【三島由紀夫事件】最後の切腹事件
ノーベル賞を逃したものの、日本の代表となる世界的に有名であった偉大な天才作家です。我が国の未来を想い、現状を変えていかねばアメリカの支配下となってしまい破滅に向かうと考えていたようです。
大勢の人々の前で自身の思考を伝えた後に、武士のような割腹で息絶えたのです。なぜ命を捨ててまで訴えなければいけなかったのでしょうか?
恵まれた才能を持ち、まだ今後の活躍に期待されていたにもかかわらず、命と引き換えてまでも訴えたかったものは何かを考えていきます。
三島由紀夫事件とは
45歳であった1970年の肌寒く感じるようになった11月25日、今世まで語り継がれている騒動であります。現在の防衛省を訪れ、軍の将校を軟禁し、バルコーンに出て大きな声で憲法を改正するように反乱を起こしたのです。
ただ訴えただけで終われば、語り継がれることもなく記憶に薄れていったことでしょう。自分の言葉を告げ終えると、腹を持っていた刀で刺したのです。
織田信長などの武将が活躍していた戦国時代の男の最期のように割腹し、首を斬り付けてもらい絶命しました。同じく一名の側近も同じ方法で命を絶ちました。
三島をトップとし、同じ思考が集まった団を楯の会と名づけており、彼らが起こした騒動だったことから楯の会事件とも別名でいわれています。これが主な概説となります。
悍ましい内容でありますが、なぜ体を差し出してまで訴える必要があったのか、行動や心の内について考察していき、事の詳細を解明していきます。
【三島由紀夫事件】自衛隊市ヶ谷駐屯地にて総監室占拠
強烈なインパクトを起こした一連は、世界にも取り上げられ驚きを隠せませんでした。社会的名声を手にしていた作家が動いたことで、何事が起ったものかと興味を引き付けたのです。
国際的なニュースとなった事件について、時系列でまずご説明していきます。
【三島由紀夫事件】楯の会メンバー4名と自衛隊市ヶ谷駐屯地正式訪問
午前11時に現場となる地に訪れる予約をしていた団員4名と三島の合計5人は、優秀な顔ぶれを表彰してもらう予定とし、正装をして訪れています。
本当の目当ては違いましたが、正式に訪問をすることで周りの警戒心を解き、思惑をスムーズに行うためでした。あらかじめのセッティングだったことで、正門で停められて身分を確認されることなく顔パスで通されています。
時間短縮し目的とすることに重きを置きたかったのでしょう。応接室に案内された一行は、これから歴史に残るであろう悍ましい出来事に心落ち着かせ、刻一刻と迫るそのときを、固唾をのんで待つのでした。
あらかじめ話し合いをしていましたがぶっつけ本番であったため、緊張や不安など入り混じっていたことでしょう。
楯の会とは
外国からの支配から起こる反乱に備えて、国の軍人ではない一般組織で集まったグループです。1968年に三島をリーダーと定め結成されました。
略して民兵と呼ばれた集団は本国の伝統ある文化を守りつつ、活動をしていくことを主とし、近代的な武器であった銃は使わず、長い刃が特徴的な剣を用います。
約100人の同じ志を持った男が集まったとされ、多くは学生でした。ただ単に思考が同じだから入団できるわけではなく、自衛隊の体験訓練ですべての技能を修了した者だけが会員として認められます。
心と体の両方を鍛え上げた強い男たちの集まりで、これからを賄う重要な団であると政治家も好意を持って見守っておりました。
楯の会メンバー4名の略歴
現場に同行したのは20代の未来ある青年ばかりでした。顔ぶれについてご紹介していきます。
- 森田必勝
戦争の空襲から逃げる恐怖に包まれた日々に生まれ、我が国には必に勝ってほしいと願い名づけられました。幼いときに両親を亡くしており兄妹に育てられ、早稲田大学へ入学しています。
正義感の強い青年としていつしか政治家を目指しつつ学生同士で同盟を作り、本国の古きを守る思考を尊厳していました。三島のために命を捨てる覚悟があるとして主従関係になります。
後に切腹をして25歳の若さで生涯を閉じています。彼が主導して進めたのではないかともいわれいるほど実権を持っていた人物です。
- 小賀正義
機械関係の仕事に就きたいと工学部に入学します。当時は学生がストライキを頻繁に起こしており、自身を守るために自治体に入ります。後にクラスメイトから誘われて楯の会の一員となり、三島を心酔していきます。
主要団員と認められ日本刀を持たされます。事件当日、総監の後ろに回り手ぬぐいを口に入れ、さるぐつわを仕込みました。最期の処理であった首の皮を切りました。
