小平事件とは?小平義雄が起こした凶悪な連続強姦殺人事件
小平事件とは小平義雄が終戦直前の1945年から終戦直後の1946年にかけて起こした連続強姦殺人事件です。
小平の手口は、当時社会的に食料難で困窮していた若い女性に食料の調達をほのめかし、言葉巧みに連れ出して犯行に及ぶというものでした。東京都小平市とはまったく関係がなく、事件名は犯人の名前が由来です。
事件が発覚したのは、若い女性の遺体が2体発見されたことが発端です。事件現場は芝増上寺の裏山です。被害女性の家族は「娘が就職試験を受けると言ったまま帰宅しなかった。」と警察に捜索願を出していたのです。
このことが発見された遺体の身元が判明するきっかけとなりました。この被害女性に就職先を紹介するといって住所の交換をしていたのが小平です。
警察は小平を警察署に連行して事情を聞いたところ、あっさりと自供を始めました。警察も当初は増上寺の裏山で発見された2遺体に関する殺人事件であると考えていました。
しかし、小平が次々と強姦殺人事件に関し、自供をはじめ、小平の犯行が明らかになりました。小平事件は小平が当時の深刻な食料事情を逆手に取り犯行をおこないました。
食料や就職先を熱心に探す若い女性を山林などに誘い出し、自身の性欲を満たすために強姦を行い、犯行後に証拠隠滅のために絞殺を行なうというものでした。
小平が起こしたといわれる10件の凶悪な犯行のうち、10件が起訴され、7件で裁判で有罪が確定しています。
1949年には死刑執行がされています。一説には全犯行は30件に及ぶといわれており、戦後日本におけるシリアルキラーの代名詞となっています。
小平は新聞には「性獣」と書かれ「性欲旺盛な、野獣のような男」であるが、見た目は一見ハンサムであり、紳士的な態度で当初女性に声をかけることもあり、次々と被害に合う女性がいたことも事実です。
小平義雄が起こした「小平事件」の犯行10件の詳細
小平は10件に及ぶ連続強姦殺人事件を起こしたと言われています。ただ、彼の犯行は殺人が目的ではありません。以下のように供述しており、性的欲求を満たすための犯行であったことが伺い知れます。
私が女たちを殺害した理由は、死に顔を見たいとか、死の苦しみを見て喜ぶとかいったことではないのです。女は殺さねばいうことをきかない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うからです。普通のやり方より強姦のほうがいいです。自由になりますから。(引用:-昭和残酷史-)
ここでは起訴された10件の犯行の詳細をご説明いたします。10件のうち最初の7件については有罪が確定しており残りの3件については証拠不十分で無罪となっております。
この無罪になった3件については警察・検察の不作為により未解決となっていた似たような事件を小平の犯行として無理やり起訴したのではないかという後年の評価もあります。
【小平事件】第1の事件で女性の遺体を防空壕へ遺棄
第1の事件は太平洋戦争末期の1945年に発生しました。当時、妻子を妻の郷里である富山に激化する米軍の無差別爆撃から疎開させ、住み込みで勤務していた品川区の海軍衣糧廠で発生しました。
被害者は女子挺身隊として動員されていた当時21歳のMさんで、盲腸の手術のため入浴が出来ず、ボイラー室へ身体を拭くためのお湯を貰いに来たところ、そこでボイラー作業員をしていた小平に目をつけられました。
小平はMさんにお湯を渡した後、疎開により人影もまばらになった女子寮に忍び込み、Mさんが身体を拭くところを覗きました。このことが小平の欲望を刺激し、Mさんと関係を持ちたいと考えるようになりました。
被害女性は術後の養生を母親の疎開先でする事になり、小平が覗きを行なった2~3日後に、ボイラー室を訪ね、小平に女子寮退寮の挨拶をしました。そこで、一緒に食事をとることになり、ともに時間を過ごしました。
その後、自分の部屋に戻った被害女性を再び尋ねた小平は関係を持って欲しいと持ちかけます。相手にされなかった小平は逆上し被害女性の首を気絶するまでしめました。
