【加藤智大】秋葉原通り魔事件の動機は母?弟の自殺や現在の様子を解説

加藤智大は2008年に17人が死傷した秋葉原通り魔事件の犯人です。なぜ加藤智大は無差別殺人事件を起こしたのか、裁判では加藤智大の過去についての言及もありました。この記事では加藤智大の生い立ちや母との確執、自殺した加藤智大の弟などについて徹底解説します。

この記事をかいた人

テニス・旅行が趣味です。 共感できる内容や魅力のある記事を紹介したいと思います。
Array

加藤智大とは?

6月のある日曜日の昼過ぎ、秋葉原は大勢の買い物客や観光客で賑わっていました。しかし、突如車の侵入が禁止されている道路にトラックで突入し、自分が所持していたナイフで周囲の人を次々切りつけわずか10分ほどの短い時間で17名の人を死傷させ歩行者天国を倒れる人の血の海で地獄へと変貌させた人物です。

加藤智大の起こした「秋葉原通り魔事件」とは?

正午過ぎという大勢の人が行きかう中で起きた惨劇で、秋葉原通り魔事件と呼ばれています。信号無視をしたトラックが歩行者天国となっている道路に侵入し歩行者を次々と跳ね、車から降りたあとに用意していたナイフで人々を殺傷した事件になります。他、カレーに毒を混入したとされている林真須美の事件に関する記事はこちらをご覧ください。

2008年東京の秋葉原の歩行者天国で事件発生

2008年の6月、日曜日で昼過ぎということもあり多くの人で秋葉原の歩行者天国は賑わっていましたが、惨劇は一瞬のうちに起きました。人を跳ねたあとは用意していたナイフで他の歩行者や倒れている人の救助をしている人に向かって切りつけていきますが、駆け付けた警察官によって犯人は現行犯逮捕されています。

目撃者の何名かは、初め単なる交通事故だと思ったと語っています。しかし、直後に悲鳴や逃げ惑う人々で周囲はあっというまにパニック状態となり天国から地獄になり、人々の笑顔が恐怖の顔になった瞬間だったという人もいます。

犯人、加藤智大の運転する2トントラックが歩行者に突っ込む

Pexels / Pixabay

通行禁止となっている歩行者で賑わっている中に車で侵入し5人の人々を跳ねています。そのまま歩行者天国を横切ったトラックは停車していたタクシーとぶつかり停止しています。多くの人の笑顔であふれていた歩行者天国は一瞬で悲鳴や逃げ惑う人でパニックになりました。

加藤智大はトラックから降りてダガーナイフで17人を殺傷

ROverhate / Pixabay

犯行に使用した車はタクシーと接触したことでようやく止まりますが、車からおりてきてはねられた人々を救助するために集まった人や他の歩行者をナイフで次々と切りつけていきます。犯行時間はわずか10分ほどとされ10分の間に7名を殺害し10名の人にケガを負わせたあとナイフを持ったまま逃走をします。

逃走した加藤智大だが、警察の説得で投降し現行犯逮捕となる

3839153 / Pixabay

周囲の人にナイフを振り回し切りつけながら逃走していきますが、すぐさま警察官がやってきて警棒で応戦し確保を試みています。しかし警察官に切りかかるなどし凶器を捨てようとしない姿に警官は最終的警告としてした拳銃をむけます。すると抵抗を辞めてナイフを捨てたため現行犯逮捕となります。

加藤智大の事件後の裁判判決と服役の様子とは?

AJEL / Pixabay

この凶悪な事件の裁判は最高裁にまで及び、すべての審判で死刑判決となっています。弁護側は最後まで精神に異常があると主張をしていましたが、被告人自身がこのようなことを起こしたことについて後悔と反省の考えがあることから刑が確定しています。

加藤智大の裁判結果は2014年に死刑判決

TPHeinz / Pixabay

一審の地方裁判で死刑の判決を受けましたが、加藤智大は刑の減軽を要求して控訴しています。しかし、2012年高等裁判所は地方裁判所での判決を支持したため、控訴は棄却され二審でも死刑の判決となります。

