全ては我が国のため、神の存在である象徴を崇めて古き社会を維持することを願っています。武士の心を重んじ漢字で記したのでしょう。
この言葉について詳しく知りたい方は、こちらも良かったらご覧ください
【三島由紀夫事件】三島由紀夫の憂慮
この頃取り組んでいた作品が「豊饒の海」でした。4部作から構成された大作であり青春の絶頂における死を題材とし、5年という長い歳月を掛けて執筆しました。
周囲には完成したら死ぬかもしれないことを、何度も口にしていたといわれています。全盛期であった当時に絶命することが美しいラストと考えていたようです。
体を鍛えていた経緯も、割腹をした際に脂肪が出てきたら嫌だという独自の美徳をもち、筋肉をつけていたのでした。
伝統ある侍魂を受け継ぎ、今後のためにも大切である志だと思っていたわけですが、豊かな社会となりつつあった背景で個人の自由を尊厳していく風潮に変わっていったのに対し、不安を覚えたのでした。
【三島由紀夫事件】切腹
生前から自分の幕引きの手段を決めており、迷いはなかったようです。ただ人々の目前で行われた行為はあまりにもショッキングでありました。侍魂を重んじて自ら命を絶っています。
今の時代では考えられない光景であり、死を選択することは悲しいことだと認識されていますが、彼らが活躍した世紀とは異なる了見がありました。潔いともとれる行動を順番にみていきます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫は皇居に向かって天皇陛下万歳三唱
スピーチは予定していた時刻よりも早くに切り上げられました。終末前の肉声はわずか7分ほどで終わっています。
大幅な削減に至ったのには、機動隊が駆け付けたため、想定していた段取りを弊害されてはいけないと感知したのではないかといわれています。
叫ぶことをやめると、後ろに仁王立ちしていた森田と一緒に、皇居に向かい「天皇陛下、万歳」と三唱し、永遠となる健康と長寿を祈り称えたのです。この一連で思想が垣間見れる瞬間でもありました。
【三島由紀夫事件】「切腹」
外のバルコーンから大臣室へ退散をすると、勤めを終えたかのようにぽつりと呟いたといいます。「あの騒ぎでは聞こえるわけがないな」と。
室内に立つと、おもむろに着ていた正装のボタンを外し始めます。この場所で行うことは責任者に迷惑をかけてはいけないと思ったのでしょう。
全てに恨みがないことを伝えた上で、こうするしかなかったと話しかけたといいます。気合を入れ一喝すると、両手で短刀を握り迷いなく自らの体に刃を刺していったのです。壮絶な現場でありました。
傷はへその下4㎝の位置で左側から右に13㎝真一文字にされていました。深さ5センチもの潔い死に方だったといいます。壮絶な内容については、この後詳しく書いていきます。
【三島由紀夫事件】楯の会「森田必勝」介錯
見せた自慢の日本刀で絶命の介添えをしました。古くからの伝統にのっとり首の皮一枚を残して斬首したのです。日本独特の習わしであり、侍が臨終を選ぶ際に行われていました。
織田信長が本能寺の変で切腹をして終わりを遂げているように、主流の方法でした。戦国時代では出血多量で果てを待つという臨終方法をしていたようです。
あまりに苦しむ時間を要するため、早めに楽にさせるよう手伝う人物をつける手法が、江戸時代後期は浸透します。ばっさり斬り落とさない形で残す意味は、礼儀とされ腕が達者とみなされます。
尊敬していた命を奪うことに躊躇したようです。何度も刃を首めがけて、振りかざしていますが、致命傷となる行為には至っていません。
この際まだ息はありましたので、総監がやめるよう忠告しています。命を奪っていけないと叫んでいますが彼らの耳には届かなかったようです。
執行人は自分では無理だと悟り、古賀に託し武士と同じ最期を遂げたのでした。
【三島由紀夫事件】森田必勝もその後切腹
実行する前に、君はやらなくていいと告げられていますが、命を捨てる覚悟で楯の会へ入隊しているため本人には死というゴールしか見えていませんでした。責任感が強い彼が途中で投げ出すことはしなかったでしょう。
心酔していた亡骸の隣に静かにそっと正座をし、倒れたときに隣になることを想定し位置確認します。意思が強かったのでしょうか、無言で自らの腹へ刺していきます。
まだ首は斬るなと話す余裕も見せています。自分の納得する部分まで刃を移動し終えると、よしと合図をかけ最初と同様、古賀が介錯人を務めました。
辺りは血の臭いと騒然な雰囲気で異常なほどの空気だったようです。こうして今でも語り継がれる一連は幕を閉じたのです。
【三島由紀夫事件】残った3人のメンバーには実刑判決
2人の亡骸の前で大粒の涙を流し、合掌しました。総監も黙とうさせてほしいと懇願し、一緒に静かな時間を過ごしています。正面入り口から3人は登場し、抵抗することなく駆け付けていた警察官に現行犯逮捕されました。
手錠はかけられずパトカーまで連れられています。少しながらの心遣いであったとされます。裁判が行われ、弁護人は刑を軽くしようと、緊急を要した救助であったと代弁しました。
