【豊田商事会長刺殺事件】概要と黒幕の考察、犯人の現在まで徹底解説!

救急隊員が到着したときは、かろうじて息をしていたようですが、あらゆる箇所を刺されており血に染まっていました。死因は腹部の傷が決定打となった出血死でした。

豊田商事会長刺殺事件の犯人とは?

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たくさんの人が見ている中で、犯行に移した男らはどんな人物だったのでしょうか?残虐な殺め方をしたくらいですから、相当永野に対し恨みがあったとされ初めから死を狙い計画を立てていたと思われます。

多くの殺傷事件で罪人が搬送される際、顔を布で覆って隠しているシーンがテレビで映し出されますが、今回の事例では自分の姿を包み隠さず出しています。一体どんな思惑があったのでしょう?正体に迫ります。

豊田商事会長刺殺事件の犯人①飯田篤郎

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鉄を加工する小さな工場を経営していた彼は当時56歳でした。計画をして刺した本人です。工場では多くの高齢者や体の不自由な人が精を出して働いていたため、従業員を大事にしていたようです。

今回の背景には弱い立場である高齢者をターゲットとしたものであったため、自分の元で汗水出し勤めてくれている従業員と照らし合わせる部分があったのでしょうか?

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一部ではどこへ怒りをぶつけたらいいのかわからないトラブルに対し、立ち上がったヒーローのようだと称える声も少なからず上がっています。

豊田商事会長刺殺事の犯人②矢野正計

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飯田には普段から世話になっていて、断り切れなかったといわれています。30歳だった矢野は建築作業員として生計を立てており、義理を立てるために共犯者となりました。

飯田が致命傷をついたとされていますが、矢野も数多く刺して血を浴びています。事終えた後にマスコミ前に再び登場した際は、荒ぶった声で自分たちが通る場所を開けるよう怒鳴り散らしました。

豊田商事会長刺殺事件の裁判の行方は?

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残虐な騒動として歴史に残ることになりましたが、現場から逃げることなく御用となった姿は、捕まってもいいから許せないという怒りがあったのでしょう。

決して許される行為ではありませんが、逃げてしまい行方が分からない間の市民の恐怖を考えるとあっさり捕まったことには安堵を覚えます。法の裁きの結果をみていきます。

豊田商事会長刺殺事件の判決①飯田篤郎

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老後のために蓄えていたお金を奪い取られ、先行き不安な老人たちが哀れとなったことや、人を騙してまでお金を取った永野に怒りを覚えたため殺めたと語ります。

詳しく詰めていくと日によって言うことが異なり、決定となる動機が判明されないことから懲役10年の刑が科せられました。

豊田商事会長刺殺事の判決②矢野正計

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世話になっていた立場だったことから、共犯したのですが裁判では飯田から言われて仕方なくやったと語ります。これを聞いた飯田も負けじと相手に罪を擦り付けようとします。

定かではありませんが、初めは殺すつもりはなくドアを叩き脅したら帰るつもりでしたが、マスコミから煽られたため、後には引けず窓を壊し犯行に及んだとも言われています。

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真相が定かでないことと、人を騙してお金を取ったことに怒りを覚えた上での事は、同情の余地が一切ないとは言い切れないとされ飯田より2年短い8年の刑が確定しました。

豊田商事会長刺殺事件の犯人の現在は?

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30年以上以前の騒動ですので、彼らは塀の中での生活を終えて日向の世界へ出てきています。今彼らはどのようにして過ごしているのでしょうか?服役中の様子と共に今の姿をご紹介していきます。

豊田商事会長刺殺事件の犯人の現在①飯田篤郎

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罪を償っている最中も妻とは離婚せず、今も一緒に暮らしているようです。85歳を超えた今は近畿地方の街に移り住み、静かに暮らしています。

病気をして入院をしていた時期もあったとのことですが、命に別状はなくすぐに退院をして元気なようです。

豊田商事会長刺殺事の犯人の現在②矢野正計

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大阪に住居を構え、20歳ほど年下の妻と結婚をし5人の子供に恵まれたようです。麻雀店を切り盛りし子供たちを養っていたようですが、今は60歳を超えており店は畳んで、広島に引っ越したといわれています。

服役中は同部屋の罪人らに、俺は刺していないと常々言っていたようです。よほど刑罰に不満があったのでしょうか。

豊田商事会長刺殺事件被害者の永野一男の生い立ち

32歳という若さで2000万もの大金を手に入れた才覚は違った分野で発揮できていれば、今も生存していたでしょうか?歴史に残る偉業を成し遂げていたかもしれません。

悪に働いたことで若くして一生を遂げることとなってしまいましたが、彼の32年の生い立ちをご紹介します。

永野一男について詳しく知りたい方は、こちらも良かったらご覧ください

1952年、岐阜県恵那市に生まれる

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小学校と中学校時代は岐阜県で過ごしています。15歳を機に島根県浜田市に住居を構える叔父に預けられています。両親の離婚などがあったのかは定かでありませんが、養育できなくなった事情があったとされます。

存在感はほとんどなく、一人で静かに過ごしていたようです。当時の担任教師さえ覚えていないと語っています。当然クラスメイトの記憶にも残っていないのでした。

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島根県の中学校を卒業し、当時の農村で主流だった集団就職で現在のデンソーへ勤務します。田舎では勤め先がなく、経済発展が進む都市では需要が多かったために職を求め若者が多く志願しました。

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