その後弁護士が被告人は事件当時は心神喪失の状態であり通常の精神状態ではなかった、精神障害の可能性が高いため死刑にはあらないとし、刑の減軽を求めて最高裁判所へ上告をしますが棄却されたため、死刑が決定します。

加藤智大の事件後の様子①東京拘留所に収監

kalhh / Pixabay

死刑はまだ執行されていないため、現在も監されています。弟は兄との面会を希望し50通ほどの手紙を兄宛に送っていますが、一度も返事を返すことはありませんでした。また、弟が直接面会をしに東京拘置所に訪れた際にも面会を拒否しており、家族からの差し入れも拒否をしています。

加藤智大の事件後の様子②監獄で執筆活動も

解 (Psycho Critique)

Amazonで見る

加藤智大は東京拘置所内で本を執筆しており2012年に批評社から出版されています。内容としては、ネットの掲示板に依存していたことや、自分自身が一度自殺を考えたことがあること、凶悪な事件を起こすことになってしまった自分の転落についてなどが記載されています。

加藤智大の犯行動機とは?動機の考察も!

valentinsimon0 / Pixabay

加藤智大がこのような凶悪な事件を起こした動機については世間では様々な憶測が飛び交っています。しかし、この憶測に対して加藤智大は全て否定しています。囁かれた犯行の動機と本人が語った動機について紹介していきます。

加藤智大の犯行動機①労働環境への不満は否定

Pixelpower-01 / Pixabay

派遣労働社員であった為、雇用環境が厳しくなっていることに希望を失ったことが動機であるとする説があります。しかし派遣社員として働いていたわけではなく、青森県の運送会社会社で働いていた時は正社員で採用されており、警備会社で働いていた時には準社員として働いています。

仕事は長続きせず色々なジャンルの仕事を転々としており、労働環境等に不満があると意思表明の手段として、無断欠勤してそのまま退職するという、行動を繰り返していたことから労働関係の不満が原因ではと囁かれていましたが、本人が派遣社員であったことは今回の事件とは何も関係がないと否定しています。

加藤智大の犯行動機②負け組である不満は否定

Ramdlon / Pixabay

加藤智大が掲示板に書き込んでいた内容には「負け組は最初から負け組」 「気づいて受け入れましょう」等と書き込んでいた形跡があり、自分は負け組と感じていて勝ち組への不満からの犯行だったのではという説があります。

また事件発生後、負け組のヒーローの様に「神」や「救世主」などと称賛する呼び名をつけ共感する者が出てきていました。しかし「心から自分の事を負け組としか思っていない人の気持ちは理解できない。」「自分の努力してないことを棚に上げて逆恨みうするのは不快」と言いこの説についても否定しています。

加藤智大の犯行動機③社会への不満は否定

geralt / Pixabay

ある社会学者は加藤智大の動機に対して社会環境や絆のある人間関係が築けなかったことが1つの原因であると解釈している説と、友達がいるにも関わらず孤独だったことが原因と解説している説になります。しかし加藤智大は仲の良い友人はおり、気を許して話ができる行きつけのお店などもありました。

また掲示板でも自分からオフ会などを提案したりするなど、積極的に人間関係を築き上げていました。また、この動機の説についても本人が、「何故社会のせいにするのか理解できない。」「私の問題であり、社会環境は問題ではない。」と話しています。

加藤智大の犯行動機④学歴コンプレックスは否定

Monoar / Pixabay

最後に囁かれていた説は学歴によるコンプレックスが犯行の動機ではという説になります。たしかに進学校に通っていた加藤智大が進学したのは4年生大学ではなく短期大学ではありました。本人も親に対する反抗心から大学へ進学していないことを、不利益だったから今考えれば損であったかもと語っていますが動機ではないと言っています。

加藤智大の犯行動機⑤本人は生活に疲れたと供述

geralt / Pixabay

加藤智大が犯罪を犯した動機は、労働環境への不満でも社会に対する不満でも、学歴にコンプレックスがあったからでも、自分が負け組だから勝ち組に対数る不満からではなく、「生活に疲れた」ことが動機としています。取り調べでも「誰でもよかった」「人を殺すためにトラックを使って秋葉原に来た」と話しています。

