俺多数の人が犠牲になったかの出来事にはきちんとした意味がありましたが、どのように罰を与えられたのか気になるところでもあります。それではここで事件後に行われたことについてご紹介していきます。
7月12日主謀者処刑
この時期に主となって動いていた者達の裁判が開かれることになりました。北一輝、西田税、そして沢崎らの裁判がのちに行われるため、そのためにも必要となった証人のために磯部、村中は残されましたが、その他15名の将校が死刑と処せられました。
弁護人無・非公開の異例裁判
彼らは裁判が開かれ判決が決まりましたが、公開されない上に弁護士をもつけてもらうことができず、一審だけで判決が決まってしまったのです。これでは裁判の意味がないように感じもしますね。なかなか辛い判決だったということになります。
磯部・村中8月19日処刑
磯部は早い時期から北一輝の下で働くようになった皇道派のうちの1人でした。そして村中は、磯部と中心的に事件を計画したとされていて、裁判を起こされています。そしてこれらが原因でもあり処せられるという結果になってしまいます。
民間人西田・北も処刑
磯部や村中も最終的に死刑に処せられてしまうことになります。ですが彼らは青年将校に対し「日本を救うことのできる唯一の存在」「最も的確である人物」そして「今まで諦めかけてきた日本の政治も、この若者達が現れポジティブに考えることができるようになった」と話しています。
これらが考えられるようになったもの、あの北海道で有名なクラーク博士の「Boys be ambitious (ボーイズビーアンビシャス)」出会ったと言われています。彼の言葉は昔から語り継がれていたのですね。
うらみつらみを書き残した「獄中日記」
磯部獄中日記を含め行動記、獄中手記も手掛けていましたが、この三つの中で「獄中日記」が一番天皇に対しての失策であったり怠慢なことを多く咎められたものとして遺されています。これらを読み進めると昔の天皇のやり方がどのようなものであったのか、より知ることができます。
銃殺刑と同時刻近くで演習を行う
北一輝と西田らが拳銃で射殺されてしまったときと同じ時刻に、軍では演習をしていたとされています。その際に放った球の音が外に漏れ出さないようにし、シークレットで演習を行い続けていたとされています。なかなか怖い話でありますよね。
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二・二六事件の生き残りがたどった悲惨な人生
多くの人たちがこの時間により死刑となり、また犠牲となって殺害されました。ですが彼らの中にも行かなかった人たちもいるのです。ですが、このような人たちはどのように感じながら残りの人生を過ごしたのでしょうか。自分らの掲げていた目標とは異なった日本になってしまったと思うのでしょうか。
クーデターと知らなかった
昔の兵士らは自ら積極的にこれらの出来事に加担したわけではなく、上の者たちに言われざるままに従い、動いたのが事実です。「上の立場の人の指示は天皇からの指示と同じことだと思え」と教養させられてきたため、反抗することすらできない立場であったのです。
最前線に送られる
事件の終止がつき、幸い生きる希望を持つことができた人たちは満州に送られることになります。そのあとの出来事はあまりよく知られていませんが、彼らは恐らく満州の地で血に滲み、もがき続けなければいけない苦しみがおきていたのでしょう。
多くの者たちが色んな場所へ派遣されてはまた違う場所に派遣され続けます。もちろんその中にも多くの死がつきまとうのです。この事件で天皇から賊軍と言われ、思われ続けてきた者たちは、天皇は一切の生きる術を許さなかったということが読み解けます。
終戦まで監視下に
罪のない者たちにもとても残酷な結果となった出来事となります。事件が落ち着くまで兵達は身を捕らえられ、その上に調査までさせられていました。事件は終わっても身体、精神的に拷問のように終わるまで監視し続けられていたのです。
そして自ら兵に属すと言う人はほとんどいなかったでしょう。青年将校、上の者が法を犯しながらも反発することに対して止めることもできず、従うだけで同罪とみなされてしまいます。そんな彼らはどのようにすれば報いられる事が出来たのでしょうか。
もし二・二六事件が成功していたら?
