光クラブ事件とは
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この事件は、戦後の日本で起こった金融事件として有名です。近年日本で起きている金融詐欺事件と引き合いに出されることもあり、その存在感は事件後70年経った現在も健在です。光クラブ事件の首謀者である山崎晃嗣は、東京大学在学中に貸金融「光クラブ」を立ち上げました。華々しく会社経営を成功させますが、わずか1年で逮捕されます。
東大生による1948年の闇金事件
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光クラブ事件とは、終戦直後の日本で、現役東京大学生が起こした金融事件です。主犯格は、山崎晃嗣という青年でした。学生でありながら、在学中に貸金業として設立した「光クラブ」。東京大学といえば誰もが疑わぬエリートです。エリート学生が経営する企業として注目を集めますが、違法な貸し付けを摘発され、会社は設立後1年で倒産します。
アプレゲール犯罪として社会に影響を与える
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アプレゲールとは、フランスで生まれた言葉で、戦後という意味を持ちます。アプレゲール犯罪とは、戦前の価値観や倫理観が崩壊し、戦後の混乱期にそれに代わる価値観が確率されないまま、反道徳的な思想をもち、行動する若者たちが起こした犯罪を示します。光クラブ事件は、日本におけるアプレール犯罪として知られています。
光クラブ事件は昭和初期に大きな襲撃を与えた、センセーショナルな事件でした。なお、昭和最大の詐欺事件といえば、「豊田商事事件」をご存知でしょうか。被害額が約2000億円にものぼると言われ、2019年現在でも最大被害額の詐欺事件と言われています。
光クラブ事件の概要
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「光クラブ」は、たった数ヶ月の間で大きく成長しますが、社長である山崎の逮捕、そして自殺によって設立後1年であっけない結末を迎えます。「光クラブ」の劇的な成功と転落はまるで小説を読んでいるようです。わずか1年間で終焉を迎えたこの事件はどのようなものだったのでしょうか。
1948年、山崎晃嗣が「光クラブ」を設立
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1948年といえば、終戦から3年経ち、日本は復興に向けて歩みを出そうとしている時代でした。日本中が資金不足にあえいでいた時、資金融資に目をつけた山崎は、貸金業「光クラブ」を設立します。山崎は自ら社長となり、常務に日本医科大生で友人である三木仙也、常務に東大生、監査に中大生をおきました。
山崎と三木仙也は、企業の金融セミナーで出会っています。金融業界通だった三木と山崎は意気投合し、友人関係を築きます。「光クラブ」の中で、三木は山崎の相棒的存在であったようですが、主体は山崎で、ほぼワンマン経営だったようです。
東大生起業ということが話題になり発展
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現役大学生、かつ誰もが知る東大生が企業したということで、世間や同業社から注目を集めます。わずか4ヶ月で資本金400万円、従業員30名まで急成長します。400万円は現在の価値でいうと約3000万円もの大金です。当時金融業としては派手で華やかな印象の宣伝で、多額の出資金を集め、高金利で商店や民間企業に貸し付けを行いました。
山崎晃嗣が物価統制令違反容疑で逮捕され業績悪化
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起業からわずか10ヶ月後、山崎は当時の設定金利を大きく上回った貸し付けが目をつけられ、物価等制令違反で検挙されます。社長である山崎の逮捕により、会社の信用は一気に損なわれます。瞬く間に業績が悪化し資金集めに奔走しますが、あえなく失敗。結果1年で倒産してしまいます。
1949年、山崎晃嗣が青酸カリを服毒し自殺
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逮捕されたものの、処分保留で1ヶ月で釈放されます。しかし、出資者が出資金の返済を求めて騒ぎを起こしており、その額は約3000万円にも上りました。融資が集まらなければ当然会社運営は行き詰まります。金策に尽きた山崎は、本社の一室で劇薬の青酸カリを飲み自殺します。傍らには、遺書と残高わずか2700円の通帳が残されていました。
「光クラブ」のビジネス形態
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「光クラブ」とはどのようなビジネス形態だったのでしょうか。現役の東大生でありながら、親類から集めた1万5千円の元手で「光クラブ」を拡大していった山崎。どのようにして会社運営を行っていたのかを解説していきます。
光クラブ事件の会社のビジネス形態①広告・宣伝が一世を風靡
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「光クラブ」は当時の貸金業としては珍しく、積極的に広告・宣伝を行っていました。大々的な新聞広告により多くの注目を集めました。結果、多額の資金調達に成功し、当初事務所のあった中野から、大手企業の集まる銀座に進出しました。
当時の日本は、戦後復興に向けてエネルギーがあふれている時代。世間の資金需要に目をつけた山崎の目論みは当たったと言えます。時代の寵児として現役東大生・山崎と「光クラブ」は一世を風靡しました。
