【三島由紀夫事件】三島由紀夫の切腹から浮かぶ思想と事件の全貌

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後に彼が入隊していたであろう部は、フィリピンへ旅立つのですがほぼ全員が死傷しています。当時は、お国のため生命は惜しくない、死せばヒーローとされる考えでした。

自分だけ助かったような状況には、男として役に立たなかった不甲斐なさや、体の弱さを表明しているようであり、益々コンプレックスとして抱くようになります。

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心の中で特殊な永眠への追及や、争いが終わったら余生だという感覚を抱くのです。特攻隊を熱望していたことから、死出の旅への恐怖はなく国のために貢献する熱意が強かったことでしょう。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫⑧終戦後、小説家を目指す

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世の中に少しづつ光がともしび始めたころに、息子の文学愛に快く思っていなかった父でしたが、これからは文章が強みになると悟り、小説家になることを提案します。

大黒柱からの許しを得たことから、しがらみが消え去り本格的にストーリーを書くことに力を注ぎます。お告げがなければ、彼の心は空洞のままであったでしょう。

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熱中できるものがあったからこそ、戦争へ参加できなかった空虚感や悔しさが少しづつではありますが消え去っていったことでしょう。

ただ、同じ時期に作家活動をしていた人物の多くが戦場を題材として執筆していたのに対し、実体験のない彼は、書きたくてもできないジャンルでありました。嫉妬心を燃やし悔しい思いをしていたようです。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫⑨様々な作品を残す

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初めから文筆一本で生計を立ててはいませんでした。東大を卒業後は大蔵省へ勤めながら時間を見つけては短編小説を完成させています。

文を作る生業として食べていける人物はほんの少しであり、二足のわらじを履きながら生活をしていくつもりでありました。極度の寝不足が続いており出勤途中で、駅のホームから転落してしまいます。

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幸運にも電車は来ず自力で逃げ切りましたが、これを知った父は作家だけに力を注ぐよう促します。なるからには日本一になることを約束させてでの条件ではありましたが、好きなことで食べていけるようレールを敷いた優しさがうかがえます。

長編の小説にも挑戦することができ、世にたくさんの作品を送り出すことになるのです。親の目は確かでありました。さまざまな文学賞を手に入れる快進撃で、世界的な有名文章家として名声を手にするのです。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫⑩45歳で切腹により死亡

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以前から他界への戸惑いはなかったものの、作家として軍兵の隊長として毎日を忙しく動いていた彼の中には特殊な美学が常にあったようでした。それは腹を切って他界することでした。

今まで神様として称えられた天皇が、人間であると公表したのが45歳でした。心酔していた存在が宣言をした同じ年に、自分の魂を捨て神を降臨させようとした意味があったのではないかといわれていますが、真相は定かではありません。

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ただ、彼の中では異常な死生観であったり古来からの伝わる日本人としての思考への、強いこだわりがあったことは事実です。この一連で妻は、ショックのあまり寝込んでしまいます。

幼い子供2人を抱えて生きていくには過酷すぎる時代でありました。彼は自分がいなくなった家庭を見越して、たくさんの作品を残し、家計の助けとなれるよう考慮してから、死を遂げたのでしょうか。

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夫の突然であり壮絶な永眠は、予想もしていなかったことでしょうし、大きく世間に取り上げられたことで嫌でも情報は耳に入ってきたことでしょう。深い悲しみに明け暮れたようです。

【三島由紀夫事件】割腹自殺と三島由紀夫の美

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文学界で素晴らしい功績を残している彼は、発想力も飛び抜けている他、空想世界を設計する賢い頭脳も持ち合わせています。それ故に独特の世界観や美学がありました。

もうすでに彼から聞くことはできないのでありますが、さまざまな感性から考察していきます。

三島由紀夫事件から考察・三島由紀夫の切腹への憧れ

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誰よりも古来の本国を受け継ごうと強い信念や思想を持ち憂いていましたが、切腹という行為には幼少のころから憧れを抱いていたとされます。祖母である夏子はたくさんの本を与え文学に触れさせました。

歌舞伎など古き時代を題材とした劇も教養の一部と考え観せています。少なくとも古来文化に親しんできたことで、いつしか彼の中で武士は強くてカッコいいものだという美学が確立していたのではないでしょうか。

虚弱だった自分と男らしさへの憧憬

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幼いころにはたくさんの風邪をひき、学校も休みがちでした。極めつけは入隊検査での風邪が原因で戦争へ参加できませんでした。