小平は被害女性が目を覚ますのを待っていました。目を覚ました被害女性は観念したのか、自ら服を脱ぎ、小平と関係を持ちました。その後、被害女性を絞殺し、遺体を女子寮中庭の防空壕へ遺棄しました。
被害女性の遺体は6月に入り発見されました。小平も警察より事情聴取されますが、捜査の矛先が同僚に向っている隙に、ボイラー技士の職を辞して妻子が疎開している富山に移り住みます。
この間、東京周辺は米軍の激しい爆撃があり、殺人の捜査もうやむやになってします。この間、逮捕されるまで小平は何度も犯行を繰り返します。
【小平事件】第2の事件で女性を強姦・絞殺し金品奪い死体遺棄
第2の事件は第1の事件で被害女性を殺害した約1ヶ月後の6月23日に発生しました。
東武鉄道新栃木駅で31歳の既婚女性に対し「この近くに知り合いの農家がある。そこへ行けばいくらでも米が買える。」と近隣の山中に連れ込んで関係を迫った。
女性は「私は人妻だし、そんないやらしいことは絶対にだめです。」と拒否したもののの翌朝までに何回も強姦し、その後絞殺して同時に現金70円と腕時計を奪いました。遺体は約3ヶ月後に発見されました。
【小平事件】第3の事件でも女性を強姦し絞殺
第3の事件も第2の事件から1ヶ月もたたない同年7月12日に発生した。女性を誘い出す手口は31歳の主婦を騙した時と同じように当時の食糧難につけこんだものでした。
食料買出しのために訪れた渋谷駅で切符売り場に並んでいた22歳の女性に「米を安く売ってくれる農家がある」と声をかけ、群馬県内の山林に連れ込み、強姦しました。
強姦後に、被害女性が持っていた小刀を小平に向け反撃しようとしました。小平はこれに逆上し、小刀を取り上げ、被害女性を絞殺しました。その後、死体を遺棄した小平は所持金40円などを奪いました。
【小平事件】第4の事件の女性の遺体発見時は白骨化
第4の事件は第3の事件の3日後に発生しました。食料買出しのために池袋駅で電車をまっていた女性に小平は声をかけ、現在の東京都西東京市の近くの雑木林に誘い込みました。
この被害女性は結核を患っており、ガリガリに痩せていましたが、全く気にする事なく強姦し、絞殺しました。絞殺後に現金60円と下駄1足を奪いました。約4ヵ月後に遺体は白骨化死体となって発見されました。
この時、小平は3日前の群馬県真名子村での殺人事件の発覚を恐れて妻子の疎開先である富山に向う途中でした。
小平は、富山に滞在中、不二越鋼材東冨士製鋼所で守衛の職を得ており9月末に退職するまで富山で働いていました。このあいだ、小平の犯行はなりを潜めていました。
【小平事件】第5の事件でも女性を強姦し絞殺、洋服を奪う
事件の発端は食料買出しのために東京駅で同僚女性と待ち合わせをしていた、21歳の被害女性に声をかけたことです。被害女性を4番目の事件で殺害現場となった雑木林に言葉巧みに誘き出しています。
被害女性は流石に変だと思い、引き返すと言い出しますが、小平はそれに逆上して首を絞めようとします。
被害女性はここで自ら裸になりました。雨上がりの雑木林の中で、服が汚れるのを嫌がったのではないかと考えられています。
この時、近くで栗拾いをしている子どもたちの声が小平の耳に入りました。犯行が発覚するのを嫌った小平は被害女性の首に手をかけ、声が出るのを止めました。
殺意はなかったのですが、首を強く締めすぎてしまい、被害女性は絞殺されてしまいます。この後、小平は女性を死姦し、その後女性の所持金などを奪いました。遺体は一ヶ月後の11月1日に発見されています。
【小平事件】第6の事件では金品とリュックを奪い逃走
第6の事件も食料を買い出しに10代女性に食料が手に入るということを伝え、現在の栃木県栃木市の山林に誘い込み、強姦しその後、絞殺する事件を起こします。
9月の下旬に富山で警備員の職を辞した小平は、富山周辺で薬をかき集め東京方面で販売することを計画しました。渋谷の道玄坂で販売を行いましたが思ったほど売上は伸びず、計画をうまく実行できなかったようです。
