【三島由紀夫事件】三島由紀夫の切腹から浮かぶ思想と事件の全貌

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事件を知った日「やっぱり」と、妙に腑に落ちたようです。

三島由紀夫「美輪明宏」に別れの挨拶

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この世を去る一週間前に美輪の楽屋に遊びに行っています。たくさんの薔薇を花束にしてコンサートの出演を祝ったようです。

いつもになく弟の話しをしたり、会話に花が咲いたといいます。最後に「もう来ない」と言い残しています。普段から直接的に物事は語らず間接照明のように例えた会話をしていたとされ、別れの挨拶を遠回しにしたのでしょう。

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最期に敬愛の相手であった美輪の演じる姿を目に焼き付けておこうと思ったのでしょう。最前列で眼鏡をかけて凝視していたといいます。そして美輪が歌うメロディに聞き入ったのでした。

美輪も歌いながら、彼と出会ったときから今までの出来事が頭の中で、映画が流れているかのようにはっきりと映し出され、なにか起こるのではないかと、彼の身を案じていたようです。

【三島由紀夫事件】その他著名人のコメント

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文学を通して、さまざまな社会的地位のある人物と交流がありました。そして彼の死を知った名声たちは惜しむ声や厳しい心持を公表しています。彼との関係性も一緒に交えながら、みていきましょう。

三島由紀夫事件へのコメント①開高健

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本気だったんだと語っています。まさか実行するとは思ってもみなかったことなのでしょう。同じ作家として開高を評価をしていたものの、自身が戦争の体験がないため作品として綴ることができない嫉妬ともとれる部分を持っていました。

書きたくても本にできないもどかしさを、開高にはできました。どうしても掴むことができないぶつけようのない感情を持っていたのでしょう。

三島由紀夫事件へのコメント②中曽根康弘

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当時、防衛庁の長官を務めていました。彼が起こした騒動を公に賛同ができないものの日本を変ええいかないといけないという思考は密かにもっていたとされます。

ただ自身の立場を考えると、複雑な感情を持っていたことでしょう。記者会見を開き大変遺憾となる事態と述べ社会的な秩序を壊す行為と言い放ちました。

三島由紀夫事件へのコメント③五木寛之

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ロックミュージックに興味を持っていたとしたら、こんな結末にはならなかっただろうと独特な感性で死を惜しんでいます。

作家や新聞、雑誌の記者という文筆する職業を集めて上演された演劇サークルで一緒に活動をしていた間柄でした。中でも2トップともいわれる人気作家が出演する演目は話題を集めていました。

三島由紀夫事件へのコメント④佐藤栄作

生前の三島に対して、自衛隊の体験訓練を積極的に発信してくれていたため好印象を持っていましたが、騒動を起こした後は日本を支える首相として厳しい意見を述べています。

気が狂っているとしか思えない行動であり、最期を遂げたことは立派だったとしながらも、場所と方法は考えるべきとバッサリ突き放した言葉を残しています。

三島由紀夫事件へのコメント⑤武田泰淳

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2人は同じ時期に作家として活動をし、お互いが才能を認め合う仲でした。武田は中退してしまうのですが出身大学も同じという境遇が似ている関係です。もっと切磋琢磨して世に多くの作品を出したかったことでしょう。

事件前の対談で、三島は戦後のおける社会を否定しているのに生きていくためにお金を得ていることが恥ずかしいと述べています。これに対し武田はそれだけは言ってはいけないと一生懸命なだめたとされます。

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葬儀では仏教の僧侶が身に着ける布状となった衣装を身に纏い、彼の死を追悼し弔辞しています。早すぎる死を偲んだのでした。

【三島由紀夫事件】決行日には意味があった?

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公言した実証がないことからさまざまな憶測を呼ぶ中で、彼が決意をした日には何か思い寄るものがあったのかという点について考察していきます。

三島由紀夫事件の決行日の考察①昭和天皇が摂政に就いた日

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当時の国民にとって天皇は神様の存在であり姿を目にすることがなかったとされています。声だけを聴き祭られておりました。大正から昭和へ時代は変わり主上も変わりました。

インタビューで、人間化することを批判する発言をしているため、一因として挙がっています。彼の思想からして、関わるのある日程ではないかと密かに囁かれています。

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これには年齢も合致していることから、根強く諸説として残っています。神ではなく人間であると公示したのが45歳であったのです。

皇居をむいて天皇万歳と言い残して事に及んだことから、事由として挙げられています。彼が断言して実行に移したわけではないため、確証なものがないのですが、記念すべき日に自分の幕も閉じたいという強い願いがあったのではないかといわれています。

三島由紀夫事件の決行日の考察②三島は天皇の代わりに死んだ?