到底思えず認められないと主文が言い渡され、懲役4年の実刑判決が確定し塀で囲まれた部屋に送り込まれました。
トップを失った一同は、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感に知られたことでしょう。日々恩師ら思い出し、今後の秩序のために、どうあるべきかを考察していたでしょうか。
刑期を終えたメンバーの一人である古賀は、神主の資格をとり毎年慰霊祭を執り行い、隊長と盟友の死を偲びました。元会員の大勢が集まり追悼の念を示しています。
【三島由紀夫事件】壮絶な切腹劇
介錯には大変な技術が必要とされますが、一太刀で終幕の勤めを果たすことができませんでした。侍の時代では酷い苦痛があるため取りやめになっていたほどですから、相当な時間を苦しんだと思われます。
現場に立ち入った人物が赤い絨毯だったため血に染まっていることを気づかずに歩いてしまい、ぐちゅっとしたと語っており今でも感覚を忘れることができないといわれています。
作家として名声を得た彼の息絶えるまでの時間を詳しくみていきたいと思います。
【三島由紀夫事件】一太刀では落とせなかった首
ただでさえ自分の体に刃物を刺しているわけですから、痛みが凄いはずです。武士でも苦しみを軽減させるため即刻に首を斬るのですが、今回は何度も首に太刀をおろしています。
頭の後ろから首にかけて、いくつものキズ口がついておりグチャグチャだったようです。幾度となく刃を突きつけられているため痛覚で前かがみとなり、切れた腹からは小腸が50㎝ほど流れ出たとされます。
想像を絶する苦痛に襲われていたのです。偉大な先生と心酔し、命を捨てる想いで慕っていた森田は心意気はあっても、実際に本当の別れだとなると躊躇する気持ちが少なからず湧き出てしまったのでしょう。
【三島由紀夫事件】苦しさのあまり舌を噛み絶命を試みる
なかなか斬れず、4回ほど繰り替えした後やっと成功しています。その間ずっと苦しみ続け経験したことのない痛覚が常に襲っており、耐えられなかったのでしょう。
舌を噛んで死のうと試みますがこれも失敗に終わります。一度振り下ろした刀が顎にあたったことで骨が砕けています。
凄まじい力が加わっていたことがうかがえる光景であり、なかなか事が終わらない命の重さも垣間見れるものであります。
意識があったことも奇跡的ともいえますが、彼の終わりは徳川幕府の侍でも経験をしていないような残虐であり想像を絶する死にざまでありました。
【三島由紀夫事件】S字に曲がってしまった関孫六
体内に入りこんだ刃先は、見事にぐにゃっと曲がっていました。頑丈な鉄が柔らかいモールのように変貌したことは、それほどの運動力を物語っているといえるでしょう。
苦痛に耐えた経緯でありましたが、頼まれた人間も相当な体力を奪われたことでしょう。それを証明するかのような形でありました。
【三島由紀夫事件】事件後
自決という人生のラストを遂げた彼は、短すぎるともとれますが45年間は色濃く、現世も色褪せることなく歴史に刻まれています。天才的な文筆家としてのストーリーは、多くの人が注目をし悲しみに包まれました。
突如起こった騒動は急に火の粉が燃え上がり一気に消火され、静けさを取りもどしつつありました。終結の挨拶をしようと多くの人々が集まったのでした。その後に迫ります。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫は綺麗な姿に戻されていた
翌日に、慶應義塾の病院で解剖が行われていました。その際に胴体と離れてしまっていた頭部を綺麗に縫い合わせ、生前と変わらぬ姿態に戻されています。
お見送りくらいは綺麗な姿で見送ろうという心意気でしょう。亡骸を見た親族は穏やかな眠っているような表情を見て少し安心したことでしょう。
経緯を聞くと壮絶で苦しみしかなかったでしょうが彼の希望していた臨終方法で、やり遂げたという達成感が表情を優しくさせたのでしょうか。まるで生きているかのような仏であったとされます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫の告別式には8200人の人が参列した
制服を着て胸の位置で軍刀がしっかりと握りしめられた姿でお棺に納められました。本当に今にも目を開けて動き出しそうな勇ましい見栄えでありました。
遺体安置所で警察官らが綺麗に化粧を施し最期の門出を飾ったのです。ほかには天でも文章がかけるようにと商売道具でもある原稿用紙と愛用していた万年筆も一緒に入れられました。
夕方のうっすらと陽が沈みかけ物悲しい景色になった16時頃、出棺となり母親は別れの際に、顔を撫でたといいます。月がゆっくりと昇り照らしていくように魂も空へあがっていったのです。
後に開催されたお別れの会では場に入りきらないほど集まったとされ、近くの公園にまで溢れました。多くの人から偲ばれ故人も喜んでいるではないでしょうか。
誕生日に多磨霊園の墓に遺骨は葬られました。壮絶な時間を過ごした彼でありましたが、ゆっくりと四季の移り変わりを感じながら、緑豊かな地でひっそり眠っています。