澁谷恭正とは?
事件の犯人ですがこの人物の情報の中で衝撃的なのは、子供を見守る立場であるPTAの会長を務めており、さらには殺害した子供と同年代の子供を持つ父親という点です。これだけでも事件の異常性が垣間見えてきます。
この男は会長としての責務以外にも子供の学校からの帰りを見守るといった事も行っており、信頼のおける人物として近所の人たちからの評価も良かったそうです。ではなぜこの人物はまだ小学校に通う幼い少女を殺害するに至ったのか、その事件の詳細を次から見ていきます。
澁谷恭正が起こした「千葉小3女児殺害事件」の概要
この事件は幼い子供の命が奪われたというだけではなく、犯人の男性がその行為を行うような人物にはとても見えない意味でも世間に知られています。ではここからはこの事件がどのようなものだったのでしょうか。
2017年、小3女児が朝の登校時に行方不明
この事件の始まりは小学校3年生の少女が千葉県にある学校に向かった後、そのまま行方が分からなくなったことから始まります。数日間もの間どこにいるのか、何をしているのか全く分からないという状況が続いた後、女の子は死体となって発見されました。
10㎞離れた千葉県我孫子市の排水路で遺体が発見される
女の子の死体が発見されたのは数10㎞離れた場所にある排水溝のすぐわきにある草むらの中でした。女の子の死因は首を絞められたことが原因であり、この時点で他殺であることは間違いないと判断されました。まだ幼い女の子を殺すだけでも惨い事件なのが分かります。
また、死体が発見された場所から更にさらに20㎞ほど離れた場所にある河川敷からはランドセルや着ていたとみられる服なども見つかっています。そして警察はこの事件を殺人遺棄として調査を開始し、数週間後には男性を特定するに至りました。
犯人は同学校のPTA会長澁谷恭正と判明
調査の結果、死体となって発見された女の子の学校で保護者の会に所属する人物だと判明し、警察はこの男性を逮捕しました。特定に至ったきっかけとして、女の子の死体のそばに残されていたDNAがこの男性のものと合致したという点が挙げられ、これが逮捕の決め手となりました。
また、この男性について近所の人たちからの話によると事件の少し前に自動車に乗ったこの男性が車で送ろうかなどと投稿する子供たちに話しかけていた姿なども目撃されており、事件に対する接し方に関して不審とも取れる行動を取っていました。
さらにこの事件が起きた当日には毎日必ず行う子供達の登校を見送る活動に何故か参加をしていなかったようで、また女の子を探す際にも参加を拒否していました。PTAからの電話にも出なかったという事からも、非常に不審な点が多かったとみられています。
逮捕された後の男性の事件への接し方ですが、逮捕される前の取り調べの際には事件に対して明確に否定をしていたものの、逮捕後に再び取り調べを行った際には事件以外の話にはすべて応じるものの事件に関係のある話には黙秘を貫いていました。
法廷で澁谷恭正の別の顔が明らかに
そしてこの男性の逮捕後、法廷内で彼の本性とも言うべきものが判明しました。証拠品として提出された、押収した物品の中にあった映像作品にはまだ幼い子供達だけが出演するものであり、また勤務していた先の同僚からの話では若いほど良いといった話をしていた事も明らかになりました。
この点から、犯人の男性は幼い子供に対して性的な興味を抱く性癖の持ち主だという事が発覚し、今までのPTAでの真面目で社交的な性格からは想像できないといった声も多く上がりました。こうした狂気的な2面性という面でもこの事件は大いに注目されるようになりました。
澁谷恭正の裁判の行方は?