それでは少し想像を膨らましてみましょう。二・二六事件は結果的に統制派が天皇の手助けにより勝利したという歴史に残ることになります。もちろんそれのせいで軍の力も大きくなり、犠牲となった人も多く出て、生き残った皇道派は余儀なく満州に送られ苦しみを与えられてしまいました。
ですが、もし二・二六事件で皇道派の行動が倒されていたら、今現在はどのような法律、軍事と変わっていたと思いますか?なかなか難しいことですが、おそらくいろんな説が浮かび上がることでしょう。今回はその中でも少し想像を加えてご紹介いたします。
東条英機は権力を持たなかった
おそらく皇道派がどこかへ追いやられたり死刑にあったということであれば、統制派も追放にあい、死刑にされる比率がたかくなったであろうとされます。ということは、東條英機が首相になることなど1ミリも無いといえることになります。
東條英機
東條英機、彼は陸軍の軍人でもありながら政治に着手する有能な人物でありました。そして、二・二六事件では生き残った兵たちの監視役となり、身の上の調書をしていました。彼らの情報を丸々暗記し、着任していたそうです。より仕事熱心な人であったと考えられます。
陸軍学校
また、東條英機は陸軍学校の教官としても働いていたため、隊の少尉、中尉の陸軍大学を受験する人に対して、隊の任務を減らし、勉強に努めてられるように手配したとされていて、とても愛のある先生でもあったとされています。今現代にもいて欲しいような存在であったのですね。
太平洋戦争は起きなかった
統制派が勝つことにより軍の力が強まったことは以前お話ししましたが、これがきっかけで太平洋戦争に導いたとされています。と言うことは、その逆でもし皇道派が主位に立てば軍事力はつよまることはなくなる、そして太平洋戦争には導かれないということになるので、戦争は起きないということになります。
昭和天皇
昭和天皇の戦争に対しての責任を追及する意見は賛成派も反対派もそれぞれいますが、賛成派に対しては、その戦争における多くの犠牲者、要するに侵略したときの犠牲となった中国、日本全国民の被害者、その他アジアや巻き込まれてしまったアメリカ、そして軍事に関係した人々に対することで訴えられます。
多くのものが亡くなり被害にあったにもかかわらずということが原因です。一番よく知られているのはポツダム宣言に関してのことでしょう。約15年間にわたったとのことで、ポツダム宣言を受諾しないことにより被害にあったという時もありました。これらは天皇は退位すべきだという事で問われ続けていました。
天皇の責任により天皇制廃止も
前者でもご紹介した昭和天皇ですが、天皇の下した決断により多くの犠牲者が、日本国内の一般市民や軍だけではなく海外にも影響を与えたことをきっかけに、天皇の即位という行為が廃止、禁止される場合もあったということです。
もちろんこれは誰もが簡単に考えることができるかと思いますが、日本のトップに立つ人が周りに迷惑をかける、市民を守れないというのであれば、上に立っている意味がありません。むしろ国の崩壊になり得る可能性も出てくるのです。そうなれば天皇はいなくなるという考えも出てきたのではないでしょうか。
二・二六事件にまつわる遺品20品が見れる施設
皆さんは今までに博物館などに行ったことがありますか?そこには多くの昔に起きたことや、その時に使われていたもの、昔に関する証拠が多く置いてある建物でもあります。そこから本当に存在していたと確信できるものでもあり、なかなか感動与えてくれるような場所でもありますよね。
では、二・二六事件に起きた時に使われた、遺品はご存知ですか?おそらく探せば簡単に見つかるのかもしれませんが、今回はこの遺品の寄贈についてご紹介したいと思います。なかなか貴重である品物が展示されている、興味のある方は是非その地に赴いてみるのもいいかもしれませんね。
鈴木貫太郎記念館
千葉県の野田市には鈴木貫太郎記念館という建物が建てられてあります。青年将校らが反乱を企てたとする首謀者のうちの1人の安藤輝三大尉の遺族が、千葉県野田市長に遺品20品を記念館に寄贈するように譲り受けました。写真を見るからに昔の制服などが想像できます。
この記念館は昔の事件を思い出させるような場所でもあります。遺族が提供した遺品を使い歴史を語っています。写真なども白黒で展示されているため、本当にあったことを実感できるようなエキシビジョンとなっています。