11月1日に富山に行き、この時かき集めた薬の代金を精算し、東京へ戻っています。強姦殺人という凶悪な犯行を犯す人間であっても律儀に薬の買掛代金を精算することがちぐはぐな印象を与えます。
12月に入って、富山に疎開していた妻子を迎え、小平一家3人は東京都渋谷区に居を構えます。
第6の事件はこのような状況で起こりました。
小平は栃木県へ食料の買い出しに行く途中で浅草駅から電車に乗って母親の疎開先に向かう途中の19歳の少女に「コメが安く買える農家がある。」といって声をかけ、金ヶ崎駅で下車し、近くの山林に連れ込みました。
「暗くなったから帰ろう。」と言い出した被害女性を小平は殴りつけ、首を締めながら強姦しました。
その後気を失っていた被害女性は息を吹き返しましたが、マフラーで絞殺されてしまいます。その後、現金130円とリュックを奪って逃走しています。
【小平事件】第7の事件の被害者は17歳の少女
第7の事件の被害者は終戦直後の動乱期になんとしても職を得ようとしていた、女学校を卒業したばかりの17歳の少女です。
今までは食料調達に関して女性を騙して人気のないところへ連れ出し、強姦殺人を繰り返していた小平ですが、この時期から誘い出しにつかう言葉が変化していきます。
この被害少女は就職口を紹介するという言葉に騙され被害に会いました。
17歳の被害女性は殺害される1ヶ月ほど前の7月上旬に品川駅前で列車事故があったとき、偶然居合わせた小平に声をかられました。
小平はこの被害女性が転職活動中であると気づくと、就職先の面倒を見ると言って住所を交換しました。
その後、小平はこの女性宅を訪れ、親とも面会しすっかり信用されました。8月6日に就職試験を受けることになった被害女性は家族の奇遇先の家を朝9時ごろ出発しました。
約束通り待ち合わせの品川駅に現れた被害女性を言葉巧み惑わし増上寺の裏山に誘い込んだ小平は一緒に弁当を食べた後に豹変し「いうことを聞け。」と横っ面をひっぱたき無理やり下着をぬがして強姦します。
強姦が終わると、被害女性の首を締め絞殺しました。
その後、いつになっても女性が戻らないことを心配した家族が小平をたずねたところ小平は「結局、就職試験には来なかった。」と伝えました。そのため、被害女性の家族は届け出を行いました。
この女性が8月17日に発見されたことが小平事件が世の中に明らかになる発端となりました。住所を交換し、被害女性の親とも面識のあった小平を警察に連行し犯行を問いただしたところあっさりと犯行を自供しました。
【小平事件】第8の事件は17歳少女に「暖かい場所にきなさい」
第8の事件は検察が起訴したものの、嫌疑不十分となり無罪となっています。
検察の起訴内容によると、小平は渋谷駅でイモの買出しのために乗車券を買おうと窓口に並んでいた17歳少女にと言葉巧みに渋谷駅前の東横デパート地下室に連れ込み、強姦の上絞殺しました。
絞殺後に20円余りを奪い小平は逃げています。
【小平事件】第9の事件では15歳の少女に「ビスケットをやる」
第9の事件も検察が起訴したものの、嫌疑不十分で無罪となった事件です。
検察の起訴内容は小平がお菓子などを与え顔なじみになっていた15歳の少女に「ビスケットをやる」といって運送会社の駐車場に誘い出し関係を迫りました。
被害少女が関係を拒絶ましたが、小平は被害者を強姦し殺害に及びました。その後、死体をトラックの下に隠しました。4日後に偶然、トラックから出火し火災となり、被害少女の死体が発見されました。
【小平事件】第10の事件では女性に「銀座方面に遊びに行こう」
第10の事件も起訴されながらも証拠不十分で無罪となった事件です。
検察の起訴内容は、1946年7月22日にかねてから知り合いになっていた女性に「銀座方面に遊びに行こう。」と言葉巧みに芝増上寺の裏山に連れ出し、強姦の後、絞殺しました。
この時の被害女性は小平事件が明るみに出るきっかけとなった女性の死体発見現場の近くを捜査する過程で発見されました。結局のところこの女性の身元は今も判明していません。
小平事件の裁判の判決とその後