ここまで今回記事内で紹介する事件から、犯人の男性の異常な2面性が明らかとなるといった結果となりました。ではここからは事件後の男性に対して行われた裁判の判決についてどうだったか見ていきます。
澁谷恭正の裁判②2018年7月6日裁判長は無期懲役の判決
千葉県内での裁判の中で、最初の裁判内で犯人に対しての判決は無期懲役でした。その後検察側は彼に死刑を求刑するものの、この際に犯人は検察が話す内容は全て架空の内容であり、捏造されたものであると話し、違うと主張をしました。
さらに証拠として犯人の運転していたキャンピングカーから押収されたネクタイに付着していた唾液のDNAが犯人のものと同じことを話し、このネクタイが殺害の際の直接的な凶器になったのではないかという事を主張します。その後男性は判決内容が不服としてその日中に控訴を申し立て、最終的には無期懲役の宣告でした。
澁谷恭正の裁判①2018年6月4日検察は死刑を求刑
こうして男性はこの裁判での内容に対して再び裁判を行うこととなります。より重い罰を求刑されるもの、この裁判内で男性は事件の際には病気を患っており生活に苦しんでいるといった事や、女の子のDNAが検出された自動車に出入りしていたことに対しては釣りに行く準備の為だと主張をしています。
このような発言内容に対して裁判長は激しく非難をしたものの、証拠に関して立証を十分にすることが出来ないとして計画をしたうえでの犯行だったのかに関しては認められず、求められた死刑ではなく無期懲役の判決を下すことになったのです。
澁谷恭正は冤罪?冤罪主張派と否定派の意見
ここまでこの事件の裁判で宣告された点について見ていきましたが、最期まで犯人とされる男性は現在でも無罪だと言い続けていることが分かりました。そして世間の声にも冤罪を主張する考えは尊座しています。ここではその点について、肯定の意見と否定の意見から見ていきます。
澁谷恭正の冤罪主張派
このように、冤罪の主張をする声のほとんどは男性のこれまでの立場からこのような犯罪を犯すようには見えないといった意見や、現在のPTAの会長といった重要な立場からその責任を捨ててまで今回の事件を行うのかといった意見が多く聞こえました。
また、これ以外にも男性はDNAが一致したという証拠を捏造であるとも主張しており、この意見に同調する声も少なからず存在します。そして被害者の遺族に対して謝罪の言葉を述べるといった場面もあったことからこの点を考慮して冤罪ではないかと考えている声もあるようです。
澁谷恭正の有罪主張派
また、冤罪を主張する意見のほかに、有罪である事を主張している意見も多数存在します。上記の意見では調査の結果多数の物的証拠や性的な暴行があったと考えられる痕跡などが自動車の中から多数発見されていることから、言い逃れができないのではないかといった声が多く聞こえました。
事件に関して黙秘をしているという事も真相が分からずに意見が別れている原因とも考えられます。しかしもし無実の罪ですと、どうして犯罪者になったのか、疑問に残る部分も多くやはり男性が真実を語るまでは真相は分からないと言えます。
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澁谷恭正の裁判で分かった2面性
今回の事件の中で犯人の男性が冤罪なのではないかという意見と有罪で間違いないのではなどの二つの意見を見ていきました。ではここからは裁判の中で分かっていった、男性の異常ともいえる隠された一面についてここで詳しく見ていきます。
澁谷恭正はPTA会長として毎朝見守りをしていた温厚な保護者
まずこの男性の表に出ている性格についてですが、こちらは前述したようにとても温厚な性格で、おとなしい性格だったと近所では言われていました。子供の見守りの活動にも積極的に参加するなどしています。
しかし、男性の友人からの話では少し怒りっぽい一面もあり、自分自身が思い描く通りに物事が動かないとすぐに口調を荒げるような場面もあったようで、この点では男性の本来の性格ではない、もしかすれば本性とも推察できる二面性の片鱗が友人の前では見せていたことが分かります。
法廷で被害者家族に謝罪をしながらも「親の責任」と言い放つ行動
もう一つこの男性の二面性を象徴するかのような行動に、裁判の中で男性は謝罪をしたものの、親が子供を見ていないのは親の責務であるなどと発言をし、さらには親が今回の女の子をしっかりと守ってあげて欲しかったといった事も話していました。
この発言は謝罪の後の発言という点でも違和感を覚えるとともに、ちぐはぐな言動であるともとらえることができ、この男性の二面性が出てきたようにも感じられます。いずれにせよ、この発言は自分は間違っていないといった風な事を暗に言っているようにも推察でき、本性を少しのぞかせた瞬間のようにも伺えることは確かです。