コンプレックスとしてずっと持ち続けてきたため、強いものに対する憧れがあったのではないでしょうか。小さなときに負った心の傷は大人になっても、なかなか癒えないものであります。

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まるで幼少時代に一切禁止だと触れさせてもらえなかった男子のやんちゃな遊びに対する反動がきたかのように男らしさを追求していくのです。

三島由紀夫とボディビル

見事なまでの筋肉美を写真で披露しています。30歳になると体を鍛え始めました。当時は細いラインを強く魅せようと始めたのではないかと囁かれていましたが、実はすでにこのときから他界のカウントダウンは始まっていたとされます。

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決意する寸前には、腹を切ったときに脂肪が出るのが嫌だと公言しているため、彼なりの美への感性があり、老いには目を逸らしたかったのではないかとされます。

鍛え上げた張りのある肉体がある姿が美だと思っていたのではないでしょうか。彼の作品にも多数、生と死の考えが綴られています。

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文字では綺麗な世界が作れますが現実の世界の自分はというと作家をしながらのうのうと歳をとりながら生きていることが受け入れがたかったのではないでしょうか。

三島由紀夫と武士へのあこがれ

存在そのものに憧れていたとされます。国を憂い、自衛隊の前で大演説をし、大義の元に切腹して果てるという「演出」に酔っていたのではないか?という説です。

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頭で描いていた内容は、スピーチに聴衆が耳を傾け賛同してくれたうえで切腹するというシナリオであったとされます。

大きな感動を呼ぶことを想像しておりましたが、実際には外部の雑音で阻害されてしまい、ほとんど聞こえていませんでした。

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30分の予定が7分と短縮され無念の寂しい一言を残しています。割腹した血で「武」と書く予定を描いていました。まさに憧れの世界だったことでしょう。

諦めてしまっています。行動を起こす前の熱気は消えつつありました。現実の冷めた温度差を感じながら、こんはずではなかったと、さぞがっがりしたことでしょう。

三島由紀夫が作った映画「憂国」

 

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生々しい切腹シーンを制作しています。消え去りつつある武士の志を忘れない夫と一生添い遂げたい妻の姿には美しき古い侍の世界を感じます。

潔く腹を切りを選び、一巻の終わりをすることが男らしく、理想の最期であることがうかがえる作品です。彼の思考にある武士道が忠実に再現されており、彼の憧れであったことでしょう。

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この作品を手掛けているとき、眠くて目を閉じたいのになぜか手は止まらない不可解な現象を体験しており、見直して文章を変えようとしても、どこを消して訂正したらいか頭が真っ白になったといいます。

怨霊に取りつかれてできたとも噂されており、彼の考えとは一味違うストーリーだとも揶揄されています。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫の生首が雑誌に掲載!

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現世の報道手段としては考えられない過激さを物語っていますが、生首や胴体と首が分かれている2つの写真をアサヒグラフが掲載したのです。目にした人々は騒然となりました。

三島由紀夫事件でアサヒグラフが生首掲載

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よく美容師がカットの練習をする際に使う頭だけの人形のような姿を大きなアップで掲載したのです。白黒ですので、色がない分リアルさは軽減されていますが、まさにスクープ写真です。

スピーチしている生前の写真から順番に、インパクトが強い写真までを掲載しています。カメラマンは騒動があった部屋までこっそり入り混んだのでしょうか。

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マスコミの素早さには感銘でありますが、ここまで載せることが果たして真実を伝えるものなのか物議を醸しだします。

三島由紀夫事件は雑誌フライデーも後に高解像度で生首掲載

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技術の進歩によってより写真が鮮明に映し出されるようになりました。時代の発展はときに残酷であります。初めてアサヒグラフが掲載してから14年後に写真が生まれ変わって、再度世に出回ったのです。

鮮度が高いため、よりリアルさを増しており強烈な見た目であったことから、ネット検索ワードで「三島由紀夫」が禁止となった時期がありました。

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遺族の抗議を受けて生首写真が差し止めとなり、現在では検索をしても写真自体は出てこないようになっています。ただ生首まで入力するとヒットします。

まさに観覧注意な内容になっていますのでご注意ください。

【三島由紀夫事件】実は三島由紀夫は暗殺されていた?

