新潟少女監禁事件とは?その後の現在もご紹介
この事件は新潟県で起きたもので、家に引きこもっていた男性が当時まだ幼い少女だった佐野房子さんをさらい、家に閉じ込めたものです。この事件の中で驚くべき点はこの行為が数10年近くもの間誰にもばれることがなかった点です。これに加えて警察の適当な調査の実態もわかり、問題になりました。
そして事件終了後の関係者の現在は、犯人である佐藤宣行さんはすでに刑務所から出所しており社会の中で生活をしています。被害者となった少女も事件から数十年たった現在は他の方達同様に社会の中で働く女性として普通の暮らしをしているようです。
この事件の別の側面として、事件に関係した人々について大きく取り上げられたことでも知られ、またこの時に少女の名前が本名で発信されたことについて非難が集まった事でも有名です。ではこの事件の詳しい内容を、次から見ていきたいと思います。
新潟少女監禁事件の概要
ここまで事件の簡単な内容とどのような人物が関係しているか、別の側面も含めて簡単にではありますがまとめました。ではここからはこの事件がどのように起きたかの経緯と、犯人が捕まるまでとどうやって終結したのかについて詳しく見ていきます。
1999年に9歳の女の子を誘拐
事件は新潟県の三条市の路上で見かけたまだ小学生の少女をさらった事から始まります。男性は少女を運転していた車のトランクの中に押し込んで自身の家まで運んでいます。彼が捕まった際、なぜこの行為を行ったのか聞かれた際に少女が可愛く、仲良くなりたかったと答えており、この発言には彼の異常性が垣間見えてきます。
男性は後の捕まった後に行われた検査の中で精神的な異常があることが判明したのですが、彼の持つ障害が今回の事件に起因したと考えるものもいるようです。また前述した話した少女と仲良くなりたいという事に関してもこの障害が要因となった考え方ではないかとされています。
実は男性はこの事件以外にも約1年前に事件を引き起こしていた経歴があり、この時もまだ小学生の少女をさらおうとしたことで捕まりました。彼女の友達が男性の様子に気づき、急いで先生を呼んで押さえつけたことによって取り押さえられました。この時さらおうとした人物は、今回の事件の人物とは関係はありません。
こうして最初の逮捕となった佐藤宣行さんは有罪の宣告を受けるのですが、この際は他に犯していた犯罪もなかった事から彼が刑務所に入ることはありませんでした。しかしこの対応が今回の事件を引き起こしてしまう原因になってしまい、この部分は非難を受けることになったのです。
同居の母にバレないように隠蔽
車に押し込んで自身の家に連れてきた男性は同居している母親に少女を連れてきた事がばれないように自動車をいつも使用している方ではない玄関の方に停め、少女を抱えながら家の上の階にある自分の部屋まで少女を連れていきます。この時少女は拘束され、口には喋れないようにテープが貼り付けられていました。
少女を自分の部屋に連れてきた後、男性はいつも通りに帰宅したことを装うために運転してきた自動車をいつも止めている場所に駐車しなおしたりするなど犯行を誰にも知られないようにする動きが見て取れ、衝動的に行ったにしては冷静に対処しようとする一面も垣間見えました。
そして男性は改めて自分の部屋にいる少女に向き合い、この部屋からが出られない、反抗すれば暴力を振るうなどと話して少女を脅します。その中には殺人をほのめかすような発言もあり、まだ幼い少女に話すような内容ではないことからも厳しい状況なのが伺えます。
少女は前述した10数年もの間誰ともかかわりを持てずにこうした脅しとか数多くの男性による暴力によって次第に逃げようとする気持ち事態がなくなっていったそうです。こうしてかなりの長期間に及ぶ佐藤宣行による事件は始まってしまったのです。
警察の操作も虚しく手がかりなし
少女がさらわれたその日に彼女の母親から警察に連絡が入り、これによって警官隊と少女の通う学校の関係する人物数百名による大規模な活動が行われました。少女を探す際には空中から調べたり、人の住んでいない家やコンテナの調査、さらに夜の間も含め昼夜を問わず少女を探す活動が続けられました。
少女の本名を記載した数千枚の手配書を配るなどしたものの、少女はおろか彼女のいる場所を探し出すこともできませんでした。この時点で少女を探す場所がずれており、周辺の家を探すということをすればもっと早く見つけ出すことが出来たとも推察されています。
こうした多数での少女を探す活動も実を結ばず、自動車を使って県外に少女が連れさられたのではないかとも言われるようになりました。少女を探す者たちの中には彼女がいなくなった三条市で見つけることは不可能だという声も聞こえてくるようになりました。
