「えたひにん」とは?どのような扱いを受けていたのか
授業で聞いたのを覚えている方も多いのではないでしょうか。曖昧な記憶の中、両者は同じような人達だと混同していませんか?もしも子どもに聞かれたら、あなたはどのように説明しますか?
同じように扱われていた身分と思われがちですが、それは異なる存在でした。どのような扱いを受けていたのか、まずは簡単に見てみましょう。
「えた・ひにん(穢多・非人)」とは最低身分を表す差別的な名称
政府公認の差別対象といったところでしょうか。今では考えられないようなあり得ない人権侵害です。特に漢字にするとその酷さが顕著になります。
普段あまり見ない字ですが「穢」という字は「けがれ、よごれ」という意味なので、「けがれが多い」となります。「非」という字の意味を詳しく調べる機会もないと思いますが「あらず、よしとしない、道に背く」などの意味があります。つまり人であることを否定する意味となります。
身分制度「士農工商」のさらに下の位置づけ(身分)とされていた
歴史が苦手な方でも「士農工商」はピンとくる方も多いのではないでしょうか。一昔前までは学校でも教えていました。それによれば「えた・ひにん」は士農工商に含まれない除外された身分とされていました。現在は士農工商事態の考え方が否定されています。
厳しい身分差別を受けていた「えたひにん」
- 居住地を指定された
- 祭事への参加禁止
- 婚儀や葬儀への参列禁止
- 墓石を地表に出してはいけない
- 仕事の制限
- 服装の制限
他にもいろいろと生活に制限がありました。食事もろくなものを食べることが出来ず、衛生状態もよくなかったため体を壊す人も多くいました。
いかにして「えたひにん」として判断されたか?
それぞれの判断基準は何だったのでしょうか。それは職業差別であったり、犯罪者を牢屋に入れるような感覚だったのかもしれません。また、ひにんの中にもふたつの分類が存在したこともわかっています。それでは詳しく見ていきましょう。
殺生をして生活をしていた者を「えた」と呼ばれていた
簡単に言えば、動物の死に関わる仕事だったことから酷い、穢らわしいとされていました。当時は魚料理がほとんどで肉を食べなかったため、動物の肉を処理する彼らと距離を取っていたと考えられます。
また、子どもには違う仕事に就いてほしいと思っても、代々続けて行かなければならない決まりがありました。
「ひにん」は「野非人」と「抱非人」の2つが存在した
字からなんとなく想像もつきますが、同じ身分でも両者は違った存在でした。どちらも社会からは外れた人々のことですが、暮らしに違いがありました。それぞれ詳しく見ていきましょう。
現在で言うホームレスの状況にある者は「野非人」とされた
まず「野非人」ですが、野宿の「野」と覚えるといいかもしれません。所在が無く浮浪しながら暮らしていた人達のことです。今で言うところのホームレスのような生活をしていました。
当時は異常気象、火山灰、家畜の疫病などによりしばし飢饉が起きました。飢饉で生活が困窮し浮浪生活を余儀なくされた者はそうならざるを得なかったのです。
罪を犯した人の一部は「抱非人」と呼ばれていた
こちらは一部の罪人だったといえます。例えば近親相姦をした者、心中しようとして生き残ってしまった者などでした。そして彼らは集められた小屋で暮らしていました。また、そこから3回脱走した者は死刑でした。
「えた」と「ひにん」のそれぞれの仕事内容とは?
人から敬遠される仕事をこなしていた彼らですが、具体的にどのような仕事をしていたのでしょう。これから詳しくご紹介しますが、どちらも心身ともに過酷な仕事をしていたと言えます。
「えた」は汚れ仕事や動物の狩猟・加工などを仕事にしていた
死んだ家畜などの処理が彼らの仕事でした。死体を持ち帰り解体し、処理した肉を食べたり、皮を剥ぎ取り皮革製品を作ったりしていました。皮革の加工は特に重要な役割でした。
当時は整った設備がある訳ではなかったので、死体を処理する際の臭いなどから、衛生面で周りから敬遠される存在となっていました。
「ひにん」は刑場に関わる仕事など!人を処理することも?
