二・二六事件を写真付きで解説|青年将校が目指した社会とは

これまでに言及してきた、農村での出来事、飢えに苦しむ人々やそのせいで身売りをして生活さざる得なかったような人たちがいたことに対しての不満により人々は、日本の政治について改めて考え始めたのです。

政治だけではなく、多くのお金を操ることができるようなお金持ちな人も含めて、このような人たちは何をしているのか、一般市民がこのような状況でいつも通りに平穏に過ごしてることに対して不信を抱いたことにより動き始めました。

尊王討奸とは

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これは二・二六事件でこの運動の目的となって掲げられたものであり、天皇が行う政治を完成させるためには自分の欲求だけに振り回されている政治に関係する人々をどうにかして負かせなければいけない、というようなかんがえであります。

【二・二六事件】2月26日午前5時クーデター発生

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この見出しでは二・二六事件についてより細かく追求していきます。二・二六事件は午前5時というとても早い時間に起きました。なぜこんな時間出会ったのか不思議に思いますが、この事件に関係した人たちについても詳しくみていきます。

二・二六事件実行メンバー1500名

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この事件に関わった人たちは約1500人いたと数えられていて、比較的首位の高い将校20名、現役ではない元将校2名、下士官88名、准士官1名、一般兵が1357名いたとされています。それほど大人数ででもなく少人数でもないような構成メンバーとなっていますが、一大事であるように感じられる人数だったのです。

二・二六事件首謀者

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主に青年の将校が下士官や兵を導き、数人の政治家を討っていって政治を新しく改めるよう行動していきました。ですが最終的には皆死刑にさらされてしまうこととなり、事件の終了となってしまいます。

二・二六事件犠牲者

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この事件により多くの犠牲者がでましたが、終止符が打たれすぐに死刑執行された人たちは将校19名の人たちでした。そして高橋是清(タカハシコレキヨ)や斎藤実(サイトウマコト)などの4名、首相を経験したことのある重要な臣下。そして警察の5枚の尊い命も奪われてしまいました。

首相官邸等の占拠

この後に高橋是清や斎藤実らの首相らが皇道派により殺害を目論まれ、そして国会議事堂周辺に建てられていた首相らの邸宅を占拠することになります。ですが、皇道派はここまでやってのけたにも関わらず、戒厳令で正統派に鎮められてしまいます。

通信網掌握

首相の邸宅らが占拠されてしまうとどのようなことになってしまうでしょうか。おそらく偉い人たちは人や物事の重要な情報を多く所持しています。ということは占拠されることにより、敵がその情報を得てしまうということになります。これから考えると、その情報を得たものは首相と同じ管理下でやっていけてしまうことができるわけです。

戒厳令

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これは天皇が宣言した法令であり、非常な時、使わなければいけないような戦争時やなんらかの争いごとが起きた時だけに発動できる法令で、普通の時の立法権、行政権そして司法権の使用許可を軍に任せることができる、非常事態の際に使われる法令であります。

【二・二六事件】天皇陛下の一言でクーデター鎮圧

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それでは、この事件が静まったのは2月29日になりますが、一体どのようにして収まっていったのでしょうか。おそらく相当な大きな話題、出来事となったため裏で大きなことがないと収まらないはずですよね。では、ここでは鎮まったきっかけを見ていきます。

二・二六事件の一報に天皇陛下激怒!?

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収まる事が出来たのは天皇自身の意見があったことにより、ことの終始がつきました。昭和天皇は基本的に政治に口は出さないと決めていましたが、彼の1番信頼や期待をしていた軍の部隊に勤める人がこの一件により亡くなってしまったのです。これにより、天皇は許すことができず、自分の意見を言い出すきっかけとなりました。

「朕(ちん・天子の一人称)が股肱の老臣を殺戮する者に許しは必要ない! 朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる!」これは訳したものになりますが、このように天皇は仰ったと言います。この発言をキッカケに事はおさまったのです。

「陸軍大臣告示」と裏切り

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2月26日の初日に発表された陸軍大臣告示により、皇道派は勝利の夢を近くまでつかむことができると感じましたが、裏で天皇に「賊軍」や「反乱軍」と呼ばれていたことに対して、天皇を中心に考えた新たな革命を目指していたのに、天皇にこのように呼ばれることによって裏切りだと感じていた人もおおくいたことでしょう。

陸軍大臣告示

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「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」「諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」「国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ」、これは陸軍大臣告示を発表された時に記されていたことばです。

また、戒厳司令官を務めていた香椎浩平中将は皇道派を信仰していましたがら、このような法令をだしたときにも自分が有利に立てるよう、首相者に取り繕っていたと考えられています。このようなことから、裏切りのような行為はいくつもあったとされています。

二・二六事件鎮圧

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簡単にこの数日かけた出来事も、天皇の協力あって鎮めることができたのが事実であります。ですが、そのやり方は武力を使ったやり方でもありました。皇道派は反乱軍と天皇に認められてしまい、敵の対象となってしまったのです。天皇の協力を得て政治を作り直そうと動いたものの、天皇に鎮められるのは悲しさでいっぱいになったことでしょう。

【二・二六事件】クーデターその後|陸軍の政治主導

それではその後、どのような政治状況になったのか、皆さんはご存知でしょうか?統制派が反乱で勝ったために、政治の情勢も動いていくはずです。それでは、どのように主導権が握られたのかご紹介していきたいと思います。

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