- 小川正洋
幼いときから母親に軍兵の話しを聞かされており、天皇と戦争の映画をみたのを境に、我が国に対して尊敬の念が生まれます。
多くのクラスメイトが自衛隊はいらず争いをやめるべきとの思考でありましたが、彼は憲法を見直して軍人が必要だとの考えを持っていました。森田と親しかったため、会に入ります。
事件の当日は総監を見張る役をやり遂げました。
- 古賀浩靖
法学部に入学し、戦後の我が国の思考に違和感を持ちながら過ごすうち、小賀が入った学生自治体に属します。楯の会の役割をしながら司法試験にむけての勉強もします。
事件を起こす前に故郷の景色を目に焼き付けておきたいとし、隊長から半額の旅費を出してもらい出かけるのでした。当日は三島と森田両方の最期の一撃として首を斬る役を務めています。
【三島由紀夫事件】総監・益田兼利陸将と面会
メンバー4人と共に、1等陸佐であった原勇氏に案内されて応接室に入ります。座ってくださいと促されますが、座ったのは三島のみで他は立っておりました。今後の動作を早めるためもあったことでしょう。
立っている者たちは優秀な人材だとし紹介しながら、順番に名を呼んでいきます。危険が伴う山での訓練中に負傷した者を担いで介護をしたことを称え、直接会って顔を見てもらいたかったからと告げました。
結局はただの口実であり、共謀して動くために連れてきたのです。会談していくうちに益田氏が日本刀「関孫六」に興味を示します。本物なのかを尋ね、むやみにぶら下げて街を歩き警察に非難されないかを心配されています。
わざわざ身に着けてきたのは、注目をするであろうことを想定し、合言葉にし事を進めていこうとした思惑であったことと、自身の最期で使う神聖なる武器となるからなのです。
【三島由紀夫事件】総監室にバリケードをしき占拠
刀を抜いて油分を拭う仕草を見せてハンカチといったワードを合図に、行動するという計画を練っていましたが、ティッシュを探すためにターゲットがその場を動いてしまい、目論みがずれてしまいます。
怪しまれては全てがチャラとなってしまうのを恐れ、小賀が動きだします。声を出さないように早々と口へ手ぬぐいをいれ、古賀と小川が続いてロープを使って手を縛りました。
今までの訓練の成果を披露している演出なのかと思い、初めは笑みを見せていましたが彼らの鋭い目力を見て、冗談ではないことを悟ります。
ドアから入ってこれないように室内にあった机やイス、花が植えてあった鉢などの障害物でバリアをして部外者を阻みました。
他部屋では物音に気づき、駆け付けますが時すでに遅しで、室内に入れませんでした。中からの来るなと叫ぶ声が耳に入ったと同時にドアの隙間から要求書類が渡されます。
ただ事ではないことに突撃する人数を集めます。出入口は開かないので体当たりをして無理やり入ることに成功しました。
自衛隊と楯の会メンバーが激しく交戦し、8名が負傷します。刀を偽物だと勘違いをした一人が、刃の部分を力いっぱい握ってしまい、神経を傷つけてしまいます。後遺症で、握力が弱まってしまった者もおりました。
戦場化した室内の騒動をしずめるため、総監の命もかかっていたため仕方なく彼に演説することを許可したのです。今日の目的は、隊衆をあおるためやってきたことであることを明かしています。
【三島由紀夫事件】バルコニーでの演説
彼の要求で室内放送を流し、自衛官1000人ほどが急いで中庭へ集合しました。いきなりの指示であったため昼食中の職員らもおりましたが、中断して駆け付けたのです。
集まった者たちに原稿用紙9枚にも及ぶ声明文を配布します。一体彼は何を伝えたかったでしょうか?順番に解明していきます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫バルコニーで演説
シーンと静まり返った場で語ることを想定していたのですが、予想と反して大勢の怒声と罵倒でほとんど内容が聞き取れませんでした。
どこから情報をキャッチしたのでしょうか。報道ヘリコプターのノイズも聞き取りにくい環境を作っていた一因でした。声を大きく聞かせるための電子機械を使わないで行った理由は、古き日本を愛してたためです。
文明開化に囚われず、あくまで自然体を好みました。テレビの画面を通して観ていた人物は、あまりにも雑音で聞き取りにくかったためマイクを届けてあげたかったと明かしています。