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彼の最期は壮絶でした。たとえ死への恐怖がなくとも老いていく姿がみたくないとしても人間ですから苦よりも楽を選択するではないでしょうか?このことから暗殺なのではないかという説があります。

実際のところは、どうなのでしょうか?このことについて考察していきましょう。

三島由紀夫事件の不可解な傷

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司法解剖を担当した人物によって書かれた報告書によると、介錯を何度も行った際にできたであろう首付近の傷とは他に、腹部にも多数の傷があったとされているのです。

このことから恐らく暗殺が浮上したと思われますが、やはり死を強く選んだとしても刃を自ら突き刺すことは相当な勇気がいるものではないでしょうか。

ためらいもあったと思います。実際に「やあー」と一喝を入れていますから、躊躇の気持ちもうっすらと残っていたのではと察するところです。そのため刃を皮膚にあててみては離すといった動作があったのではないでしょうか。

切断後の頭部からは、安堵したような眠っていると思うほどの柔らんだ表情を浮かべています。勤めを成し遂げた達成感と、覚悟の死があったのではないでしょうか。

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そのため暗殺よりも自ら死を選択し、迷いはあったものの美学にのっとった最期を演出したのではないかとされます。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫の生首を見た川端康成

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ノーベル文学賞を受賞している日本においてトップの作家ともいえる彼が自殺を遂げていることは有名です。彼が命経つ1年半前に三島由紀夫事件が起きています。

親交があった2人でしたので騒然とした現場に駆け付けています。強いショックを受けていました。その後、精神に異常をきたしていきます。またもや日本の才能ある作家が一人消えてしまったのでした。

三島由紀夫事件現場に川端康成が入る

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ノーベル文学賞の推薦文章を三島に頼むほど、信頼関係が深い仲でした。知人の葬儀に出席するために上京中であった彼はすぐに現場に駆け付けました。物々しい雰囲気の中、歩み寄ったといいます。

盟友の訃報に、自分の目で確かめるまでは嘘であってほしいと願っていたことでしょう。ちなみに石原慎太郎も現場に行くか?と誘われていますが断わっています。

三島由紀夫の生首と対面

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すぐさま市ヶ谷に位置する現場に駆け付けましたが、直接的な亡骸とは対面することは叶わなかったとされています。

一部では、生首を見たという話が出回っていますが、本人も手記で見ていないと綴っています。すでに現場検証が行われている最中だったため、騒然な場の雰囲気で本当に還らぬ人となってしまったのだと悟ったことでしょう。

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同じ分野で活躍する仲間であり、彼の才能を早くから認めていただけに落胆は計り知れぬものだったのでした。翌年の葬儀では委員長を務め、最期の見送りをしています。

三島が結婚をするときには仲人をし、人生の新しい門出を祝いました。まさか最期の見送りまでするとは本人も思ってもいないことだったでしょう。

三島由紀夫事件で川端康成は精神に異常をきたす

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心にぽっかりと穴が開いてしまったかのように、徐々に川端の言葉や行動に変化が起こり始めました。現場の凄惨さにショックを受けた心は簡単に回復することは難しかったようです。

前から睡眠障害はかかえていましたが、ますます精神的な不安定さが目に見えるのでした。それほど三島に対して心惹かれるものを抱いていたのでしょう。

「三島くんがきた」という川端康成の言葉

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小さいころから霊的感覚を備えていたようです。作品にも多くの心霊体験を綴った内容が多いにも、実際に体験したことがあるからだといわれています。

あるとき誰もいない入り口に向かって、「三島くん、来たかね」と話しかけ、周りにいた人々は鳥肌がたったというエピソードが残っています。

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他にも日常的に真顔で、三島の霊を見たと訴えることから本当に見えていたものか、幻覚のようになっていたものか定かではありませんが、彼にとって大事な仲間であったことが、うかがえます。

三島由紀夫事件がきっかけ?川端康成はノイローゼで自殺

三島の霊に向かって話しかけ、異常な精神は改善されることはなかったようです。逗子に仕事用として借りていたマンションで、ガス自殺をし72年の人生に幕を閉じました。

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遺書が見つかったわけではありませんが、生前の彼の不安定さが目に見えるようになった時期を考えると三島というインパクトが強すぎた盟友を失ってしまったことが一部関係していたのではないかといわれています。

または三島の霊に呼ばれて後を追ったのでしょうか。傍にいた人間には見えていない何かが引き寄せたのかもしれません。

【三島由紀夫事件】予感していた美輪明宏

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彼の交友関係はとても広く芸能関係にも及んでいます。彼が脚本した芝居で役者として参加をしており、長年親しい間柄でありました。彼らは出会うべくして運命が引き寄せたのでしょうか?