芝増上寺の裏山で発見された17歳少女の絞殺死体の捜査を発端に逮捕された小平義雄は 前記した10件の強姦殺人容疑・30件の強姦容疑で起訴されました。
1947年6月18日に東京地裁で死刑判決が出た後、東京高裁へ控訴するも、翌1948年2月28日に控訴棄却判決が出ています。
これについても最高裁へ上告しています。1948年11月16日に上告棄却判決が出て死刑が確定します。
小平事件の10件中7件が有罪となる
小平義雄の強姦殺人の起訴容疑のうち7件は犯行を認め有罪となっています。起訴された10件のうち3件は小平義雄が犯行を否認し、裁判でも嫌疑時不十分のため無罪となっています。
しかしながら無罪となった3件の中には警察・検察による取調べにおいては被害者の衣服に関する詳細な供述を行なっている部分もあります。
小平義雄の犯行であるという見立てを持っていた専門家や司法関係者もいたそうです。
小平義雄は死刑判決
東京地裁では有罪とされた7件の犯行に対し、死刑判決を言い渡しています。判決を聞いた小平は顔を赤らめて裁判長に一礼したそうです。
控訴審、上告審においてもこの地裁判決を支持しており、1948年11月16日の最高裁の上告棄却で死刑が確定しました。
メディアは小平義雄を「淫獣」と報じた
小平は取りしらべの中に犯行時の心理状況として以下のように供述している。新聞報道ではこれらの供述を受け、彼を「淫獣」と書いています。
普通のやり方より強姦のほうがいいです。自由になりますから。女を横にして陰部を見ながら、今まさに関係しようとする瞬間がなんともいえないのです。殺されてもよいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです(引用:オワリナキアクム)
小平は人を殺すことはむしろ嫌だと言っています。小平の異常性癖からくる興奮が絶頂に達する「その瞬間」は被害者の生死にかかわらずやってくると供述しています。
「その瞬間」とは暴力により言いなりになった、または仮死状態や死亡した女性の股を開き、自分のイチモツを女性器に突き刺す瞬間なのです。
まさに小平は「その瞬間」に「殺されてもいいと思う」と同時に「日本等で後から首を斬られても構わない」ほど「なんともいえない」恍惚の心理状況であったといいます。
死刑判決後に妻と面談し小平義雄は反省の色を見せる
死刑判決が確定した後の1949年4月頃、小平に対し妻が初めて面会しました。
彼の妻は面会時に、小平にこう言ったそうです。「自分が疎開していたばかりに、あなたの世話が出来ず、このような結果を招いた。あなたの罪の責任は私にあります」と言ったそうです。
小平はこの言葉を聞き、いままで教誨師の指導にも投げやりな態度をとっていたのが一変し、信仰心厚い態度となりました。
もともと自身の子どもに対しては子煩悩な一面を見せていたが「死刑囚の子供としていじけないように育ててもらいたい」と妻に伝えるなどしたそうです。
小平義雄44歳の時に死刑執行
1948年12月1日、小平は仙台の宮城刑務所仙台拘置支所に送られた。この当時、東京拘置所には死刑を執行する設備がなく、関東地方の死刑囚はすべてこの仙台拘置支所に送られました。
妻が面会に訪れて約半年後の1949年10月5日に死刑執行されました。享年44歳でした。
当日の朝、「所長さんがお呼びだよ、小平。」という看守の言葉にいつもと違うところを感じ、すべてを察したそうです。
独房内を綺麗に清掃し、この日のために用意してあった新品の下着に着替え、編笠をかぶり、刑場へむかいました。
窓から外を眺め「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と教誨師に話したそうです。
執行を前に遺言を問われた小平は便箋2枚に妻に宛てた走り書きの遺書を残しました。
自分は荘厳な気持ちですべてを精算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝えください。家族の者もどうぞ天命を完うしてくだい。(引用:Wikipedia)