一部では、放送まで流して大勢を集めたわけですので、きちんと並ばせて厳粛な雰囲気の元で行えば訴えも聞こえたのではないだろうかという話も出ました。
普段から取材に出向き、些細なことも逃さない習慣をもっていた新聞記者らは、聞き取ることができていたようでした。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫の主張とは
堂々としたいで立ちで、このシーンを待っていたかのように真っ白な手袋をはめた拳を太陽に向け絶叫し始めます。伝えたかったことは、我が国を守っていかねばならないことでした。
当時の憲法において、自衛隊は軍隊ではありませんでした。ルールを変えていかなければガードするための役割を十分稼働せず、悪化を辿ってしまうだろうと考えるようになったのです。
武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るのだ。どうして自分を否定する憲法の為にぺこぺこするのだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われないのだ。(引用元wikipedia)
そこで、まずはそのためには防衛省を動かして国会を攻め込み、周りを固めた上で法改正の議案を起こさせようと思い行動に至ったのです
三島由紀夫の額には「七生報国」の文字
バルコーンに現れた彼の額には、黒くはっきりと見える漢字4字が並べられた白いはちまきをギュッと固く結んでいました。同じくメンバーもはめていました。
訴えている言葉が聞こえなくても了見を世間にアピールしているかのように純白の布を太陽が照り付けたのです。
三島由紀夫事件と七生報国の意味
いくどとなく魂が生まれかわったとしても、尊敬する天皇を敵にする者は、容赦なく滅ぼされる定めとなり、国に仕返しをされるであろうと想いを字に託しました。
全ては我が国のため、神の存在である象徴を崇めて古き社会を維持することを願っています。武士の心を重んじ漢字で記したのでしょう。
この言葉について詳しく知りたい方は、こちらも良かったらご覧ください
【三島由紀夫事件】三島由紀夫の憂慮
この頃取り組んでいた作品が「豊饒の海」でした。4部作から構成された大作であり青春の絶頂における死を題材とし、5年という長い歳月を掛けて執筆しました。
周囲には完成したら死ぬかもしれないことを、何度も口にしていたといわれています。全盛期であった当時に絶命することが美しいラストと考えていたようです。
体を鍛えていた経緯も、割腹をした際に脂肪が出てきたら嫌だという独自の美徳をもち、筋肉をつけていたのでした。
伝統ある侍魂を受け継ぎ、今後のためにも大切である志だと思っていたわけですが、豊かな社会となりつつあった背景で個人の自由を尊厳していく風潮に変わっていったのに対し、不安を覚えたのでした。
【三島由紀夫事件】切腹
生前から自分の幕引きの手段を決めており、迷いはなかったようです。ただ人々の目前で行われた行為はあまりにもショッキングでありました。侍魂を重んじて自ら命を絶っています。
今の時代では考えられない光景であり、死を選択することは悲しいことだと認識されていますが、彼らが活躍した世紀とは異なる了見がありました。潔いともとれる行動を順番にみていきます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫は皇居に向かって天皇陛下万歳三唱
スピーチは予定していた時刻よりも早くに切り上げられました。終末前の肉声はわずか7分ほどで終わっています。
大幅な削減に至ったのには、機動隊が駆け付けたため、想定していた段取りを弊害されてはいけないと感知したのではないかといわれています。
叫ぶことをやめると、後ろに仁王立ちしていた森田と一緒に、皇居に向かい「天皇陛下、万歳」と三唱し、永遠となる健康と長寿を祈り称えたのです。この一連で思想が垣間見れる瞬間でもありました。
【三島由紀夫事件】「切腹」
外のバルコーンから大臣室へ退散をすると、勤めを終えたかのようにぽつりと呟いたといいます。「あの騒ぎでは聞こえるわけがないな」と。
室内に立つと、おもむろに着ていた正装のボタンを外し始めます。この場所で行うことは責任者に迷惑をかけてはいけないと思ったのでしょう。
全てに恨みがないことを伝えた上で、こうするしかなかったと話しかけたといいます。気合を入れ一喝すると、両手で短刀を握り迷いなく自らの体に刃を刺していったのです。壮絶な現場でありました。