関連人物を名乗る愉快犯も現れる
こうした多数の人物たちの活動から地元を中心に事件が有名になり、それに伴って犯人を名乗る人物が現れるようになってしまいました。中には事件に何のかかわりもない人物が犯人と言い出し少女の母親を呼び出し、捕まるといった事件も起きており、事態は別の方向でも深刻になっていきます。
こうした事件を混乱させるような状況も重なってさらに犯人の男性の正体を探る事や少女の場所を探し出すことを困難にさせていきました。この犯人だと名乗る人物の行った行為は悪戯の度を越えています。これに関しても絶対に許してはならない行為です。
また、この頃北朝鮮が国内の人物をさらうといった事件も深刻化していた背景から、この時さらわれた人物と状況が非所に似ているという点でも注目が集まりました。こうした部分も合わさって、これを見て今回の様な悪質な人物が現れたのかもしれません。
犯人の医療保護入院をきっかけに見つかる
少女はこうした経緯で男性にさらわれ、10年近くもの間束縛された生活を強いられてきました。ではこの少女がどのようにして助けられたかですが、そのきっかけは前述した男性の持つ精神的な病気でした。これによって少女は男性ではない他の人物に見つかることが出来たのです。
少女が助けられた日は男性が施設に入院をさせることが決まっていた日で、男性は少女以外に実の母親にも何度も暴力を振るっていたことから施設に相談を持ち掛けていたことから男性の自宅に施設の人たちが訪問し、母親に変わって施設に連れていく事になりました。
私設の人物が訪れる数週間前にも男性の家を訪れているのですが、この時には部屋に閉じこもっており話をすること自体が不可能だと判断され少女が見つかることはありませんでした。しかしこの日は抵抗する男性を無理やり押さえつけて部屋の外に出しています。
この際に部屋に入った人物が毛布が動いているのをみつけ、そこにいた少女を発見したのです。この時の彼女は驚くほど色白で生気の無い顔つきだったと言われ、この生活がいかに厳しいものだったかが伺えます。また、発見した施設の人物と母親との会話もかみ合わず、精神的にも疲れ切っていました。
裁判の判決は懲役14年
こうして佐野房子さんは長期間の監禁から解放され、犯人である佐藤宣行は私設に入れられる直前に捕まる事になりました。その後行われた男性の裁判の中で、彼は14年の刑を課されました。この宣告に関しても世間では法律の不備に関して話が広がる事になりました。
これは本来ならば11年の刑になるはずなのですが、彼はこの生活の中でお店から物品を万引きしていたことが判明し、この犯罪とを合わせて今回の宣告の内容となりました。この他の犯罪と併せての宣告は少女の方の弁護士側が考えてのことだったと言われています。
こうした形で他の男性が行った犯罪と併せて刑の期間を延ばすのはどうなのだと問題になりましたが、裁判の中でこれは認めてもらえ、この事件で犯人の期間は確定する事になりました。これ以外にもこれだけのことを行っておいて刑が軽いといった意見も少なからずありました。
新潟少女誘拐事件の被害者少女の監禁生活とは
ここまで事件がどのようにして始まり、行われたのかその経緯とどうやって少女が家から発見されたのかをまとめました。ではここからは事件の内容に関して、男性が行ったさらった少女との生活の内容や暴力の方法を中心に、詳しく見ていきます。
肉体的・精神的に暴行を受ける
拘束された少女は男性に数々の暴力を振るわれたのですが、拘束された最初の方は殴りつけられたり、心を壊す目的で刃物を突き付けるなどされ、さらに少女に対して脅すような言葉を投げつけて体はもちろん心の方にも深刻な暴力を受けていました。
最少の数か月間は手足を縛られたままの生活をさせられ、手を縛ることはなくなったのですが足はそのまま縛られていた為自力で歩くことが出来ませんでした。これによって男性から逃げようという気持ちが段々となくなっていってしまい、暴力は次第に厳しくなっていきました。
こうした行為は少女が男性の話す行為に答えられなかったり、逃げようとしたり、縛られていたベッドから離れようとしたときなどに行われています。他にも男性が格闘技の技を少女に行った際に苦しさから声を発した際にも同様の行為をするなど自分勝手なものも見られました。
男性の暴力は数百回にも上り、中にはかなりの力を込めたものもありました。その中で少女は自分から男性に向けて暴力を受け入れたり、苦痛に耐えるために自分自身を傷つけることも行っており、こうした厳しい状況の中でこれを受けているのは自分ではないと思わせるための精神的な異常も見受けられます。
