江戸時代の絵などを見てみると、街中でも裸足の人が多く描かれていることに気づくと思います。ワラジすら許されていませんでし
足が汚ければ家へ上げてもらえません。そのため用事があり平民の家へ行くときには、土間で用事を済ませるよう定められていたのです。
「えたひにん」は服の色も制限されていた
着物の色は藍染めか渋染めと決められていました。いずれも死や土を意味する色で、彼らの仕事などに関わる色とされていました。
着物の色を制限されたのは庶民も同じでした。いずれも地味な茶系や灰色(ねずみ色)などのみで、幕府は庶民の贅沢を禁じ節約させようとしていました。
「えたひにん」は一目で分かるような髪型でなければいけなかった
彼らは髪型も指定されていました。それは「茶筅髪(ちゃせん髪)」という型で、後頭部の髪を紐などで縛り茶筅のような形をつくる髪型です。
男性は一切の髷(髪を頭頂に髻をつくること)を禁止され、「月代(さかやき)」といって前頭部から頭頂部の髪を剃りあげることも定められていました。そして女性は束ねるだけとし、髷は禁止されていました。また木のクシ以外を使うことも禁止されていました。
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他にも「えた」と「ひにん」には数々の違いが存在していた
他にも「えた」と「ひにん」にはさまざまな違いがありました。えたは仕事柄から遠ざけられ、非人は危険人物として遠ざけられたという異なる理由で差別されたからだと言えます。それではどのような違いがあったのか見てみましょう。
実は「えた」はお金持ちだった?仕事柄で差別されていた
たいそう貧しい生活をしていたのだろうとイメージされがちですが、実はえたはけっこうお金持ちだったと言われています。
皮革産業は言わば独占市場でした。他に誰もやりたくない仕事でしたが、戦にも皮革は必要だったため、それなり報酬があったと言われています。また奉行所の手伝いのようなことも行っていたため、下級公務員のような存在であり生活は保証されていました。
「えた」からの脱出は不可能?継承されていく身分
えたの仕事のは代々継承しなければいけないものであり、その家系に産まれた子どもは他の人生を歩むことできませんでした。幕府にとって彼らは無くてはならない存在だったため、皮革加工を嫌がって離れていくこと恐れたのです。
根拠のない差別を受ける忌み子について詳しく知りたいからはこちらの記事もご覧ください。
「ひにん」はその身分を脱出できた?足洗い制度とは
えたは逃れられない身分でしたが、ひにんの身分からは脱出することができました。足洗い制度(足抜き)というものがあり、平民に戻ることができたのです。
しかしそれには条件があり、ひにんになって10年以内であることや身元請負人などがいることなどの決まりがありました。
「えたひにん」は明治に入り解放!しかし差別は残り続けていた?
明治になるとえた・ひにんという身分はなくなりました。しかし、すぐに受け入れられることはなく、差別は残りました。そして本人達にもさまざまな変化が生まれていきます。
身分解放令による身分制度の撤廃!「えたひにん」の解放
明治に入るとすぐに身分制度が撤廃され、「えた」も「ひにん」も身分としては無いものとなりました。
しかしこの身分解放令は欧米諸国から押し付けられたかたちであり、明治政府はこの政策をよく思っていませんでした。地租徴収を実施するためだけに使われ、名ばかりの身分開放となったのです。
しかし「えたひにん」は“新平民”と呼ばれ差別は残った
その後もえた・ひにんは「新平民」と呼ばれ、結局は別物として扱われてました。身分解放令には実質的な改善や取り締まりに関する政策が特になかったのです。新平民へのリンチ事件や反対一揆も一切取り締まりが無く、差別はむしろ悪化をたどりました。
中でもえたは皮革産業の独占ができなくなり仕事を失うものもいました。しかも新たに納税や兵役の義務を課されることになり、生活が困窮することとなりました。
「えたひにん」の居住地域は“部落(被差別地域)”と呼ばれるように?
彼らが暮らしていた地域は「部落(被差別地域)」と呼ばれるようになりました。そしてそれは西日本に多く残ることになりました。その地域についても詳しく説明します。
「えたひにん」が生活していた場所を“部落”と呼んだ
えた・ひにんと呼べなくなったため、彼らが住んでいた集落はだんだん「部落」と呼ばれるようになっていきました。
そのため政府は同和政策と称し、地域の改善に取り組みました。そこから同和地域とも呼ばれるようになりました。そして政策に指定されなかった部落は取り残されることとなりました。
被差別地域は西日本に多く見られる?その理由とは
被差別地域は日本地図で言うと西側に多く片寄っていました。その理由はロシアからの弾圧や京都が日本の中枢だったこと、広島や愛媛の水軍などに関係していました。
一方で、東日本には部落は多くありませんでした。そのため部落差別という概念が浸透していません。一昔前の話だと思っている人も多くいます。
東日本での「部落」の意味
東日本の田舎などでは、民家の集まりを部落と読んでいる地域があります。そこでは差別的意味は無く、地域組織の意味で使われています。
部落費の回収が来た、次の部落長は誰にしよう、今日は部落会があるなど、会話の中に部落という言葉が出てきますが誰も何とも思わず、普通に使っています。