人がやりたがらない仕事をさせられていました。人間の処理もです。当時は残酷な処刑方法が多くあったので、彼らがその役目をやらされていました。そして処刑された死体の処理などのも仕事のひとつでした。
また卑俗な遊芸をする者もいました。しかしえたと違い、物乞やお金を稼ぐことが認められていました。
「えたひにん」はどのような生活を送っていた?居住区域など紹介
彼らはどのような生活を送っていたのでしょうか。住む場所、身なり、生活についても厳しい規制がありました。それは今でも部落差別として影を残しています。それでは彼らの生活を詳しく見ていきましょう。
「えた」は山奥など村から離れた場所で生活していた
町からは離れた場所での生活を余儀なくされました。その場所は山奥や沼地、川のそばなどで、仕事柄発生する悪臭などを遠ざけるためでした。
家については、屋根をつけることが許されて居なかったので、雨ざらしの生活を強いられていました。しかしなぜか小屋を持つことは許されていました。
「ひにん」は町の特定の地域で暮らしていた
所在がなかった野非人は特定のところに留まっていませんでしたが、そうでない者は町に住んでいました。一応住む場所があり、仕事もありました。しかしもちろん自由は無く、非人頭と呼ばれるリーダーに管理されていました。そして縄張りのようなものもあったとされています。
非人小屋には浮浪者や刑余者を更正させる目的で作業場が設けられ、更生保護施設のような役割がありました。
「えた」「ひにん」のどちらも祭事に参加することもできなかった
彼らは祭事への参加が禁止されていました。神様の前に出ては神様に失礼だとされていたからです。それはまだ小さい子供であっても同じで、祭りに行ったひにんの子供が罰せられたこともあったとされています。また、婚儀や葬儀への参列も禁止されていました。
「えたひにん」には服装や髪型の規制も存在していた
彼らは服装や髪型も規制されていました。まるでどこかの学校の校則のようですが、それは彼らをすぐに見分けることが目的であり、平民に成りすますことを防ぐためでした。
そして、服装や髪型に違反した者がいた場合には重い罰が課せられました。それではどんな決まりがあったのか詳しく見ていきましょう。
「ひにん」は膝より長い着物を禁止されていた
どんなに寒くても雪が降っていようとも天気に関わらず、着物の裾をはしおって膝より短くしなければなりませんでした。言わば着物の労働スタイルといったところです。また着物の生地は木綿と決められており、絹など他の生地は禁止されていました。
「ひにん」は下駄を履くことを許されなかった
江戸時代の絵などを見てみると、街中でも裸足の人が多く描かれていることに気づくと思います。ワラジすら許されていませんでし
足が汚ければ家へ上げてもらえません。そのため用事があり平民の家へ行くときには、土間で用事を済ませるよう定められていたのです。
「えたひにん」は服の色も制限されていた
着物の色は藍染めか渋染めと決められていました。いずれも死や土を意味する色で、彼らの仕事などに関わる色とされていました。
着物の色を制限されたのは庶民も同じでした。いずれも地味な茶系や灰色(ねずみ色)などのみで、幕府は庶民の贅沢を禁じ節約させようとしていました。
「えたひにん」は一目で分かるような髪型でなければいけなかった
彼らは髪型も指定されていました。それは「茶筅髪(ちゃせん髪)」という型で、後頭部の髪を紐などで縛り茶筅のような形をつくる髪型です。
男性は一切の髷(髪を頭頂に髻をつくること)を禁止され、「月代(さかやき)」といって前頭部から頭頂部の髪を剃りあげることも定められていました。そして女性は束ねるだけとし、髷は禁止されていました。また木のクシ以外を使うことも禁止されていました。
他にも「えた」と「ひにん」には数々の違いが存在していた
他にも「えた」と「ひにん」にはさまざまな違いがありました。えたは仕事柄から遠ざけられ、非人は危険人物として遠ざけられたという異なる理由で差別されたからだと言えます。それではどのような違いがあったのか見てみましょう。
実は「えた」はお金持ちだった?仕事柄で差別されていた
たいそう貧しい生活をしていたのだろうとイメージされがちですが、実はえたはけっこうお金持ちだったと言われています。
皮革産業は言わば独占市場でした。他に誰もやりたくない仕事でしたが、戦にも皮革は必要だったため、それなり報酬があったと言われています。また奉行所の手伝いのようなことも行っていたため、下級公務員のような存在であり生活は保証されていました。
「えた」からの脱出は不可能?継承されていく身分
えたの仕事のは代々継承しなければいけないものであり、その家系に産まれた子どもは他の人生を歩むことできませんでした。幕府にとって彼らは無くてはならない存在だったため、皮革加工を嫌がって離れていくこと恐れたのです。
根拠のない差別を受ける忌み子について詳しく知りたいからはこちらの記事もご覧ください。
「ひにん」はその身分を脱出できた?足洗い制度とは
えたは逃れられない身分でしたが、ひにんの身分からは脱出することができました。足洗い制度(足抜き)というものがあり、平民に戻ることができたのです。
しかしそれには条件があり、ひにんになって10年以内であることや身元請負人などがいることなどの決まりがありました。
「えたひにん」は明治に入り解放!しかし差別は残り続けていた?