加藤智大の生い立ち

RitaE / Pixabay

たくさんの人のたわいない会話や笑顔で賑わう日中の歩行者天国を一瞬で惨劇の広場という地獄に変えた加藤智大ですが、彼の生い立ちや幼少期や高校生時代などはどのような生活を送ってきたのでしょうか。ここでは犯人である加藤智大の生い立ちについて紹介していきます。

加藤智大の生い立ち①1982年青森県に生まれる

dldusdn / Pixabay

1982年に青森県五所川原市に生まれており、下に弟がいます。母親はかなり厳しい教育をされていたとされており「あの母親の子どもとして生まれたことが一番の不幸」という意見まで多く出ているぐらいです。母親の教育などについて紹介していきます。

加藤智大の生い立ち②母親の厳しい教育の元文武両道に育つ

Free-Photos / Pixabay

母親は教育熱心であり、幼少期から厳しく育てていたそうです。その内容は、寒い日に薄着のまま外に立たされるなど今では虐待とも受け取られる躾だったようです。青森で育っていますので、寒い日に薄着で外に出すのは凍傷や凍死の可能性もありました。他の教育内容には下記のようなものがあります。

  • 幼少期から、珠算・スイミング・学習塾など習い事を多くさせていた
  • 友人の家に遊びに行くことが禁止なだけでなく、家に友達を連れてくることも禁止にしていた
  • 作文などは、母親の厳しいチェックが入り間違えた箇所を消しゴムで消させるのではなく、最初から書き直しさせる
  • 見てもいいテレビ番組を制限していた。許可されていたのは「ドラえもん」「日本昔ばなし」のみ(高校2年まで)

なお、作文の宿題の時には提出の前に母親がチェックをし、母親の質問に対して10秒以内に回答をしないと叩かれるということがあったとされており母親のしつけはかなり厳しいものがありましたが、この習い事や教育で加藤智大は文武両道に育っていきます。

加藤智大の生い立ち③県で随一の進学高校に入学も成績は急降下

ulrichw / Pixabay

幼いころからの母親の厳しい教育により文武両道に育った加藤智大は県内随一の進学校への入学を果たしています。しかし進学校だったことから周りには加藤智大の成績をはるかに上回る生徒が集まっていた為、成績は徐々に低迷してしまい、このころから歯車が狂い始めたと言われています。

加藤智大の生い立ち④岐阜の短期大学へ入学

Pexels / Pixabay

母親の教育により文武両道に育ったため、4年大学への進学も可能とされていましたが短期大学への進学を決めます。この短期大学への進学の決断は、母親への反抗心からであったとされています。自動車短期大学へ進学していますが、出席など学業の怠慢から整備士の資格は取得できていません。

加藤智大の職場での様子は?

rawpixel / Pixabay

学校を卒業した後は就職をしていましたが、仕事は長続きせずその後就いた仕事もすぐに辞めるなど仕事を転々としていました。事件を起こす前に働いていた職場ではトラブルがあったとされています。

加藤智大の職場での様子①転職を繰り返す

Tumisu / Pixabay

短大を卒業後最初に働きだしたのは仙台市にある警備会社に就職をしていますが、2年で退職しています。その後は上京し埼玉県の自動車工場に契約社員として入るもわずか1年ほどで退職、その後茨城県の住宅メーカーの工場で働きますが約3か月で仕事をやめています。

一度地元の青森に戻り、大型免許を取得し運送会社に入り真面目に働いていたことが評価され正社員になることができましたが、旅行に行くための休暇を貰えなかったことを理由に退職しています

加藤智大の職場での様子②派遣社員として働く

089photoshootings / Pixabay

最後の働いていた職場は、静岡県の自動車メーカーの工場で派遣社員として働いていました。工場では塗装ラインを担当しており公休以外の休みはとらないなど、仕事ぶりはとても真面目に働いていたと言われています。

加藤智大の職場での様子③作業着紛失を解雇宣言と誤解

annca / Pixabay

勤務していた工場で200人程いた派遣社員の人数を50人にまで削減するという計画が出ており自分も解雇の対象となってたことは聞かされていました。また、ある日加藤智大が出勤すると自分のつなぎの制服を見つけることができず、つなぎがないと騒ぎだしたことにより同僚がリーダーを呼びにいきますが既に会社から姿を消していました。

加藤智大のネットでの様子は?