小平義雄は死ぬ当日に遺書と句を残した
小平は死刑執行に際し、辞世の句を残しました。「亡きみ霊 赦し給へし過去の罪 今日の死を待ち 深く果てなん」
この後、所長に「もうほかに、何か言い残すことや欲しいものはないか。」と問われ、小平は「タバコを一本吸わせてください。」と求めました。
差し出されたタバコを胸の奥までゆっくり吸い込んだそうです。午前9時50分、死刑執行されました。
【小平事件】3人の供述
小平事件の全容を明らかにするうえで重要な3人の取調中の供述や裁判での証言があります。
ひとつ目は小平本人の供述、2つ目は小平の妻の供述、3つ目は裁判で鑑定の証言を行った、精神科医 内村祐之の証言です。
小平義雄の供述
小平は逮捕後の取り調べで様々な供述を行っています。それにより犯行当時の心境や小平事件が起こる前に行った軍務の影響が明らかになっています。
被害女性を言葉巧みに騙す手口
小平は女性を騙す手口を以下のように供述しています。戦後の食料難や就職難につけ込んだ卑劣な手口といえます。
終戦前後は何といっても食糧が女の心を一番動かしました。私はそれを利用したのです(引用:殺人風土記)
小平の女性を暴行する手口
小平の異常性癖を示す供述として、犯行の手口を以下のように供述しています。
この供述からも被害女性を性欲のはけ口とだけしか考えていない常軌を逸した小平の犯行状況が見てとれます。
まず、女を殴り、次いで頚部を絞め仮死状態にする。この絞め方は、右手を前に、左手を後ろにし、両手で少し上に持ち上げる。2、3分そうしていると、洟を垂らし、手をだらりと下げ、仮死状態になるのである。このときすぐに交わるとは限らない。むしろ30分ぐらい待ち、蘇生したところで、揺り動かす。「私どうしたの、どこかへ行ってたの?」たいていの女が、不思議そうに問いかけ、失禁していることに気づく。そこで、着ている物を脱ぐように命じ、体に付着した糞尿を拭き取ってやる。もはや抵抗を諦めているので、体をひろげて、自らを重ねる。その行為の間、女は目を開いて宙を見つめ、両手を伸ばしている。女を横にして陰部を見て、今入れんとする瞬間がなんともいえないのです。殺されてもいいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を切られても構いません。陰部ばかりを見ています。顔なんか見ていません。入れると夢中で私だけ腰を使います。終わると早く始末してしまいます(引用:無限回廊)
小平義雄の妻の供述
小平の妻は夫婦生活を会のように供述しています。家族には異常な一面を見せなかったのでしょう。
死刑囚となった小平と面会した妻の言葉によって改悛の情を死刑のそのときまで見せていた一面もあります。
結婚してから毎晩のように要求はあったのは確かです。稀にひと晩に2回ということもありました。40になろうとする男にしては少ししつこいのではと思うこともありました。ですが、変な要求はしないし、交わり自体はあっさりしたもので、首を締めるようなことはありませんでした。愛妻家とは彼のような人のことを言うのだと思っていました。性的な会話がひとつもなかったから、まさか浮気はしないだろうと安心しきっていました。逮捕されて新聞に載ってからも、しばらくは夫がしたこととは信じられませんでした(引用:無限回廊)
鑑定人・内村祐之の供述
裁判で鑑定を行った精神科医の内村祐之は継のように供述しています。異常者だけれども責任能力があるということを述べています。
小平の性欲衝動も感情激発性もそうとう強いものであったに違いないが、しかし、いかにしてもこれらを制御し得ないほど重篤かつ高度の性格異常者ではなかったと判断する。従って小平ははなはだ珍しい型の生来性性格異常者で、しかもなお責任能力のある人格と判定するのである(引用:無限回廊)
供述をもとに研究の必要性があると言われている
小平は別の供述で「強盗強姦は日本軍隊にはつきものですよ。」と供述しています。
