下関通り魔殺人事件とは?上部康明の生い立ちやその後、犯行動機も紹介

生まれは1964年、下関市の豊浦町というとこで生を受け、その後地元高校までを同市内で過ごしていきます。地元高校は、その地域でも特に高い神学校といわれており、彼はその中でも学年トップクラスだったそうです。

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また、高校卒業後は一浪を経て大学へ進学をし、九州大学工学部建築学科に進むことになります。

後の調べでは彼は高校までは勉強に明け暮れていたために、進学と同時に思い切って遊ぼうと考えていたそうです。

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彼が思い描くような大学生活は送れませんでした。というのも、彼は今回の下関通り魔殺人事件の直接的な原因ともいえる「対人恐怖症」を患っていたのです。

これにより、大学に入学して以降は、みんなが自分のことを嫌っている・避けているという感覚を感じるようになり、うまく人と接することができず暮らしていくこととなってしまいます。

国立大学を卒業するも対人恐怖症が理由で入院

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そんな病気に侵されながらも、彼は苦しみながら生活は続けていきます。この病気にさいなまれてすぐに下関通り魔殺人事件が発生したわけではないのです。

彼は病気におびえながらも、何とか大学を卒業に至りました。しかし、その後の生活は順調いえるものではありませんでした。彼はこの病気が原因で人間が嫌いになり、就職をしなかったのです。

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そして、就職ができなかったその姿を見た両親は1987年、彼をとうとう病院に入れることにするのでした。森田療法と呼ばれる当時では最先端を行く日本人が考案した精神医療で治療を考えたのです。

この治療法は、海外の物とは違って不安を解消させるというものではなく、不安を乗り越えさせるという方法だそうです。

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そうした一連の治療により、一時期は入院も行われ、専門的な医療行為が行われることとなりました。しかし病気の完治には至らなかったといわれています。

そうして、完治が行われないながらも、彼も仕事を見つけ前に進もうとします。彼も就職し働くようになっていくのです。しかし、対人恐怖症による症状は彼の生活を苦しめるものでした。

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そうして、いくつかの転職を繰り返す彼ですが、やっと安心して働くことのできる仕事場を発見します。それが福岡市内にあった設計事務所でした。ここは、所長と自分の二人だけの職場。

病気の症状も緩和され人間関係に大きく悩む問題もなく働ける環境が整っていたのです。この時には、症状も落ち着いてかなり安定した生活を行えていたと言います。

いくつかの職場を経て設計事務所を立ち上げた上部康明

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病気を患いながらも、やっとの思いで心の安寧を保ちながら働ける環境を手に入れた彼。そうして、彼も一つの決心をするようになります。それが自分の設計事務所を立ち上げることです。

彼はこれまでいくつかの職場を転々としていましたが、やっと落ち着ける場所は福岡市内の設計事務所でした。

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そこでは症状が発症することもなく働くことができ、そのおかげで一級建築士の資格取得を行えるほどでした。そして、それを気に、自信の事務所を独立開業しようと決心するのです。

彼は1992年に勤めていた設計事務所を退社し、その後父親からの支援などを受け取って独立を果たします。康明設計という自信の設計事務所を作るのです。

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また、それと同時期に1993年には結婚も行っています。結婚相談所にて知り合った女性と結婚し福岡市内にて、幸せな家庭を作り生活をしていたのです。

妻は保母をしていましたが、夫である上部康明をサポートするため二級建築士の資格を取得。仕事も家庭も幸せに順調に続いていくように見えていたのです。

営業不振になり事務所は閉鎖!妻とは離婚することに

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結婚と独立開業により、誰もが幸せな生活を過ごしていけると感じ始めたころ、事態は急展開を迎えます。そして、下関通り魔殺人事件の序章がここから始まったと考えられます。

彼の仕事がうまくいき始めた最中、1997年ごろから徐々に人と接する機会の増えたことにより、今まで落ち着いていた症状が再び再発するようになったのです。

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この結果、精神的な不安定な状態が続きとうとう営業不振にまで陥ることとなります。その後というものは、妻の稼ぎや実家からの仕送りで生活をしている棟暮らしぶりで全く仕事が手につかなかったそうです。

そんな状況の中、1998年にはとうとう営業不振がたたり事務所閉鎖に追い込まれます。しかし、いつまでも苦しんでばかりはいられないということで、新しく仕事も始めようとします。

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彼は、かつて新婚旅行で訪れたニュージーランドへの移住を考え、その資金作りに1999年には実家に戻り、軽貨物輸送の事業をフランチャイズで始めることにしました。

ただし、これが結果的には良くありませんでした。車を用意して仕事を始めた彼でしたが、妻を福岡市に置いて実家に戻ってしまったのです。

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そのことがきっかけで、妻はニュージーランドに単身で行ってしまいます。二人はこの大きくすれ違いによって、最終的には離婚となってしまいます。

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