独特の世界観を放つ美輪明宏には彼の敷かれたレールが見えていたようにも感じられます。彼の背後にただならぬオーラをみていたとされます。親密であった関係についてご紹介します。

三島由紀夫と美輪明宏の関係

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まだ彼が駆け出しの作家だったころに運命ともとれる出会い方をしています。美輪がアルバイトをしていた喫茶店に彼が客としてきた際に、なにか通ずるオーラがあったのでしょうか。

席に座るように何度も口説いたのです。美輪は、どうしても近くに行きたくないと拒否をしますが、店主におこづかいをあげるから頼むと懇願され、仕方なく彼の席へ座ったようです。

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これが最初の顔合わせではありましたが、後に付き合いが18年も続くとはお互い想像もしていなかったことでしょう。

美輪がシャンソン歌手としてデビューをしたことを聞きつけると、彼は何度も交渉をして、美輪のために構想を考え練ったミュージカルの主役に抜擢しています。彼にとって相当な魅力を感じていたとされます。

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一部のマスコミが親密な間柄を恋愛関係だと書き立てました。ですが尊敬をする間柄で彼は美輪に対し、俺に惚れないところが君の短所だと言い放っています。

無償の愛のようなものをお互いに持っていたとされ、美輪は敬愛する相手と語っています。

三島由紀夫に226事件の英霊がついていた?

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彼は、226事件首謀者とされる磯部浅一が処刑をされるまでに執筆をした本を元に小説を完成させているのですが、このときに不可解な体験をしています。

眠気が襲い横になりたいのに、なぜか勝手に手が動いてしまい文字を書き続けたといいます。知らぬ間に作品が仕上がるほど自分の力ではない感覚を覚えたとされます。

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多くの執筆活動を続けてきて、初めての体験であり不思議だったことから、霊的な世界が見える美輪に相談をしたのでしょう。

背後に英霊が取り憑いていると忠告し、あの手この手を使って祓おうと試みたのですが、凄まじい力を持った怨霊だったため、どうやっても取り去ることができなかったと語っています。

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事件を知った日「やっぱり」と、妙に腑に落ちたようです。

三島由紀夫「美輪明宏」に別れの挨拶

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この世を去る一週間前に美輪の楽屋に遊びに行っています。たくさんの薔薇を花束にしてコンサートの出演を祝ったようです。

いつもになく弟の話しをしたり、会話に花が咲いたといいます。最後に「もう来ない」と言い残しています。普段から直接的に物事は語らず間接照明のように例えた会話をしていたとされ、別れの挨拶を遠回しにしたのでしょう。

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最期に敬愛の相手であった美輪の演じる姿を目に焼き付けておこうと思ったのでしょう。最前列で眼鏡をかけて凝視していたといいます。そして美輪が歌うメロディに聞き入ったのでした。

美輪も歌いながら、彼と出会ったときから今までの出来事が頭の中で、映画が流れているかのようにはっきりと映し出され、なにか起こるのではないかと、彼の身を案じていたようです。

【三島由紀夫事件】その他著名人のコメント

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文学を通して、さまざまな社会的地位のある人物と交流がありました。そして彼の死を知った名声たちは惜しむ声や厳しい心持を公表しています。彼との関係性も一緒に交えながら、みていきましょう。

三島由紀夫事件へのコメント①開高健

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本気だったんだと語っています。まさか実行するとは思ってもみなかったことなのでしょう。同じ作家として開高を評価をしていたものの、自身が戦争の体験がないため作品として綴ることができない嫉妬ともとれる部分を持っていました。

書きたくても本にできないもどかしさを、開高にはできました。どうしても掴むことができないぶつけようのない感情を持っていたのでしょう。

三島由紀夫事件へのコメント②中曽根康弘

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当時、防衛庁の長官を務めていました。彼が起こした騒動を公に賛同ができないものの日本を変ええいかないといけないという思考は密かにもっていたとされます。

ただ自身の立場を考えると、複雑な感情を持っていたことでしょう。記者会見を開き大変遺憾となる事態と述べ社会的な秩序を壊す行為と言い放ちました。

三島由紀夫事件へのコメント③五木寛之

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ロックミュージックに興味を持っていたとしたら、こんな結末にはならなかっただろうと独特な感性で死を惜しんでいます。