傷はへその下4㎝の位置で左側から右に13㎝真一文字にされていました。深さ5センチもの潔い死に方だったといいます。壮絶な内容については、この後詳しく書いていきます。
【三島由紀夫事件】楯の会「森田必勝」介錯
見せた自慢の日本刀で絶命の介添えをしました。古くからの伝統にのっとり首の皮一枚を残して斬首したのです。日本独特の習わしであり、侍が臨終を選ぶ際に行われていました。
織田信長が本能寺の変で切腹をして終わりを遂げているように、主流の方法でした。戦国時代では出血多量で果てを待つという臨終方法をしていたようです。
あまりに苦しむ時間を要するため、早めに楽にさせるよう手伝う人物をつける手法が、江戸時代後期は浸透します。ばっさり斬り落とさない形で残す意味は、礼儀とされ腕が達者とみなされます。
尊敬していた命を奪うことに躊躇したようです。何度も刃を首めがけて、振りかざしていますが、致命傷となる行為には至っていません。
この際まだ息はありましたので、総監がやめるよう忠告しています。命を奪っていけないと叫んでいますが彼らの耳には届かなかったようです。
執行人は自分では無理だと悟り、古賀に託し武士と同じ最期を遂げたのでした。
【三島由紀夫事件】森田必勝もその後切腹
実行する前に、君はやらなくていいと告げられていますが、命を捨てる覚悟で楯の会へ入隊しているため本人には死というゴールしか見えていませんでした。責任感が強い彼が途中で投げ出すことはしなかったでしょう。
心酔していた亡骸の隣に静かにそっと正座をし、倒れたときに隣になることを想定し位置確認します。意思が強かったのでしょうか、無言で自らの腹へ刺していきます。
まだ首は斬るなと話す余裕も見せています。自分の納得する部分まで刃を移動し終えると、よしと合図をかけ最初と同様、古賀が介錯人を務めました。
辺りは血の臭いと騒然な雰囲気で異常なほどの空気だったようです。こうして今でも語り継がれる一連は幕を閉じたのです。
【三島由紀夫事件】残った3人のメンバーには実刑判決
2人の亡骸の前で大粒の涙を流し、合掌しました。総監も黙とうさせてほしいと懇願し、一緒に静かな時間を過ごしています。正面入り口から3人は登場し、抵抗することなく駆け付けていた警察官に現行犯逮捕されました。
手錠はかけられずパトカーまで連れられています。少しながらの心遣いであったとされます。裁判が行われ、弁護人は刑を軽くしようと、緊急を要した救助であったと代弁しました。
到底思えず認められないと主文が言い渡され、懲役4年の実刑判決が確定し塀で囲まれた部屋に送り込まれました。
トップを失った一同は、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感に知られたことでしょう。日々恩師ら思い出し、今後の秩序のために、どうあるべきかを考察していたでしょうか。
刑期を終えたメンバーの一人である古賀は、神主の資格をとり毎年慰霊祭を執り行い、隊長と盟友の死を偲びました。元会員の大勢が集まり追悼の念を示しています。
【三島由紀夫事件】壮絶な切腹劇
介錯には大変な技術が必要とされますが、一太刀で終幕の勤めを果たすことができませんでした。侍の時代では酷い苦痛があるため取りやめになっていたほどですから、相当な時間を苦しんだと思われます。
現場に立ち入った人物が赤い絨毯だったため血に染まっていることを気づかずに歩いてしまい、ぐちゅっとしたと語っており今でも感覚を忘れることができないといわれています。
作家として名声を得た彼の息絶えるまでの時間を詳しくみていきたいと思います。
【三島由紀夫事件】一太刀では落とせなかった首
ただでさえ自分の体に刃物を刺しているわけですから、痛みが凄いはずです。武士でも苦しみを軽減させるため即刻に首を斬るのですが、今回は何度も首に太刀をおろしています。
頭の後ろから首にかけて、いくつものキズ口がついておりグチャグチャだったようです。幾度となく刃を突きつけられているため痛覚で前かがみとなり、切れた腹からは小腸が50㎝ほど流れ出たとされます。
想像を絶する苦痛に襲われていたのです。偉大な先生と心酔し、命を捨てる想いで慕っていた森田は心意気はあっても、実際に本当の別れだとなると躊躇する気持ちが少なからず湧き出てしまったのでしょう。
【三島由紀夫事件】苦しさのあまり舌を噛み絶命を試みる
なかなか斬れず、4回ほど繰り替えした後やっと成功しています。その間ずっと苦しみ続け経験したことのない痛覚が常に襲っており、耐えられなかったのでしょう。