光クラブ事件の会社のビジネス形態②13%/月の高配当で集金
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「光クラブ」が多額の出資金を集めることができたのは、ひと月に13%もの高配当を詠っていたことによります。100万円出資すれば、たったのひと月で13万円もの配当が得られるということですから、高金利につられた出資者が群がりました。
光クラブ事件の会社のビジネス形態③21~30%で貸付け利益を得る
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出資者から得られた多額の資金は、21〜30%で企業に貸し付けを行っていました。出資者への配当金を差し引いても8%〜17%の利益が出ることになります。現在からすると無茶苦茶に感じますが、時代は終戦直後の混乱期。世間から戦後の成功者としてもてはやされました。
しかし、その影響の大きさから警察に目をつけられることになります。当時の法定利息は9%までであったため、物価等制令違反で検挙されました。社長秘書の女性から、会社の収支の全てを税務署へリークされたことがきっかけになりました。こうして「光クラブ」は一気に転落へ向かいます。
光クラブの出資者に有名な起業家も
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光クラブには多くの出資者が集まり、本社には融資したい出資者が列をなしたといいます。話題性から多くの東大生も出資に参加していたようです。その中には、誰もが知る東大出身の有名企業家も含まれていました。その意外な人物と驚きのエピソードを紹介していきます。
「日本マクドナルド」、「日本トイザらス」創業者の藤田田
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出資者の中には、日本人で知らない人がいない「日本マクドナルド」、「日本トイザらス」創業者の藤田田(ふじた でん)が存在しました。1926年生まれで、1944年に山崎と同様、東京大学法学部へ入学しています。山崎晃嗣と同時期に東大へ通っており、学部は違いますが、他に作家であるに三島由紀夫もあげられます。
藤田田は山崎と交流があったようで、山崎の印象を「頭のいいやつ」と語っています。好奇心が強かった藤田田は、山崎の「光クラブ」へ融資していました。藤田田の名言のひとつに『人は金と使命感で動く』という言葉がありますが、戦後の無秩序で混沌とした時代に、山崎に共感するところがあったのかもしれません。
山崎の自殺は藤田田の助言だった?
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藤田田は、「光クラブ」の経営が行き詰まった際も融資金をきっちり回収しています。山崎が債権回収について藤田田に相談しますが、藤田は『法的に解決することを望むなら、君が消えることだ』と冷たく突っぱねました。
現状を打破するためには、契約の「事情変更の法則」しかない、と吹き込んだのは藤田田という話もあります。「事情変更」とは、すなわち山崎の自殺をほのめかすものでした。真相はさだかではありませんが、その後、山崎は服毒自殺を選択します。
光クラブ事件の首謀者・山崎晃嗣のその後
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逮捕後1ヶ月で処分保留で釈放となった山崎。会社の信用は失墜し、業績は瞬く間に悪化していきます。「光クラブ」の社長として時代の寵児ともてはやされた山崎晃嗣の人生は、その後どのような結末を迎えたのでしょうか。
光クラブ事件の中心人物の山崎晃嗣は26歳の若さで服毒自殺
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逮捕後、山崎は持ち前の頭脳で警察の取り調べを論破。結局1ヶ月で不起訴となり釈放されます。しかし時は既に遅し。山崎のワンマン経営だったため、帳簿や通帳などは警察に没収されており、業務はストップしていました。さらに、債権者が出資金の返済を求め、約3000万円の債務を背負うことになります。
債権者へ債務返済を約束した11月25日の前日、資金回収が出来なかった山崎は、11月24日に毒物により人生の幕を下ろしました。まだ26歳の若さでした。こうして、終戦後世間を騒がせた光クラブ事件は結末を迎えます。
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山崎の死後「光クラブ」は解散しますが、関係者らの中には闇金業を続けるものもいました。山崎の相棒だった三木仙也も金融ビジネスを続けますが、「光クラブ」とビジネスの根本や、ブランディングの手法は全くで、詐欺まがいの金融事業を繰り返しました。
光クラブ事件の中心人物の山崎晃嗣の残した遺書とは
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山崎は、服毒し意識がなくなる直前まで遺書を書き続けていました。その内容とは、『契約は完全履行されるべきである。契約とは人と人との間で履行するものであり、死人という物体には適用されない。自らの死体をもって倫理的統一を全うした。』と書かれており、山崎の徹底的な合理主義を最後まで貫き通しました。
遺書は、彼の意識が無くなる直前まで続いていたため、書きなぐられた文字の最後は解読不能となっています。最後まで彼が伝えたかったことは一体なんだったのでしょうか。今となっては知る由もありません。
光クラブ事件の中心人物・山崎晃嗣とは?