作家や新聞、雑誌の記者という文筆する職業を集めて上演された演劇サークルで一緒に活動をしていた間柄でした。中でも2トップともいわれる人気作家が出演する演目は話題を集めていました。

三島由紀夫事件へのコメント④佐藤栄作

生前の三島に対して、自衛隊の体験訓練を積極的に発信してくれていたため好印象を持っていましたが、騒動を起こした後は日本を支える首相として厳しい意見を述べています。

気が狂っているとしか思えない行動であり、最期を遂げたことは立派だったとしながらも、場所と方法は考えるべきとバッサリ突き放した言葉を残しています。

三島由紀夫事件へのコメント⑤武田泰淳

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2人は同じ時期に作家として活動をし、お互いが才能を認め合う仲でした。武田は中退してしまうのですが出身大学も同じという境遇が似ている関係です。もっと切磋琢磨して世に多くの作品を出したかったことでしょう。

事件前の対談で、三島は戦後のおける社会を否定しているのに生きていくためにお金を得ていることが恥ずかしいと述べています。これに対し武田はそれだけは言ってはいけないと一生懸命なだめたとされます。

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葬儀では仏教の僧侶が身に着ける布状となった衣装を身に纏い、彼の死を追悼し弔辞しています。早すぎる死を偲んだのでした。

【三島由紀夫事件】決行日には意味があった?

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公言した実証がないことからさまざまな憶測を呼ぶ中で、彼が決意をした日には何か思い寄るものがあったのかという点について考察していきます。

三島由紀夫事件の決行日の考察①昭和天皇が摂政に就いた日

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当時の国民にとって天皇は神様の存在であり姿を目にすることがなかったとされています。声だけを聴き祭られておりました。大正から昭和へ時代は変わり主上も変わりました。

インタビューで、人間化することを批判する発言をしているため、一因として挙がっています。彼の思想からして、関わるのある日程ではないかと密かに囁かれています。

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これには年齢も合致していることから、根強く諸説として残っています。神ではなく人間であると公示したのが45歳であったのです。

皇居をむいて天皇万歳と言い残して事に及んだことから、事由として挙げられています。彼が断言して実行に移したわけではないため、確証なものがないのですが、記念すべき日に自分の幕も閉じたいという強い願いがあったのではないかといわれています。

三島由紀夫事件の決行日の考察②三島は天皇の代わりに死んだ?

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日本の象徴であり最高の神だと称えられてきた存在であったことが、一変して人間だと伝えられたことで、大きく落胆したのではないかという説です。

信仰心が強かった時代であっただけに、影響力は大きかったとされますが、彼は特に古来の伝統を重んじた思考傾向があっただけに、自分が他の世界へ行くことで神を蘇らせることができると考えたのではないかといわれています。

三島由紀夫事件の決行日の考察③敬愛する吉田松陰が刑死した日

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多くの若者に影響を与えた人物であり彼も敬愛しておりました。早くに亡くなっているため惜しむ声も多く、彼が長く生きていたら景色はもっと変わっていたかもしれないとまで言われている人物です。

処刑された約9年後に明治維新が起こり急速に技術の発展を遂げています。この動きになったのも松田の動きがあったからだとも言われているのです。大きく時代を変えた彼は、三島にとって偉大であり大先生であったことでしょう。

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そのため同じ日に選んだのではないかと諸説あります。ただ偶然が重なっただけなのか果たして巧妙に日にちを考慮したものなのか文学の天才はすでに姿ない現世では、真実を知ることはできません。

ただ長い歳月が経過しても話題となり注目を集め続ける彼は、多くの人の心の中で生きていることでしょう。

三島由紀夫事件の現在

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都心の敷地にかつて壮絶な事件が起こった建物が今も維持され佇んでいます。現在は防衛相の管理敷地となっており、記念館として歴史が風化されないよう残されています。

事前に申し込むとアナウンス付きで見回りができる聖地と遂げています。密かな観光スポットとなっているのです。

今も残る生々しい傷跡

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頑丈そうなブロックで設置された防衛相の門を入り、受付で見学許可証を受け取ってからしばらく歩いて行くと白いこじんまりとした建物が立っています。それこそ三島が演をし絶命した場でもあります。