舌を噛んで死のうと試みますがこれも失敗に終わります。一度振り下ろした刀が顎にあたったことで骨が砕けています。
凄まじい力が加わっていたことがうかがえる光景であり、なかなか事が終わらない命の重さも垣間見れるものであります。
意識があったことも奇跡的ともいえますが、彼の終わりは徳川幕府の侍でも経験をしていないような残虐であり想像を絶する死にざまでありました。
【三島由紀夫事件】S字に曲がってしまった関孫六
体内に入りこんだ刃先は、見事にぐにゃっと曲がっていました。頑丈な鉄が柔らかいモールのように変貌したことは、それほどの運動力を物語っているといえるでしょう。
苦痛に耐えた経緯でありましたが、頼まれた人間も相当な体力を奪われたことでしょう。それを証明するかのような形でありました。
【三島由紀夫事件】事件後
自決という人生のラストを遂げた彼は、短すぎるともとれますが45年間は色濃く、現世も色褪せることなく歴史に刻まれています。天才的な文筆家としてのストーリーは、多くの人が注目をし悲しみに包まれました。
突如起こった騒動は急に火の粉が燃え上がり一気に消火され、静けさを取りもどしつつありました。終結の挨拶をしようと多くの人々が集まったのでした。その後に迫ります。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫は綺麗な姿に戻されていた
翌日に、慶應義塾の病院で解剖が行われていました。その際に胴体と離れてしまっていた頭部を綺麗に縫い合わせ、生前と変わらぬ姿態に戻されています。
お見送りくらいは綺麗な姿で見送ろうという心意気でしょう。亡骸を見た親族は穏やかな眠っているような表情を見て少し安心したことでしょう。
経緯を聞くと壮絶で苦しみしかなかったでしょうが彼の希望していた臨終方法で、やり遂げたという達成感が表情を優しくさせたのでしょうか。まるで生きているかのような仏であったとされます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫の告別式には8200人の人が参列した
制服を着て胸の位置で軍刀がしっかりと握りしめられた姿でお棺に納められました。本当に今にも目を開けて動き出しそうな勇ましい見栄えでありました。
遺体安置所で警察官らが綺麗に化粧を施し最期の門出を飾ったのです。ほかには天でも文章がかけるようにと商売道具でもある原稿用紙と愛用していた万年筆も一緒に入れられました。
夕方のうっすらと陽が沈みかけ物悲しい景色になった16時頃、出棺となり母親は別れの際に、顔を撫でたといいます。月がゆっくりと昇り照らしていくように魂も空へあがっていったのです。
後に開催されたお別れの会では場に入りきらないほど集まったとされ、近くの公園にまで溢れました。多くの人から偲ばれ故人も喜んでいるではないでしょうか。
誕生日に多磨霊園の墓に遺骨は葬られました。壮絶な時間を過ごした彼でありましたが、ゆっくりと四季の移り変わりを感じながら、緑豊かな地でひっそり眠っています。
【三島由紀夫事件】切腹した三島由紀夫とは
世界的な文章家でありながら、肉体改造に目覚め自身の筋肉を常に強くしておりました。45歳ではありましたが、30歳代の体つきと評されます。
逞しい姿態を手に入れたのですが密かに抱えるコンプレックスがあったのです。壮絶な死を遂げた彼のプロフィールを紹介していきます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫①1925年東京に生まれる
現在の新宿区四谷に長男として誕生しました。大正14年の痛いほどの寒さが厳しい1月の14日のことでした。本名を平岡公威といいます。
名前の由来は祖父の恩人であった工学者のようになってほしいという願いを込めて、同じ公威をもらったのでした。地区では一番大きな屋敷であり祖父と父が最難関である東大卒というエリートな家庭で育ちます。
後に、自身も同じ大学校に入学し世界的有名な地位を得ることとなるのです。父方の祖父母と同居をしており祖母の夏子は家の中でも絶対的な権限をもっておりました。絵に描いたようなエリート家系で育ちます。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫②厳格な祖母に育てられる