明治になるとえた・ひにんという身分はなくなりました。しかし、すぐに受け入れられることはなく、差別は残りました。そして本人達にもさまざまな変化が生まれていきます。
身分解放令による身分制度の撤廃!「えたひにん」の解放
明治に入るとすぐに身分制度が撤廃され、「えた」も「ひにん」も身分としては無いものとなりました。
しかしこの身分解放令は欧米諸国から押し付けられたかたちであり、明治政府はこの政策をよく思っていませんでした。地租徴収を実施するためだけに使われ、名ばかりの身分開放となったのです。
しかし「えたひにん」は“新平民”と呼ばれ差別は残った
その後もえた・ひにんは「新平民」と呼ばれ、結局は別物として扱われてました。身分解放令には実質的な改善や取り締まりに関する政策が特になかったのです。新平民へのリンチ事件や反対一揆も一切取り締まりが無く、差別はむしろ悪化をたどりました。
中でもえたは皮革産業の独占ができなくなり仕事を失うものもいました。しかも新たに納税や兵役の義務を課されることになり、生活が困窮することとなりました。
「えたひにん」の居住地域は“部落(被差別地域)”と呼ばれるように?
彼らが暮らしていた地域は「部落(被差別地域)」と呼ばれるようになりました。そしてそれは西日本に多く残ることになりました。その地域についても詳しく説明します。
「えたひにん」が生活していた場所を“部落”と呼んだ
えた・ひにんと呼べなくなったため、彼らが住んでいた集落はだんだん「部落」と呼ばれるようになっていきました。
そのため政府は同和政策と称し、地域の改善に取り組みました。そこから同和地域とも呼ばれるようになりました。そして政策に指定されなかった部落は取り残されることとなりました。
被差別地域は西日本に多く見られる?その理由とは
被差別地域は日本地図で言うと西側に多く片寄っていました。その理由はロシアからの弾圧や京都が日本の中枢だったこと、広島や愛媛の水軍などに関係していました。
一方で、東日本には部落は多くありませんでした。そのため部落差別という概念が浸透していません。一昔前の話だと思っている人も多くいます。
東日本での「部落」の意味
東日本の田舎などでは、民家の集まりを部落と読んでいる地域があります。そこでは差別的意味は無く、地域組織の意味で使われています。
部落費の回収が来た、次の部落長は誰にしよう、今日は部落会があるなど、会話の中に部落という言葉が出てきますが誰も何とも思わず、普通に使っています。
「えたひにん」差別は現在でも存在している?部落問題とは
明治になってすぐ撤廃されたはずのえた・ひにんですが、令和になったこの時代にも当時の差別がまだ影を残しています。今でも住む場所によって、色眼鏡で見られることがあるのです。
差別が原因となって起きた事件に興味のある方はこちらもご覧ください。
「えたひにん」差別は部落問題として現在も残っている
とっくに存在しないえた・ひにんですが、現代も「部落」として暗い影を落としています。ですが部落に縁のない人は学校で習ったことすら忘れてしまうくらい無関心です。しかし西日本、特に関西地域では今でも「部落」は禁句に近い言葉となっています。
結婚や就職などの機会に出自を調べられる?
結婚や就職の際に住んでいる場所や本籍を調べられ、結婚が破談になったり就職が取り消しになったりすることが今でも存在します。
今では絶版となっていますが全国の部落地域を書いた本まで存在しました。その本がフリマアプリのメルカリに出品され問題にもなりました。
結婚が破談に
本人達が結婚したくても、その親族が結婚相手の出身などを興信所等を使って調べ、出身地を理由に結婚をやめさせる、ということがまだあるのです。
結婚は本人同士が婚姻を結ぶ以外にも、その家族同士も今まで他人だった人達と親戚になるということです。年配の世代は特に敏感で、結婚するなら縁を切るとまで言われることもあるようです。
企業にも残る就職差別
優秀な人材を取りたいとい思いはどこの企業も同じです。しかしその判断基準に出身地を入れることはスマートではありません。
面接で応募者に出身地や親の職業を細かく聞いたりすることは不適切な質問だとされています。それでも出身地だけで学がない、常識がないと判断されてしまうという差別が根強く残っているのです。
引っ越しをする時に近隣に被差別地域があると知らされる?
引っ越し先を検討していると、、B地区(部落の隠語)が近くにある、B地区のど真ん中です、などと言われることがあります。そして値段も他より安かったりします。
しかし何も知らずに家を購入し、住んでみて後からそのような差別がある地域だと知る場合もあります。
「えたひにん」が暮らしていた被差別地域が多く存在する場所とは
被差別地域がある場所は日本の中でも西に片寄っています。ですが、そのなかでも特に集中している地域がいくつかあります。被差別地域が多く存在したのには理由がありました。その地域と、なぜそこに集中したのかも詳しく見ていきましょう。
多くのえたひにんが暮らしていた地域?①京都府
京都には200ほどの地域があったとされています。江戸時代、日本の中心は京都であり人口が多かったこともありますが、さらに天皇の貴さを象徴ためにえた・ひにんが使われたとの説もあります。
また皮革製品の需要が多かった地域であることから、えたが多く居住した一因となったといます。