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「光クラブ」の中心的存在だった山崎晃嗣は、彗星のごとく現れ、26歳の若さで生涯を閉じました。一体彼はどのような人物なのでしょうか。激動の時代を駆け抜けるように生きた山崎晃嗣。彼の生い立ちに迫っていきましょう。
光クラブ事件の山崎晃嗣の生い立ち①1923年木更津市に生まれる
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1923年10月、千葉県木更津市に5人兄弟の末っ子として生まれます。父親は医師で木更津市長を務めるほど名士、母親は音楽家、3人の兄も医師というエリート一家でした。山崎は旧制木更津中(現在の千葉県立木更津高等学校)から一高へ進学します。
一高は、東京大学教養学部、千葉大学医学部・薬学部の前身となる学校です。全国から優秀な学生、教授が集まり、卒業生の多くは東京大学へ進学しているエリート校でした。山崎もエリートへの道を着実に歩んでいきます。
光クラブ事件の山崎晃嗣の生い立ち②東京帝国大学法学部に入学
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1943年、一日15時間の猛勉強の末、一高から東大帝国大学法学部に入学します。父親から東大医学部教授の期待をかけられていたようです。しかし、時代は太平洋戦争の真っただ中。勤労動員が拡大し、学生も例外ではありません。山崎もこの激動の波に巻き込まれていきます。
光クラブ事件の山崎晃嗣の生い立ち③学徒出陣中、人間不信となる
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学徒出陣により、陸軍主計少佐として北海道旭川に配属されます。山崎は見下していた上官からの理不尽に耐える屈辱の日々を送ります。さらに一高時代からの同級生を上官の私的制裁で亡くしてしまいます。
終戦の際、上官を庇う形で、米や油などの食料を横領していた罪に問われ、懲役1年半・執行猶予3年の判決を受けます。警察から尋問の際に虐待され、約束されていた横領分の分け前を受け取ることもできず、人間に対する強い不信感を抱きます。これは彼の人生に大きく影を落とすことになります。
光クラブ事件の山崎晃嗣の生い立ち④東大復学後は猛勉強の日々
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東大に復学した山崎は、これまでを取り戻すように猛勉強の日々を送ります。全ての科目で優を取る「全優」を目指すため、勉強、食事、睡眠など一日全てに優先順位を付けて行動していました。結局「全優」は達成されませんでしたが、東大史上もっとも天才と言われるほどでした。
山崎の特殊な性格とは?
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山崎は戦時中の経験により、大学構内ではほとんど人と接することはなかったようです。学力や知能のみ最上なものという考えをもっていたようです。冷酷なまでに徹底的な合理主義者で、全ての行動は彼独自の合理主義に基づいたものでした。
病的なほど几帳面
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1日のスケジュールを病的なほど几帳面に記録していました。全ての行動は30分単位で記録し、それは勉強、睡眠、女性関係に至るまで詳細に書かれています。また、細かく優先順位を付けて、勉強は「有益時間」、恋人と過ごす時間は「女色時間」、空想などは「無益時間」とし、全ての行動に対して◎、○、△と自身の評価を付けていました。
彼の病的な記録癖は、亡くなる約3年前から自殺するまで1日も欠かすことなく続きました。その手記や遺書は書籍化され、2006年に再出版されていましす。彼の人生観や人柄が詳細に垣間みれる内容になっています。
女性を道具として扱う面も
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山崎は6人もの愛人がいたと言われます。ただし恋愛感情は皆無でした。愛人に誠意が無いと言われれば、『誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される』と告げたといいます。
妊娠した女性に対して堕胎を迫り、女性が断れば自殺するよう仕向けるしかないなどど、恐ろしい言葉を日記に残しています。肉体関係を結ぶためだけの女性秘書をおいていましたが、その女性こそが税務署のスパイであり逮捕のきっかけを作った事はなんとも皮肉です。
光クラブ事件の与えた影響①作品
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光クラブ事件は、現在も語り継がれるほどの話題性があり、また首謀者である山崎晃嗣の特殊な人物像から、さまざま小説や映像作品の題材にされています。ここでは特に有名な2作品を紹介します。