衣服は万引きしたものを着用
少女が男性に拘束されている間、彼女の服はどうしていたのかですが、着れなくなるまで一つの服を着用させ、どうしても着ることが出来なくなった時には男性の家の近くのお店に向かい、そこの服を万引きして服を着せていました。この時点で男性は新しく犯罪を起こしていました。
男性が少女の服を買わなかった理由として、男性自身が働いていなかったために少女の服を買う事ができなかったことと、服を買うとそこから怪しいと思われると考えを話しています。この点でも男性がこの事を知られないよう気を配っていたことが伝わってきます。
男性はこの事件で捕まった後に少女を自分の友達だと考えていたと話しており、それにしては服を買ってあげないのは腑に落ちません。これは男性に関して少女が言う事を聞いていたのを自分の中で勝手に理解してしまった事が原因だとされています。
お風呂はたったの一度きり
少女は男性との監禁生活の中でなんと1回しかお風呂に入らせてはもらえませんでした。この期間が10年近くだったことからもかなり厳しいことが分かります。1度というのも彼女が転落してしまい、床の汚れが体に付いてしまった事から仕方なく洗う目的で入ったのです。
また、男性は誰かに触られたりすることをかなり嫌っており、これは普段の生活に支障をきたすほどでした。しかし男性はお風呂に全く入っていない少女に触れたりすることはでき、また特に嫌な気分にもなっていなかったことから一点の部分にだけ反応をするものだったと推察されます。
食事は1日一食のみ
食事はどうだったかと言うと、最初は男性の母親が彼の為に作った弁当を食べさせていたのですが、その後男性の食べるものが買ってきた弁当に変更になりました。これに関しては母親が食事を作る際に疲れないように、できるだけ簡単に済むようにと考えてのことでした。
しかし男性が少女を見た時にあざを見つけ運動をしていないことで病気になってしまうと考えてなんと食事の量を1日に1回と変えています。ですがあざに関しては単に足を縛っていた事でできたもので、同じ体勢でずっといることでできたものだとも考えられます。
男性は少女が病気だと考え食事を少なくしたために少女の体重は一気に減ってしまいます。これが原因で時折気を失うようになってしまいますが、男性は少女の食事に握り飯を一つ増やすだけで少女が病気だから痩せていっているのだと考えを改めませんでした。
少女は自分の力で歩けずに男性につかまって歩行をするといった状況で、男性は少女に足踏みはしても良いと話しましたが母親が下の階にいる際はそれも駄目だと少女に話しました。少女が見つかった時には自分で立つこともできないほどだったのです。
トイレはビニール袋で
犯人の佐藤宣行さんは普段の生活に支障をきたすほど人の触ったものに触ることを嫌い、トイレは家のものでも使用できないほどでした。少女にも同様にトイレを使わせないようにし、用意していた袋の中に用を足してそれを廊下に並べさせるようにしました。
これらにはアンモニアが含まれていた為廊下の床が腐る事態になり、複数並べられた廊下はきしんで剥げていました。トイレはダメなのにかなり汚い袋はなぜ大丈夫なのかという部分には疑問が残りますが、恐らくはトイレがダメなだけでこうしたものは良いと考えられるのです。
また、この廊下に並べる行為は男性の性癖に関係していると考えられ、これらを性的なものとして見ていたと推察できるのです。その為少女の出したものを外に出したくないという思いからこうした部屋の外に並べる行為を行ったと心理的な側面からは考えられています。
その他の少女が監禁された事件に関して知りたい方はこちらの記事もチェックしてみてください。
新潟少女誘拐事件の女児発見とずさんな警察対応
ここまでこの事件で少女が男性とどのように生活していたのか、その部分を詳しく見ていきましたが、かなり厳しい状況の中で生きていたことがうかがい知れます。ではここからはこの事件の中でもう一つ注目された警察の対応の酷さに関して見ていきます。
強制保護執行!警察は出動拒否
問題だとされる対応の一つに、男性が母親に暴力を振るうことから強制的に施設に入れる際の出来事にあります。施設の人たちは男性が前もって母親からこの日に来る話を忘れ、勝手に部屋に入ってきたと暴れ始めます。最後は気を失わせて病院に運ばれます。
そしてここで問題なのが男性が暴れた時に施設の職員は自分たちだけでは男性を取り押さえることは難しいとのことでもし男性が暴れた場合の為に警察に数名ほど来てほしいと連絡を取り、しかし人がいないと言い、もう一度連絡をすると電話を無理やり切られてしまいます。