遺品
これら遺品の中には、同時使われていた黒縁のメガネ、制服、日本刀、などもあり、拠点としていたお食事どころのマッチや、そのオーナーの名刺であったり、数々の昔のものが展示されています。もちろん写真も白黒であり、本当に起きた事件なんだと証明させられます。
もちろん彼らだけではなく書物もありより勉強させられるように構成されています。みなさんが気軽に行けるような場所でもありますので、興味のある方は是非行ってみるといいですね。日本の歴史も一緒に学んでいきましょう。
鈴木貫太郎との関係
記念館のタイトルでも使われている鈴木貫太郎は1945年首相も務めていたことになりますが、遺品を提供された遺族の父、安藤輝三大尉と同じ事件で負傷したとされていて、鈴木によると安藤は可愛い青年将校と慕っていたそうです。そして鈴木の遺族の承認を経て、遺品が譲り渡されたのです。
鈴木貫太郎と安藤煇三大尉も仲が良かったように、残った遺族らも関係を経ているようで、昔から代々継がれているような関係も、戦友と考えるようなことがあっても、続くことはなんともほっこりしたような気持ちになりますね。彼らにより昔を知るチャンスを与えてくれることに感謝したいです。
青年将校の遺族の辛さ
これまでに皇道派や統制派など、彼らに対しての意見や彼らはどんなことをしたのかなどに注目してきました。ですが、あくまでも彼らの意見であって、周りの意見はどうだったのか、特に親族など、遺族が殺されてしまったり、殺してしまうなどいろいろなみかたがあるとおもいます。
特にこの事件では多くの人たちがなくなったため、なかなか関係者の本当の話を元に事実を知ることが難しいです。文献など書物は出来事が記されてあっても詳しい内容はなかなか見つけられません。そこで、経験者、遺族からのお話を聞くことはとてもためになります。
遺族の辛さはどれくらいなのか
安田善三郎さんはこの時間に協力していた、青年将校の優れた兄を持つ方であります。彼が、自分の兄が青年将校だと情報を得たのはは2月29日だったそうです。当時は村にラジオが数台あればいい方だったので、情報の伝達速度が少し遅かったのです。
そしてこの通達を聞いた時の彼の家族は大騒ぎになる程だったそうで、昔から親に迷惑をかけないような兄出会ったため、その分のおどろきもおおきく、母は嘆き悲しんでしまったほどショックをうけてしまったそうです。
善三郎さんの人生
彼は当時小学生で、小学校でもいじめのようなものがあったと言います。例えば学校で先生から休んでいいという合図がいつまで経ってもなく、ずっと走らされたり、ということもあり、兄が人を殺したという、事件に関わったことによりいじめのようなものが発生したと感じていました。
そのようなことを経験していたため、士官学校のテストを受けた時もまた同じように見られてテストに落ちてしまうだろうと、感じたにも関わらず、それは見事に合格したという嬉しいときもあったそうです。
少し残念に思う
おそらく善三郎さんがちょっとしたいじめのようなものにあっていたのがあったので、恐らく家の近所など周りでも噂になっていたのかと思います。そうなると常に家で仕事をしている母親はそれを気にするようになってしまいます。
そのようなことから、彼が結婚した最中に、兄がこのようなことをしなければ、少しでも母の気が楽に、そして母親だけでなく両親をもっと幸せにできたのではないかとかんがえたそうです。彼は兄弟の中でも6男目であり、兄の出来事があったからなのか、頼もしいような存在になっていったのです。
二・二六事件|国を変えようとした若者たち
多数の若者がこの事件で尊い命を奪われてしまいましたが、その後すぐに彼らの目標となるような国に変わることはいきませんでした。ですが、今となっては都心と農村部ではほとんど格差なく暮らすことができています。
リスペクトして、そして天皇も市民に敬意を表し良き日本とへと成長している最中であり、少しは彼らの思い描いた国に変わっていることが確かなことから、彼らのためにもなっているということ、それはやっと報われたと言ってもいいことになります。これからも平和に暮らせる事を大切にしていかなければいけないのかもしれませんね。
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