これは小平が従軍した中国戦線で強姦を含む虐殺行為を行ったと本人の体験を元に語っています。
このことを指摘して日本軍の海外での行為がどのように行われていたか明らかにする意味でも、小平供述の研究について必要性を指摘している声もあります。
ただ、小平は中国戦線に一兵卒として参加しており、この供述のみで日本軍全体を議論するのは非常に危険です。
また、小平の軍歴は機関兵として海軍陸戦隊の一員として従軍しています。機関兵とは軍艦などのエンジンの動作を専門に維持管理及び操業させるための兵科です。
第1の犯行を行った時は海軍衣糧廠でボイラー技師をしていたので機関兵であったのは事実と考えても矛盾はありません。
実際、その仕事に従事していた時は部下を持つ主任の立場として働いていました。
ただ、海軍陸戦隊に機関兵が本格的に配属されていたという点も疑問がのこり、その中でも機関兵が本格的に戦闘に従事することはもっと疑問の残る点でもありあます。
この点から、小平の従軍中の虐殺に関する供述は慎重に研究する必要があるといえます。
軍関連の自他の行動に関しては、組織をあまり良く思っていない節もあるのも事実です。軍の風紀の乱れが小平の犯行の一因となったといっているかのような供述もあります。
たとえば、海軍衣糧廠に務めていた時の話として、女子寮内で寮生と将校や下士官が性交するのを見たなどとも述べています。
小平事件の犯人小平義雄の生い立ち
小平の犯行の背景を明らかにする意味で生い立ちや、小学校時代の様子を明らかにしていきます。
家庭環境は恵まれているとは言えず、特に父親に関しては、自宅へ女を連れ込み小平義雄ら子どもたちの前でセックスを始めるなどの事もあったようです。
小平義雄は商人宿の3男として生まれる
小平は1903年に栃木県都賀郡日光町(現:栃木県日光市)で宿屋を営む両親の6番目の子、3男として生を受けました。
小平の生まれた地域は当時、盛況をを博していた足尾銅山関係者が頻繁に利用したため賑やかな状況でした。
母方の親戚には弁護士や裁判官などを勤め、犯罪傾向全く無かったが、父方の親戚には精神疾患を抱えたものや、窃盗や傷害などの犯罪傾向を有するものが多数いたとのことがわかっています。
この父親の影響か定かではありませんが、小平が成長するにつれて宿屋の経営もうまくいかなくなり、山林や田畑も人手にわたってしまいました。
小平義雄の小学生時代はあまり成績が良くなかった
小平の尋常小学校の成績は男子23人中21番目でした。「操行」の成績は6年間「丙」であり、品行は良くなかったと考えられます。
小学校4年生の時には残っていた査定記録には「不注意にして不熱心なれば成績不良なり」と書かれています。
また、吃りがひどく意思がうまく伝わらない時は、たちまち激昂し、弱い者いじめも頻繁であったと言われています。
小学校一年の査定では「不注意、不熱心、無精にして喧嘩せざる日なし」と記載されています。一方、この頃から女性には優しかったそうです。
逮捕後には小平に対し知能テストが行われたようです。結果は中の下程度であったが、計算能力も良好で知識も豊富だったとの記録が残っています。
また死刑執行が決まり、死刑囚となり妻の面会を受けて改悛の情を見せてからは読書なども行っており、知能は決して低くないであろう、エピソードも残っています。
また、逮捕されてからの供述では小平は自らを「人面獣心」であると認識し、「腰から下は獣ですよ。」とも言っています。
自己分析がきちんと出来ているという面でも知能はむしろ高いのではないかという印象を持ちます。
小平義雄は海軍に入り中国で婦女暴行や妊婦の殺害をしていた
小学校卒業後、東京へ出て見習工や店員として2年ほど働いていました。その後、地元へ戻り精鋼所に勤務しました。18歳のとき海軍に志願して入隊しました。
入隊後は軍艦の乗組員としてオーストラリアやヨーロッパに寄港し、その先で売春婦を知り、一晩泊まって4、5回やったこともあると言っています。
済南事変で中国に従軍したときは市街戦で中国兵6人を刺殺し、この時の軍功で勲八等旭日章をもらっています。