男性の気を失わせることで彼らが来るのを待たずに終わらせることが出来たのですが、この来てほしいという連絡を無理やり拒否した対応が杜撰だと非難を浴びる事になってしまいます。これはこの事件の側面の一つとして広く知られてしまうこととなってしまうのです。
誘拐女子発見
この問題だとされる警察の対応の後、部屋に入った施設の人物が少女を発見します。この時少女は上手く話しづらい状況で、部屋にいてもいいかと少女が話していたことから男性に心身ともに支配をされていたことが分かります。
他にも少女に話を聞く中で母親がこの時初めて少女の存在に気が付いたという事や自分の家がどこにあるのかわからない事も話しており、この点部分も男性がかなり配慮して少女の存在を隠したか分かります。それでも母親が分からない部分には疑問が残ります。
警察に報告するも出動を拒否
男性の気を失わせて病院に運ぶことに成功した施設の人たちは、折り返しで連絡をすると話した警察から連絡がきます。施設職員は男性をこちらで病院まで運んだことと男性の部屋から少女を見つけたことを話し、再び来てほしいと話します。
この電話に人員は少女の名前やどこに住んでいるのか、情報はそっちで聞いてくれと話し、自分たちにそのようなことまでさせないでほしいと身勝手な内容を話し始めました。この部分でも彼らの対応の悪さが言われています。
こうして少女の保護を実際の所無視して拒否をした警察ですが、そのようなことまで自分たちにさせるなと話す時点で自分たちの行うべき責任をすべて放棄していることと同じだと考えられ、この部分は問題として大きく取り上げられました。
女児の素性がようやく判明
この連絡の後、施設の人間が見つかった少女と会話をし、最初は中々上手くいかないものの少女の名前や住んでいた場所、家の電話の番号を聞くことができ、数十年前に男性にさらわれ、いなくなった少女だという事が分かりました。
少女は私設の人に助けられて母親の元へ戻ることが出来たのです。原因となった男性は運び込まれた施設の病院で目を覚まし、心が環境に追いつかないことや病気になるなどのため、実際に捕まえられたのは彼が病院を退院してからでした。
男性が捕まった後、取り調べによって今回の事件の詳しい部分が分かったのですが、それ以上にこの事件の中で大きく取り上げられたのは警察の適当な対応の数々です。次からもう一つの彼らが行った部分を見ていきます。
報告を受けた警察本部長は麻雀接待優先だった!?
施設の人から着てほしいと連絡を受けた人員は、なんと少女が捕まえられた男性の家から発見された時に行かなかったうえに数人で接待を行い、少女を助けるよりも麻雀を優先していました。この部分は正直なところ連絡を拒否した事よりも問題だと言われています。
この情報が発信された際には数多くの中傷を浴び、一緒に遊んでいた人物が当時責任のある立場だった人物2人だったことも併せて取り上げられる事態となりました。最終的にはこの責任者の二人は辞めており、人の命よりも自分の仕事の方を優先する姿も問題になりました。
新潟少女誘拐事件の犯人の生い立ちは?
ここまでこの事件の中で見えてきた警察の対応の酷さに関して見ていきました。ではここからは男性の経歴に関してや両親はどんな人物たちだったのか、どのようなことを経て男性がこれをしたかを見ていきます。
犯人の本名は佐藤宣行
犯人の男性は事件の時、長い間仕事がない状況と、この部分を大きく持ち出され事件と働いていないという部分に注目する人は多かったです。男性の大きな特徴に特定のある一点を生活に影響する程嫌うという事です。
これに関しての話として、男性が高校を出た後に自動車の部品を扱う工場に働き始めた頃、勤務先に行く途中で路上で用を足した際にクモの巣に引っかかって汚れたと話し家に帰ることがあり、これが多く続くため男性は退職し、その後は一度も働いていません。
他にも仕事を探すために家を広くしたいと話して母親のお金を使って家を広くする工事を行った際、他の人が仕事の為に部屋に入ってくることを嫌がるために部屋を広くするのは完全に行う事ができずに終わってしまっており、彼のトイレの話もあわせて奇妙な部分が垣間見えます。
恵まれた家庭で愛されて育った
男性の経歴ですが、彼は子供の頃から自分の部屋を持ち、欲しいものは全て買ってもらえるなど恵まれた環境で育ちました。しかし男性の年齢が上がるにつれて父親の年齢が高いことをからかわれるようになったことがきっかけで父親との仲が悪い事が分かっています。
男性が中学校に入ると学校に向かうのが怖いと話し、心配になった母親が病院で見てもらった所精神的な病気だと診断されました。これに関しては彼の父親もかなりの潔癖症だったことから男性の病気は父親の癖が関係しているのではないかと考えられています。