福田孝行という名は伏せられていましたが、日本中が大きく注目し連日取り上げられるビッグニュースとして賑わせていました。
長期間がかかった判決内容とは
福田孝行の若すぎる歳と犯行時の心情がネックでした。更生の余地があるであろう18歳に対し、死の罪を与えるべきか、社会へ適応する教養を指導したほうがいいいのかという意見が12年を要したのです。
彼女に対して好意ともとれる感情を抱いており、わいせつな気持ちで近づいたことは事実であるが、悪意を持っていたものではなく、生命は守るべきと弁護人は弁明しています。
被害者の遺族・本村洋さんは「あすの会」を設立
凄まじい悲しみと闘いながらも、陽は昇り生きていくためには働かなくてはなりません。連日の過剰ともいえるプライベートが公に流されることに、不信感を抱くようになったのです。
福田孝行は少年であるため、正体は伏せられガードされているといった待遇の温度差に疑問を感じています。どちらが被害者で守られるべき人権だったでしょうか。
心に傷を負った人の集いの場として、会を作りました。何か熱中するものがなければ気がおかしくなってしまいそうだったのではないでしょうか。
毎日の成長が楽しみであったはずの娘と生涯を誓いあった妻を一気に奪われた空虚感を、少しでも軽くするために同じような体験をしている人と乗り越えたかったのではないかと察します。
福田孝行の生い立ちとは?
多くの若者非行で繰り広げられるのが、家庭の環境についてです。ほとんどが異質な養育を経験しています。福田孝行も同じでした。生誕した背景や経緯をまとめました。
1981年3月16日に誕生
福田孝行として芽吹いたときから、夫婦関係にはどんよりと曇ったオーラを放っていました。結婚をして子供が誕生することは、大きな人生のターニングポイントであり喜びの忘れられない思い出です。
福田孝行の父母は、助け合って共存していくパートナーではなく服従関係のようでした。心安らぐ瞬間が2人の間には存在していなかったことでしょう。日々ストレスの連続でした。
コウノトリは運ぶ場所を間違えてしまったでしょうか。幸せだと感じる節目はブラックな日々の始まりでしかなかったのです。
在日という説も?
福田孝行の顔が公表されていますが、一重瞼に鋭い目つきが特徴的です。父は朝鮮からの渡来人であると囁かれています。
定かでない情報ではありますが、残虐な手口もあって、我が国の同じ血を引き継いでいると思いたくないことからの噂という可能性もゼロとは言い切れません。
ギャンブル・暴力漬けの父から母を守り自身も虐待を受ける
多額の借金があったようです。福田孝行の目に焼き付いていたのは、乱暴を受けては母が倒れ、血が飛び散る状況であり、団らんというものなど体験も言葉も知らなかったかもしれません。
長男としての威厳を出そうと奮起しますがヒーローのようにはいかず、福田孝行は生傷が絶えませんでした。
現代のように気軽に虐待ホットラインへコールできていたら歴史は変わっていたかもと悔やまれるものであります。
中1の時に母が自殺!遺体掃除をさせられた
鬱病だったのでしょう。息をしていくことすら興味がなくなったのです。倉庫にロープを括り付け人生の幕を閉じました。
荒れている子供でもお母さんが大好きで、福田孝行にも特別な存在でした。もう会えないという失った悲しみは例えようのないほどでした。
父の姿をした魔神は、息子である福田孝行に失禁していた母の体を拭くよう命じ、縄をほどいて、地上に降ろすこともさせたといいます。
どんな思いで冷たくなった体に触れ、何を感じたでしょうか。心に傷を負ったことは間違いないでしょう。成す術なく埋葬されたことで、蘇らせる思考に興味が湧き、弥生さんに施したのでしょうか。
腹違いの弟の誕生
喪が明けない3か月後に、愛人であったフィリピン女性を伴侶に迎え入れます。すぐ弟が生まれ福田孝行はお兄ちゃんとなりました。
ただでさえ思春期でホルモン変動が起こり不安定になる時期に、著しく変化が起こったことでスピードについていけなかったのです。
家出を繰り返すようになる
心をシャットアウトしていた福田孝行は、嫌な気持ちを押し殺してまでい続ける意味があるのかと疑問に思っていました。外へ飛び出し、共感し合える仲間を求めます。
荒んだ心を気づいてほしくて彷徨っていたのかもしれません。夜回り先生のような指導者の目に留まっていたら、未来は明るいものになっていたのかもしれません。
運命とは、不運が重なるものです。寄り添う場が定まらない福田孝行は、心が張り裂けそうだったことでしょう。