PhotoMIX-Company / Pixabay

加藤智大はネットの掲示板サイトに書き込むことに依存し、日記のようなことを書いていたり掲示板のスレッドに対して攻撃的な批判をするなどして自分のネットでの存在を確立していったと言われています。

加藤智大のネットでの様子①攻撃的な書き込みを繰り返す

FirmBee / Pixabay

加藤智大はネットで不細工スレの主というものを作り上げ、世の中のことなどについて攻撃的な書き込みを行ったりしていました。この書き込みは一部の人から人気があり次第にネット上において独自の立場お確立していくことになりました。

加藤智大のネットでの様子②犯行前の日記的な書き込み

geralt / Pixabay

掲示板のスレッドにおいて独自のキャラを作り上げ徐々に知名度が上がってきますが、知名度が上がっていくにつれなりすまして書き込みをする人物が増えました。なりすましを辞めるよう書き込みますが逆効果となってしまいます。掲示板は攻撃的な書き込みからネガティブな日記のような書き込みに変わっていきます。

加藤智大のネットでの様子③事件当日の書き込み

秋葉原での犯行を行う当日も犯行時刻ギリギリまで書き込みを続けていました。内容は犯行予告そのもので、地名まで載せたうえで、「人を殺す」「車でつっこむ」などの他にも車の後はナイフを使用することなど犯行に使う凶器や行動などについて度々書き込んでいました。

頭が痛いなどの単なるつぶやきめいた言葉もありましたが、最後は「時間です」で書き込みその時間は12:10分で犯行現場のすぐ力書き込みをしていました。事件が起きたのはその約20分後で大勢の人の笑顔が恐怖に変わった瞬間でした。

加藤智大が凶行に走ったのは承認欲求が満たされなかったから?

Nono_Bobo / Pixabay

史上稀にみる無差別殺傷の凶行を行った理由は家で見つけることができなかった居場所をネットに求めましたが、ネットで馬鹿にしたりなりすましをしたりする人が増えた事に嫌気がさこのような凶行に及んだのではと考察できます。幼少期の母親の厳しい教育でダメ出しをずっとされ続けていたことに対して、認めてほしいという承認欲求が強くなったのではと推察できます。

強い承認欲求を鎮めるためには、コミュニケーション能力を向上させたり、自分のコミュニティの場所を増やすといいとされています。1つのネットに固執することなく、いろいろなコミュニテイの場を広げていけてればこのような凶行に走ることはなかったのかもと考察できます。

加藤智大の母親とは?

mohamed_hassan / Pixabay

地方裁判の裁判中においては母親の教育方法が被告人の人格形成に影響を与えてしまったとさえ言われた母親の厳しい教育とはどのようなものがあったのでしょうか。人格が形成される幼少期からの母親の教育方法について紹介していきます。

加藤智大の母親①異常な教育

Comfreak / Pixabay

  • 常に完璧であることにこだわる:間違えた文字や汚い字があると消しゴムで消して修正ではなく最初からやり直しをさせる。
  • 自由にモノを買わせない:本を買うのにもチェックがはいり、感想文を書かせる。
  • テレビを見るの禁止:高校2年になるまで、ドラえもんと日本昔ばなしのみ許可されていた。教育番組すら禁止。
  • ゲームは週に1度1時間だけ
  • 漫画や雑誌の禁止:テレビと同様に情報の遮断のためと考えられています。
  • 食事中に突然激怒する:激怒しながら、廊下に新聞紙を広げその上にその日の食事をバラまき、それを食べるように言う

加藤智大の母親②成人後に厳しさについて謝罪

qimono / Pixabay

上京して働いていた加藤智大ですが2006年に人間関係に対する抗議として会社無断欠勤し辞めています。友人に自殺するつもりなどメールを送り、3年ぶりに実家に帰った際に母親は幼少期の厳しすぎる教育や抑圧した生活などについて直接謝罪をしています。

加藤智弘の母親③事件後迫害を受ける

johnhain / Pixabay

NEXT 加藤智弘の母親③事件後迫害を受ける