全てが当時のままではなく、一部は復元されていますがなるべく当時の面影を消さないように配慮がされているようです。

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陸軍の大臣室として展示公開されている部屋は、時間が止まっているような静かさと厳粛な雰囲気を放っています。今もドアには刀の乱闘でできたとされる傷がか所あり、当時の壮絶な光景が残されています。

ファンの中では聖地として拝められており、彼が最期を遂げた場所でもあるので、一番身近に感じるスポットになっているようです。世界的に有名な作家であるため、今後も世界中から訪れる人が絶えないことでしょう。

三島由紀夫が現世に残したメッセージ

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祖国であるわが日本を守ろうと奮起し、自ら軍組織を作り上げた彼は、会員100人の制服を自腹で支給し鍛え上げた体で貢献をし努めることに徹しました。

同じ思考を持った若者を集めて今後のために動こうとしていましたが、隊員が力を合わせても文明の開化には到底及ばなかったのです。こうした中で、彼は何かが見えたのでしょうか。

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未来を悟ったメッセージを残しています。彼の目に映ったものは確かなものとなってしまったのです。

日本を心配していた

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西洋の文化が入るようになり、着物から洋服へ和食から洋食、仮名文字が使われたりといった生活スタイルが大きく変わった世紀でもありました。

新しい風が吹いたと新鮮な気持ちになり、たくさんの人々が最新文化に心躍らせる中、彼だけは違いました。今に日本は悍ましい出来事が日常的に起こるようになると予言者のようなことを語ったのです。

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親が子供を殺したり、逆もあり、また見ず知らずの人を殺傷する通り魔的な犯行をする人間が出てくると告げています。まさに現代の社会で毎日のように報道されているないようではないでしょうか。

虐待であったり無差別な通り魔事件も頻繁に起こっています。彼はまだ見ぬ未来の国の姿がわかっていたのでしょうか。贅沢な日本になったことで、本来あるべき道徳心が失われてしまったのでしょうか。

本当の大切な物

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戦後の日本は誰もが貧しく生きていくのに必死なときでした。今日食べるものもどうしようかと悩む日々であり、マナーや教育ということよりも、まずは一日命を繋いでいくことが大事だとされていました。

そのためみんなががむしゃらに生きていたのです。人間の欲求が満たされていないと心が荒んできます。そうして日々過ごすうち思いやりの気持ちが薄れていったのでしょう。

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ですがあるとき、気づくのです。荒れた日本でこのままでは破滅に向かうと。三島は方向性を正さなければ危ないと早くから感知しており、国を立て直さなければいけないと訴えていたのです。

当時は何を言っているんだと罵声が飛び交いまともに聞き入ってくれる人物がいなかったでしょう。演説は早くに打ち切り自決をしています。

間接的な文章を好んだ彼でしたので、ズバリ言わないオブラートに包まれた言葉の中に多くのメッセージが残されていると感じてならないものであります。

外国との関係にも及ぶ

イギリスのジャーナリストが取材をしたとき、日本が緑蛇の呪いにかかるという発言を残しています。あまりに間接的な表現だったため、何の意味を指しているものなのかが理解できなかたようです。

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後に彼が伝えたかったのがアメリカの紙幣のことだと判明します。今や日米の関係は入り離せない密接な関係となっています。

世界的なマーケットを誇るアメリカなしでは、私たちの食卓は乏しいものになるでしょう。それを早くに悟った彼の頭脳には感銘を受けるばかりです。

【三島由紀夫事件】三島由紀夫の求めた「美しい死」

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世紀の背景で死という考えが変わってきていることがうかがえるのもであります。戦国時代から力あるものが強いとされ、潔い死に方が武士道であるとされてきました。

後に戦争が起き、武器を使い人間を殺めていき強い国であることを主張していた時代では、国のために死ぬことがヒーローとされました。未来ある若者が数えきれないほど空へ旅立ったのです。

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彼の生きた時代は戦後の誰もが貧しく生きていくのに必死だった時代であります。教養や躾などよりも明日命を繋ぐことに必死でした。

争いで命を捨てる覚悟でありましたが行くことが出来ず、抜け殻のようになっていた心の隙間に武士の志が入りこんだのでしょうか。

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潔く逞しい肉体のまま絶命したいと彼独特の美を追求した結果が、切腹であったのでしょう。姿なき天才にはいまだに謎が残る部分も多いですが、数多くの作品を残したことで今も世界中に三島由紀夫という名は輝き続けることでしょう。

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