生まれて間もないときから夏子の手によって育てられています。母親が通常は面倒を見ますが、ヒステリックな性格をもっていた彼女に逆らえず、授乳のときだけ我が子を抱き世話をしたのです。
男の子であれば活発に動き回る遊びであったり、ミニカーや鉄砲のような音が出る玩具を好みますが、一切禁止とし、徹底した育児環境を作ります。遊び相手は女の子選んでいました。
外で遊ぶ機会が極端に少なかったため、大人になってからカエルの鳴き声を聞いた彼が、真剣な顔をして何の音だと聞いたことがエピソードとして残っています。
食事やおやつも厳しく管理をして病弱な孫を過保護なほどに養育したようです。小説を与え幼いころから文学を触れさせ、教養を深めさせたのです。大人しく感性豊かな子供として育っていきます。
才能開花は、幼少期に養われたとされ、影響しているでしょう。彼女も望んで積極的に触れさせていたのかもしれません。孫の将来を願ってのことだったのでしょう。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫③虚弱体質のためいじめられることも
祖母の意向で学習院初等科に入学をして勉学に励みました。その一方で体は強い方ではなかったため、頻繁に風邪をひき学校を欠席しがちでありました。
4年生のときには体の調子が悪く、姿勢がうつむきがちになっていることを担任に怒られます。他にも日光を浴びてはならないと主治医から言われていたため日焼けするどころか、青白いほど血色のない肌だったといいます。
ニックネームは「あおじろ」でからかわれていたようです。大人になってからの逞しい強靭な筋肉を作り上げた姿態とは想像もつかない幼少期を過ごしています。
辛い時期がトラウマとなっており、強く見せたいという想いが人一倍募り鍛えていたのでしょうか。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫④6年生の時に二・二六事件発生
平日であったため学校にて授業を受けていましたが、急遽1時間目で終了となり自宅へ返される騒動が置きました。ずさんな政治によって起きた極端な富裕者と貧困層の差を整えるべきと訴えた運動でした。
天皇は何をしておられるかと陸軍の将校たちが乱暴的な行動で意思を表していったのですが、首謀者とされる青年が逮捕された後に執筆した本に強く感銘を受けています。
まだ6年生でありましたが、暴力的な権威を使って意思表明をする大人たちに少なからず影響を持っています。後に自分も将来起こすことになるとは、小学生にとって無知な分野だったことでしょう。
この騒動について詳しく知りたい方は、こちらも良かったらご覧ください
【三島由紀夫事件】三島由紀夫⑤中学より歌舞伎・能に興味を持つ
だいぶ免疫力が強くなったのでしょうか。休みがちであった学校にもよく通えるようになり丈夫になっていきました。家族は子供の成長を感じたものではないでしょうか。
夏子に連れて初めて歌舞伎を観ました。能も母方の祖母と一緒に観劇しています。生で観る演じるということの素晴らしさに大変魅力を感じ夢中になっていったといいます。
芝居の日記を綴るようになったのも、このときからです。幼いころから本に触れていた彼は文字で感情を表すことを得意としていたようでありました。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫⑥「花ざかりの森」で才能開花
文章にのめり込んでいった息子を、父は賛成ではなかったようですが、黙々と書き続けました。夏子の影響を強く得ていたのでしょう。権限を持った強い存在だったため反発ができないようでした。
今まで内に秘めていた感情が一気に湧き出るような衝動になり、どんどんアイディアが出てきたといいます。所属していた国文学雑誌の仲間に読ませると天才だと絶賛されています。
これを機に念願であったデビューを果たしています。ペンネームは恩師である清水文雄がつけています。天才文学家としての道がどんどん開けていくことになります。
【三島由紀夫事件】三島由紀夫⑦徴兵されるも病気で免れる
高校生になると世界の各地でしばしば武器を使っての争いごとが起きます。理由が語れないほどの興奮する気持ちを抑えられないようでした。自身も一定検査を受け一旦合格となり、兵庫県に出兵しています。
母が風邪で寝込んでいたのが、彼にうつり入隊検査でひっかかり自宅へ即帰るようにと命じられます。命を捨てる覚悟を決めていたため、何とも言い表せられない喪失感をあらわにします。