まりました。
二人の男が突然乱入
三脚を立てたりピントを合わせる準備をしている中に、違和感のある2人組が登場します。急いで準備をしている間を通り抜け、永野がいる部屋を目指して進んでいくのです。
オートロックが珍しい時代でしたので簡単に部屋までたどり着くことができたのです。持っていたパイプイスでドアを叩き始め壊そうとしますが、頑丈な作りのためビクともしません。
次にはドア横にあった窓を壊し始めたのです。鉄格子が設置されていますが力づくで壊してしまうほど2人の怒りは頂点に徹していたのでした。マスコミもやめるように促しますが聞く耳持たずといった様子で怒り狂っていたのです。
多くの報道陣がいる中、会長が刺殺され一部始終が放映された
窓ガラスを割って部屋へ入りこんでいきました。事の重大さに気づいたマスコミたちは警察を手配するよう動き出します。
室内ではもみ合いになっているかのような物が落ちる音や、威嚇する怒号、逃げて怯える悲鳴、いろんな音がただ事ではないことを察しています。永野のギャーと叫んだのを最期に静かになりました。
犯人自ら警察を呼ぶように指示、現行犯逮捕となった
返り血を全身に浴びた男らが再びカメラ前にやってきました。自ら救急車を呼ぶよう指示し犯人だと言いあっさりと手錠をかけられたのです。鉄工場を経営しているとされる飯田篤郎と手下の矢野正計でした。
救急隊が中に入ると、相当逃げまわった形跡が生々しく残っており、血まみれとなった姿が痛ましく映し出されました。この一連が生放送されてしまったのです。
編集することもできず全てが流されたため、事件の悍ましさをリアルに音と映像とで感じ取ることができたのです。
豊田商事会長刺殺事件、乱入後の騒動と永野一男の最期
昼間の明るい時刻に突如起こった凶悪な事件は、メディアを通してではありますが全国に放映され視聴者を恐怖に落とし入れました。3人の間で起こったおぞましい交わりについて詳しくみていきます。
室内からは男たちと会長の壮絶なやり取りが
まさか、室内に入ってこられるとは想像もしていなかったでしょう。いきなりの侵入にビックリすると共に大きな凶器を手に自分へ近づいてくる男を見て、一瞬にして恐怖が襲ってきます。
家にあるものを床に落とし足場を悪くしようと試みますが怒りが頂点になっている男らには、効果がありません。助けてくれと懇願する叫びと、お前は死刑だと罵る怒声が混じり合います。
豊田商事会長刺殺事件後、永野一男は出血多量で死亡
死ねーという絶叫とともに、永野のギャーと魂を搾り取ったかのような叫換で騒動は鎮静しました。先ほどまでの壮絶な雰囲気とは打って変わりシーンと静まり返ったのです。
中の騒然とした空気感にマスコミたちは大丈夫なのかとハラハラしながら外で待機していると血まみれになった飯田と矢野が姿を現し、救急車を呼べと指示したのです。
救急隊員が到着したときは、かろうじて息をしていたようですが、あらゆる箇所を刺されており血に染まっていました。死因は腹部の傷が決定打となった出血死でした。
豊田商事会長刺殺事件の犯人とは?
たくさんの人が見ている中で、犯行に移した男らはどんな人物だったのでしょうか?残虐な殺め方をしたくらいですから、相当永野に対し恨みがあったとされ初めから死を狙い計画を立てていたと思われます。
多くの殺傷事件で罪人が搬送される際、顔を布で覆って隠しているシーンがテレビで映し出されますが、今回の事例では自分の姿を包み隠さず出しています。一体どんな思惑があったのでしょう?正体に迫ります。
豊田商事会長刺殺事件の犯人①飯田篤郎
鉄を加工する小さな工場を経営していた彼は当時56歳でした。計画をして刺した本人です。工場では多くの高齢者や体の不自由な人が精を出して働いていたため、従業員を大事にしていたようです。
今回の背景には弱い立場である高齢者をターゲットとしたものであったため、自分の元で汗水出し勤めてくれている従業員と照らし合わせる部分があったのでしょうか?
一部ではどこへ怒りをぶつけたらいいのかわからないトラブルに対し、立ち上がったヒーローのようだと称える声も少なからず上がっています。
豊田商事会長刺殺事の犯人②矢野正計
飯田には普段から世話になっていて、断り切れなかったといわれています。30歳だった矢野は建築作業員として生計を立てており、義理を立てるために共犯者となりました。
飯田が致命傷をついたとされていますが、矢野も数多く刺して血を浴びています。事終えた後にマスコミ前に再び登場した際は、荒ぶった声で自分たちが通る場所を開けるよう怒鳴り散らしました。
豊田商事会長刺殺事件の裁判の行方は?
残虐な騒動として歴史に残ることになりましたが、現場から逃げることなく御用となった姿は、捕まってもいいから許せないという怒りがあったのでしょう。
決して許される行為ではありませんが、逃げてしまい行方が分からない間の市民の恐怖を考えるとあっさり捕まったことには安堵を覚えます。法の裁きの結果をみていきます。
豊田商事会長刺殺事件の判決①飯田篤郎
老後のために蓄えていたお金を奪い取られ、先行き不安な老人たちが哀れとなったことや、人を騙してまでお金を取った永野に怒りを覚えたため殺めたと語ります。
詳しく詰めていくと日によって言うことが異なり、決定となる動機が判明されないことから懲役10年の刑が科せられました。
豊田商事会長刺殺事の判決②矢野正計
世話になっていた立場だったことから、共犯したのですが裁判では飯田から言われて仕方なくやったと語ります。これを聞いた飯田も負けじと相手に罪を擦り付けようとします。
定かではありませんが、初めは殺すつもりはなくドアを叩き脅したら帰るつもりでしたが、マスコミから煽られたため、後には引けず窓を壊し犯行に及んだとも言われています。
真相が定かでないことと、人を騙してお金を取ったことに怒りを覚えた上での事は、同情の余地が一切ないとは言い切れないとされ飯田より2年短い8年の刑が確定しました。
豊田商事会長刺殺事件の犯人の現在は?
