八鹿高校事件とは?事件の概要や背景・主犯の丸尾良昭の人物像にも迫る

地域を巻き込み、生徒を巻き込み、果ては世間にまで傷跡を残した主犯格の男。被差別部落民にとっては英雄、その他の地域の人々から見ると、狂暴で暴力的な面を持つ危険な人物とも感じられるかもしれません。

彼に付きまとう被差別部落出身という不名誉な烙印は、煩わしいことこの上なかったと思われます。そのため、まだ幼い10代前半のころから、強い主張によって我を通したエピソードには事欠きません。

彼は時代や地域の被害者なのか、それとも立場を笠に着た暴行犯人なのか。その判断は難しく、また、彼の立場からという理由だけでなくとも日ごろの言動についても分別を難しくさせる事件が起こっているのでした。

八鹿高校事件の主犯・丸尾良昭は被差別部落出身

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変わらぬ人間であるにも関わらず、何故扱いや権利に差が出るのか。被差別の立場にあった人々はみな同じ憤りを抱えていたことでしょう。もちろん、そんな現状を打破すべく立ち上がった丸尾も同じ立場でした。

彼の中での出自に関わる問題は、非常に大きな障壁であったようです。それを揶揄するような発言には敏感に反応し、相手とぶつかることもしばしば。そんなコンプレックスを抱える心はボロボロだったでしょう。

また、彼がそれを意識する根底には、同地域出身の人々の暮らしぶりがありました。貧しいから、汚いから、などの理由ではなく、向上心なく目先の欲望に雁字搦めにされた姿に言い知れぬ反発を抱いていた様です。

部落解放同盟を悪用していたという噂も

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被差別問題は、差別する側される側、両者がいなければ成立し得ない問題です。いつの時代においても、差別する側は自分は正しいんだと心を騙し、罪悪感を感じて生活していたことでしょう。

しかし、丸尾はそんな人々の罪悪感を悪用し、さも自分が被差別立場の代表だとでも言わんばかりに言論を振りかざします。残念な事には証拠として、勤め先での数々の問題行動についての記述が残されているのでした。

自転車屋において部品を脅し取るような脅迫行為、勤め先で喧嘩になった相手の言葉尻を捕らえ、売り言葉に買い言葉程度の悪口を差別発言と糾弾。さらには、町会での主事の発言を曲解し責め立てるなどしていた様です。

八鹿高校事件後のマスコミと世間

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デモンストレーションを起こすでもなく、決起会を開くでもなく、学校を占拠した上に武力を行使し自分らの意見を誇示しようとした、中々前代未聞な事件ですが、なぜかマスコミは飛びつくでもなく静観していました。

その背景には、当時の差別問題報道に関するデリケートな取り扱いが要求されたことがありました。端的に言ってしまうと、注目を引く”オイシイネタ”ではあったが、扱いが難しかったため腫れ物扱いしたのです。

しかし、そうした各所マスコミに対して、事件を知る人々からは熱烈なレスポンスがありました。まるで、保身に走らず報道機関の務めを果たさない彼らに発破をかけるかのようでした。

部落解放同盟の「暴力なかった」という主張を『社会新報』も報じる

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現在も名を変え存続している政党が、まず解放同盟側の意見を平易に汲み取り、事実と反する内容を機関紙に掲載しました。裁判でのトンデモ証言とも共通する、力での制圧は行っていないとの内容です。

しかし、こちらについては読者皆さんも周知の通り真っ赤な嘘です。さすがにそれが事実だということは通らないとわかっていたのか、後に別県の解放同盟が事実調査をし、加害があったことを認めています。

八鹿高校事件後に部落解放同盟を批判する立場も

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各所マスメディアによって、このショッキングな事件が世間の知るところとなれば批判が集まるのはやむを得ない事由であると言えます。もちろんその定理に漏れず、事件報道後は武力行使に出た同盟が批判されました。

日本各地に部落差別問題が散見されていたこともあり、当事者とその他の人々には溝があったのでしょうか。主張の正当さよりも、結果的には、同盟側のその暴虐な違法行為に注目が集まることとなるのでした。

人に何かを訴えるときに有力なことを紹介している人や書籍の存在は多々ありますが、その中でも暴力や暴言など相手の恐怖心を煽る方法を推奨していることはほぼ無いでしょう。正当なステップは非常に重要なのです。

朝日新聞は全く報じず抗議の電話殺到

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全国各地に拠点を構え、多大な影響力を持っている朝日新聞は中でも非常にアクションが遅く、新聞読者の批判を買いました。このような重大事件を秘匿するのは、マスコミのあるべき姿とはかけ離れています。

当時の新聞読者も同じように感じており、朝日新聞社には当時としては異例な500件を上回るような声が届きます。中には一日を通して苦情や抗議の生の声が届いたこともあり、新聞社はたいそう驚いたようです。

事件から5日たった後ようやく重い腰を上げますが、記事の内容は事実無根な杜撰なものでした。事件から10年後には夕刊にて特集を設け、当時の報道姿勢は圧力ではなくあくまで「自主規制」であると説明しています。

八鹿高等学校生徒自治会は独自で報じた

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そんな大人事情の報道自粛はいざ知らず、解放同盟の傍若無人な振る舞いは事実であると果敢にも声を上げた報道紙がありました。それはなんと、悲劇の舞台となった八鹿高校の生徒会たちでした。

八鹿高校事件がいかに理不尽な行いで、自分たちの身内が傷ついたのかを鮮明に記した会報誌は2編にわたって刊行されました。大人の煮え切らぬ態度にしびれを切らした生徒諸君が、自らの手で真実を知らしめたのです。

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