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日本の象徴であり最高の神だと称えられてきた存在であったことが、一変して人間だと伝えられたことで、大きく落胆したのではないかという説です。

信仰心が強かった時代であっただけに、影響力は大きかったとされますが、彼は特に古来の伝統を重んじた思考傾向があっただけに、自分が他の世界へ行くことで神を蘇らせることができると考えたのではないかといわれています。

三島由紀夫事件の決行日の考察③敬愛する吉田松陰が刑死した日

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多くの若者に影響を与えた人物であり彼も敬愛しておりました。早くに亡くなっているため惜しむ声も多く、彼が長く生きていたら景色はもっと変わっていたかもしれないとまで言われている人物です。

処刑された約9年後に明治維新が起こり急速に技術の発展を遂げています。この動きになったのも松田の動きがあったからだとも言われているのです。大きく時代を変えた彼は、三島にとって偉大であり大先生であったことでしょう。

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そのため同じ日に選んだのではないかと諸説あります。ただ偶然が重なっただけなのか果たして巧妙に日にちを考慮したものなのか文学の天才はすでに姿ない現世では、真実を知ることはできません。

ただ長い歳月が経過しても話題となり注目を集め続ける彼は、多くの人の心の中で生きていることでしょう。

三島由紀夫事件の現在

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都心の敷地にかつて壮絶な事件が起こった建物が今も維持され佇んでいます。現在は防衛相の管理敷地となっており、記念館として歴史が風化されないよう残されています。

事前に申し込むとアナウンス付きで見回りができる聖地と遂げています。密かな観光スポットとなっているのです。

今も残る生々しい傷跡

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頑丈そうなブロックで設置された防衛相の門を入り、受付で見学許可証を受け取ってからしばらく歩いて行くと白いこじんまりとした建物が立っています。それこそ三島が演をし絶命した場でもあります。

全てが当時のままではなく、一部は復元されていますがなるべく当時の面影を消さないように配慮がされているようです。

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陸軍の大臣室として展示公開されている部屋は、時間が止まっているような静かさと厳粛な雰囲気を放っています。今もドアには刀の乱闘でできたとされる傷がか所あり、当時の壮絶な光景が残されています。

ファンの中では聖地として拝められており、彼が最期を遂げた場所でもあるので、一番身近に感じるスポットになっているようです。世界的に有名な作家であるため、今後も世界中から訪れる人が絶えないことでしょう。

三島由紀夫が現世に残したメッセージ

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祖国であるわが日本を守ろうと奮起し、自ら軍組織を作り上げた彼は、会員100人の制服を自腹で支給し鍛え上げた体で貢献をし努めることに徹しました。

同じ思考を持った若者を集めて今後のために動こうとしていましたが、隊員が力を合わせても文明の開化には到底及ばなかったのです。こうした中で、彼は何かが見えたのでしょうか。

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未来を悟ったメッセージを残しています。彼の目に映ったものは確かなものとなってしまったのです。

日本を心配していた

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西洋の文化が入るようになり、着物から洋服へ和食から洋食、仮名文字が使われたりといった生活スタイルが大きく変わった世紀でもありました。

新しい風が吹いたと新鮮な気持ちになり、たくさんの人々が最新文化に心躍らせる中、彼だけは違いました。今に日本は悍ましい出来事が日常的に起こるようになると予言者のようなことを語ったのです。

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親が子供を殺したり、逆もあり、また見ず知らずの人を殺傷する通り魔的な犯行をする人間が出てくると告げています。まさに現代の社会で毎日のように報道されているないようではないでしょうか。

虐待であったり無差別な通り魔事件も頻繁に起こっています。彼はまだ見ぬ未来の国の姿がわかっていたのでしょうか。贅沢な日本になったことで、本来あるべき道徳心が失われてしまったのでしょうか。

本当の大切な物

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戦後の日本は誰もが貧しく生きていくのに必死なときでした。今日食べるものもどうしようかと悩む日々であり、マナーや教育ということよりも、まずは一日命を繋いでいくことが大事だとされていました。

そのためみんなががむしゃらに生きていたのです。人間の欲求が満たされていないと心が荒んできます。そうして日々過ごすうち思いやりの気持ちが薄れていったのでしょう。

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ですがあるとき、気づくのです。荒れた日本でこのままでは破滅に向かうと。三島は方向性を正さなければ危ないと早くから感知しており、国を立て直さなければいけないと訴えていたのです。

当時は何を言っているんだと罵声が飛び交いまともに聞き入ってくれる人物がいなかったでしょう。演説は早くに打ち切り自決をしています。

間接的な文章を好んだ彼でしたので、ズバリ言わないオブラートに包まれた言葉の中に多くのメッセージが残されていると感じてならないものであります。

外国との関係にも及ぶ

イギリスのジャーナリストが取材をしたとき、日本が緑蛇の呪いにかかるという発言を残しています。あまりに間接的な表現だったため、何の意味を指しているものなのかが理解できなかたようです。

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後に彼が伝えたかったのがアメリカの紙幣のことだと判明します。今や日米の関係は入り離せない密接な関係となっています。

世界的なマーケットを誇るアメリカなしでは、私たちの食卓は乏しいものになるでしょう。それを早くに悟った彼の頭脳には感銘を受けるばかりです。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫の求めた「美しい死」

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世紀の背景で死という考えが変わってきていることがうかがえるのもであります。戦国時代から力あるものが強いとされ、潔い死に方が武士道であるとされてきました。

後に戦争が起き、武器を使い人間を殺めていき強い国であることを主張していた時代では、国のために死ぬことがヒーローとされました。未来ある若者が数えきれないほど空へ旅立ったのです。

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彼の生きた時代は戦後の誰もが貧しく生きていくのに必死だった時代であります。教養や躾などよりも明日命を繋ぐことに必死でした。

争いで命を捨てる覚悟でありましたが行くことが出来ず、抜け殻のようになっていた心の隙間に武士の志が入りこんだのでしょうか。

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潔く逞しい肉体のまま絶命したいと彼独特の美を追求した結果が、切腹であったのでしょう。姿なき天才にはいまだに謎が残る部分も多いですが、数多くの作品を残したことで今も世界中に三島由紀夫という名は輝き続けることでしょう。

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