30年以上以前の騒動ですので、彼らは塀の中での生活を終えて日向の世界へ出てきています。今彼らはどのようにして過ごしているのでしょうか?服役中の様子と共に今の姿をご紹介していきます。
豊田商事会長刺殺事件の犯人の現在①飯田篤郎
罪を償っている最中も妻とは離婚せず、今も一緒に暮らしているようです。85歳を超えた今は近畿地方の街に移り住み、静かに暮らしています。
病気をして入院をしていた時期もあったとのことですが、命に別状はなくすぐに退院をして元気なようです。
豊田商事会長刺殺事の犯人の現在②矢野正計
大阪に住居を構え、20歳ほど年下の妻と結婚をし5人の子供に恵まれたようです。麻雀店を切り盛りし子供たちを養っていたようですが、今は60歳を超えており店は畳んで、広島に引っ越したといわれています。
服役中は同部屋の罪人らに、俺は刺していないと常々言っていたようです。よほど刑罰に不満があったのでしょうか。
豊田商事会長刺殺事件被害者の永野一男の生い立ち
32歳という若さで2000万もの大金を手に入れた才覚は違った分野で発揮できていれば、今も生存していたでしょうか?歴史に残る偉業を成し遂げていたかもしれません。
悪に働いたことで若くして一生を遂げることとなってしまいましたが、彼の32年の生い立ちをご紹介します。
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1952年、岐阜県恵那市に生まれる
小学校と中学校時代は岐阜県で過ごしています。15歳を機に島根県浜田市に住居を構える叔父に預けられています。両親の離婚などがあったのかは定かでありませんが、養育できなくなった事情があったとされます。
存在感はほとんどなく、一人で静かに過ごしていたようです。当時の担任教師さえ覚えていないと語っています。当然クラスメイトの記憶にも残っていないのでした。
島根県の中学校を卒業し、当時の農村で主流だった集団就職で現在のデンソーへ勤務します。田舎では勤め先がなく、経済発展が進む都市では需要が多かったために職を求め若者が多く志願しました。
就職後は転職を繰り返す
わずか2年で退職しています。その後も職を転々とし長く勤めを果たすことができずにいました。中学卒業しただけというコンプレックスが、未来の可能性を縮めていったのでしょうか。
この時代は高度な技術を用いた経済発展が著しく上昇していたので、仕事を辞めても次々に見つかったのでしょう。自分に少しでも合わないと感じれば他を探して勤めるといったことを繰り返していたようです。
客の金を小豆相場につぎ込んで解雇されることも
商品を取引する業者に就職が決まり、頭角を現していきます。営業成績は優秀で高い評価を会社からも受けていました。ですが、勝手に顧客から預かったお金3000万で小豆に投資していたことがバレてしまいます。
この一連で解雇となってしまうのでした。その後も職は安定せず転々と渡り歩きます。素行が良いと言い切れず大垣にある競輪場のトイレで盗人をし逮捕されている罪歴が残っています。
1981年「大阪豊田商事」を設立
自分が経営者になることを決意しました。名前の由来は2つあり、自分の一番最初の就職先の大元が豊田であったこと、世界の豊田の名を出すことで信頼度を高めるためにつけたようです。
1年後にはさらに似せようと豊田商事に改名までしています。当初からペテン師を働いており、お金だけ集めて商品は渡さないペーパー商法を取り入れ多額の富を得ます。
高級車を所有し、クルーザーも持っていた派手な生活をし始めたのです。自分でも予知していたのでしょうか。顔を知られると誰に殺されるかわからないと言い社員にも顔を見せなかったのです。
永野一男は生涯を未婚で通した
生涯を共に過ごそうと慕う相手がいたとしても、結婚せず独身を貫きました。悪行から家族までも自分のせいで怖い思いをさせてはならないと思っていたようです。
15歳で両親と離れ暮らしていたため、温かな家庭を作ることに夢を抱いていたでしょうが自分が犯してきた仕業で迷惑を掛けられず、後にも引けなかったため家族を作ることを諦めたのです。
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豊田商事会長刺殺事件被害者の永野一男が会長の豊田商事とは?
たくさんの資産を一代で築き上げ、誰に殺められるかわからないことを心配した永野でありますが、どんな社風だったのでしょうか?ブラックな中身を覗いてみましょう。
悪徳商法で大金を稼ぐ
高齢者をターゲットとし、純金などの商品を購入すると自分が動かなくても株のように儲かるといううまい話を持ち掛けます。
怪しまれないように、被害者の自宅に上がりこんで身の回りの世話を手伝い、高齢者の不安を払拭する行動に徹していたようです。現在の悪徳な企業の起源ともいわれる手口を作り出しました。
「葬式代までふんだくれ」がモットー
情につけこんでいき、次々と容赦なく財産を奪っていくのです。被害者の中には緊急時の積み立ても、万事失ってしまったことで、生きる希望をなくしてしまい自ら命を絶った人が続出しました。