澁谷恭正は小児性愛者で特にアジア系を好む嗜好の持ち主
さらに男性の裏の顔とも言うべき部分として、彼が幼い子供に対して性的な興味を持つ性癖の持つ主だったという点も挙げられます。その証拠として、押収された物品の中にはまだ小学生の子供を映した映像作品等もあり、この点もこの男性の2面性を象徴するものとして考えることができます。
また、この押収された作品の中には日本人も多かったようですが、特に多かったのはアジア系の女の子だったようです。今回の事件の女の子がアジア系だったという事からもそういったタイプを好んでいる嗜好があったことが伺えます。こういった欲望が表に出てきてしまった事が、今回の事件の引き金になったとも推察できます。
澁谷恭正の生い立ち
ここまで今回の事件の犯人だとされる男性の隠された一面について詳しく掘り下げていきました。ではここからはこの男性のこれまでの経歴について、一体どのような人生を歩んできたのかを見ていき、この事件の関係性を探っていこうと思います。
澁谷恭正の生い立ち①1971年松戸市に生まれる
男性は今回の事件があった地域で生まれます。父親は郵便配達の仕事をしており母親は地主の家という裕福な家庭だったようですが男性が幼少期の頃には離婚をしていたようです。子供の頃は大きな体格と優しい性格で大人によく可愛がられるような子供であり、このころはまだ異常性の片鱗は見せていませんでした。
その後今回の事件の被害者と同じ小学校に入学するものの、その体格に目を付けられた同級生たちからいじめを受けてしまうこととなります。この頃はおとなしい雰囲気ではあるものの怒りっぽい性格で親しいといえる友人もいない、少しばかり厳しい小学校での生活を過ごしていました。
澁谷恭正の生い立ち②中学では教師に対して暴力事件を起こす
中学校に入学したころは野球部に少しだけ入部後、柔道部に入りましたがほとんど練習に参加しないといった状況でした。その後自分の意思で運動会の応援団に立候補するなどしており、この頃は運動部ではなくこの応援団に所属をしていたようです。
その後中学校の先生に叩かれたことに対して異常に反応をした男性はその先生に対して暴力行為を行い、先生を血まみれにするという問題行為を起こしていました。また、この時期には少しづつ女性に対して普通ではない執着を見せ、前述した2面性への片鱗をのぞかせるようになりました。
澁谷恭正の生い立ち③専門退学後北海道に就職、1度目の結婚
中学を卒業した彼は地元の高校に進学します。友人はいたようで彼らと常に行動をしていたそうです。この頃から幼い女の子が主役の漫画などを読んで盛り上がるといった今回の事件に関係するようなことも行っていました。またこの頃に初めて彼女ができており、小柄で真面目そうな女子高生だったようです。
高校卒業後には専門学校に進学するものの、わずか1年ほどで退学し、北海道に移り住んで働き始めます。この頃には結婚をしており娘も一人いたそうで、奥さんの年齢はなんと16歳でした。しかし長くは続かず数年で離婚をし、北海道での生活も男性の退職を皮切りに故郷である千葉県に切り替わることとなります。
澁谷恭正の生い立ち④千葉に戻り2度3度目の結婚、親権獲得
北海道での結婚と離婚の後、故郷に戻ってきた男性はその後職業を転々としながら生活をしていました。この際にコンビニの仕事をしていた際に出会った女性と2度目の結婚をします。しかしながらこちらも詳細な原因は分かりませんが長くは続けずに離婚をしてしまいます。
その後男性の母親が亡くなったという事から実家へ帰る事になり、そこで出会った中国人の女性と3度目の結婚をし、娘と息子も生まれることとなります。しかしここでも離婚をするものの、親権は男性が獲得し、その後新しい女性が同居するといった状況になります。
そしてこの後に男性は自分の意思で保護者の会の会長に立候補しそのまま責任者となります。そして子供達と直接的に関係を持てるような状況になり、今回の事件が起きてしまうのです。ここまで見てきましたが、性格的な問題という点で異常といえる部分は少なからず存在し、事件を起こす片鱗は見えていたようにも受取れます。
澁谷恭正の人物像
ここまで男性のこれまでの経歴について、時系列に沿ってみていきましたが、性格的な異常性は当時から存在していたことを伺い知ることが出来ました。ではここからはこの男性の人物像について、一体どのようなものだったのか、詳しく見ていきます。
澁谷恭正は学校に入りびたり出入り禁止になっていた
前述したように男性は学校のPTAの会長として金尾でも知られる存在でしたが、その行動にはやや行き過ぎたものもありました。特に学校で何かの行事があるという訳でもないのに学校に来ることが多くなっていたり、生徒たちと一緒に勝手に給食を食べるといった事もしていました。