下関通り魔殺人事件とは?上部康明の生い立ちやその後、犯行動機も紹介

下関通り魔殺人事件とは、1999年に起きた無差別殺傷事件。自暴自棄になっていた犯人・上部康明が車で駅へと突っ込み、刃物で次々と人を斬りつけたおぞましい事件です。今回は下関通り魔殺人事件の当日や上部康明の生い立ち、その後や犯行動機など紹介します。

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「下関通り魔殺人事件」とはどんな事件?

下関通り魔殺人事件と聞くと過去に起きた凄惨な内容を思い出す人は多いかもしれませんが、近年の凶悪事件を聴くとこの出来事を思い出す人も少なくないでしょう。

今回の記事では一体どのような事件だったのか、これまで聞いたことがない人も含めて詳細な内容について調べていきましょう。下関通り魔殺人事件が発生したのは1999年9月29日のこと。

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山口県下関市における下関駅で突如として起こりました。犯行を起こしたものの名は上部康明、福岡市在中の男性でした。

彼は人間関係のもつれや災難から何か社会に影響を与えて死んでやりたいと考えるようになり犯行及んだそうです。また、犯行は下関通り魔殺人事件が起こる3週間前に行われた池袋通り魔殺人事件を意識したものといわれてもいます。

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さらに、今回の下関通り魔殺人事件によって被害に会った人は複数に及び、駅構内で何の罪もない人が下関通り魔殺人事件とは、1999年に起きた無差別殺傷事件。自暴自棄になっていた犯人犠牲になった大変痛ましい内容でした。

しかし、そういった被害にも関わらず、裁判では賠償金が支払われる際に、被害にあった方の殺害方法によって支払われる額が異なるといった問題も追及され、当時大変大きな波紋を呼びました。

山口県下関市で起きた通り魔事件の「下関通り魔殺人事件」

今回の通り魔殺人事件が起きたのは1999年、下関市の下関駅というところで発生しました。位置としては、山口県で本州の最西端に位置する都市になります。

現在も含め漁港で賑わっており、昔には西の玄関ともいわれるほどの大変貿易で盛栄を飾る都市になります。そして、事件発生は、下関市内の下関駅というところで発生します。

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JRが通るこの下関駅では、事件発生時時刻午後4時ごろで、人々が帰宅を始める時間帯であり、通行量もある程度あった井寒台だといわれています。

そのような人の往来の激しい時間帯と場所でこの凄惨な殺人が発生したのです。下関通り魔殺人事件では、全く犯人とかかわりのない、駅行く人が亡くなるという凄惨な内容だったのです。

下関通り魔殺人事件で5人が死亡・10人に重軽傷を負うことに

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下関通り魔殺人事件の発生時刻は、先ほども言ったように午後4時という人々の往来が激しい時間だったこともあり、数多くの被害者が生まれることとなってしまいました。

被害者の人数は合わせて15人で、内死亡は5人、重軽傷は10人といわれています。サラリーマンや学生などが行き来する中を、何と犯人は車で乗り入れて次々に道行く人を跳ねたというのです。

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その時点で通行人の犠牲は7人にも及んでいたそうです。そして、その後改札口付近で停車後は、包丁を手に取って次々に切り付けていきます。ホームに行く最中で1人、ホームで7人を切り付ける騒ぎとなりました。

もちろん、犯人はその場で現行犯逮捕となりますが、見境なく道行く人を襲った凄惨な事件として、当時多くの人の記憶にの起こる形となりました。

下関通り魔殺人事件について時系列順に紹介

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下関通り魔殺人事件は、その時刻故に人通りの多い時間帯で多くの犠牲を出したことで有名ですが、その犯行内容など時系列順で詳細に見ていきましょう。

犯行はまず車で不自然な車が駅に突入するところから始まります。駅のホーム内に進入してきた時点で、すでに帰宅途中の学生やサラリーマン、主婦など多数の人があふれていました。

その道行く人の中を一台の乗用車が暴走して突入してきたのです。駅構内の窓ガラスを割り、その車は突入後60メートルにも及ぶ距離を猛スピードで走り抜けると改札口付近で停車。

その後車を降りた彼は包丁を手に往来の人を傷つけていきます。そしてその後、現場を見ていた人によって通報され、現行犯逮捕という形で下関通り魔殺人事件は幕を閉じます。

車に乗った上部康明は猛スピードで駅の窓ガラスを突き破る

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順番に下関通り魔殺人事件の詳細なポイントを確認していきましょう。まず犯行冒頭で行われたのは車によるものでした。上部康明は乗用車に乗り駅内に突撃してきたのです。

突如として窓ガラスが割られ現場は騒然としていたといわれています。その後乗用車は暴走し、猛スピードを駅構内を走り抜けます。その間、駅を行く人を7人ほど敷き巻き込んでいったといわれています。

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そして、駅に進入後60メートルほど走行した時点で停車。そこは改札口付近だったといわれています。車での侵入幅が足りないと見た彼は、そこで車を降りさらに悪行を行います。

車を降りた上部康明!文化包丁を振り回し8人を切りつける

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車を降りた上部康明が手に取って物は包丁でした。刃渡り18センチにも及ぶ文化包丁を出した彼は、車を降りると駅のホームに向かっていったといわれています。

そのホームに向かう間に一人包丁による犠牲者が出ます。振りまわりながら駅のホームに向かう上部康明ですが、ホームに到着するとそこでも凶行に及びます。

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通り魔的犯行に及び、ホームを行く人7人を切り付けて回るのです。駅構内に犯人が突入して、まだ数分の出来事だったそうですが、この時点ですでに15人の被害者が生まれており、ことの大きさが分かります。

ホームで現行犯逮捕され下関通り魔殺人事件は幕を閉じた

駅ホームで包丁を握り振り回す彼に、当然警察も動きます。犯人の凶行を目撃した人からの通報で、警察が現場まで訪れてくれたのです。

そうして、犯人上部康明は警察の手によって現行犯逮捕で駅ホームで捕まえられることとなります。下関通り魔殺人事件は不審車が突入して、わずか5分間の出来事でした。

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最終的な被害者は、死亡者5人と重軽傷者10人というひどい形で幕を閉じることとなります。当時、駅にいる人はもちろんこの殺人を聴いた人達にとっても大変衝撃的な通り魔殺人事件となりました。

下関通り魔殺人事件の犯人・上部康明の生い立ち

凄惨な結果となった今回の下関通り魔殺人事件。これを起こした上部康明という犯人ですが、どうやら調べを進める中で彼の境遇や生い立ちが今回の事件と関わっていること判明しました。

両親共に教師の家庭!進学校へ通っていた上部康明

彼の生い立ちについて調べていくと、彼の起こした下関通り魔殺人事件のより詳細が見えてきます。彼の両親は教師であり、その二人の子として生まれてきました。また、妹も一人いたようです。

生まれは1964年、下関市の豊浦町というとこで生を受け、その後地元高校までを同市内で過ごしていきます。地元高校は、その地域でも特に高い神学校といわれており、彼はその中でも学年トップクラスだったそうです。

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また、高校卒業後は一浪を経て大学へ進学をし、九州大学工学部建築学科に進むことになります。

後の調べでは彼は高校までは勉強に明け暮れていたために、進学と同時に思い切って遊ぼうと考えていたそうです。

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彼が思い描くような大学生活は送れませんでした。というのも、彼は今回の下関通り魔殺人事件の直接的な原因ともいえる「対人恐怖症」を患っていたのです。

これにより、大学に入学して以降は、みんなが自分のことを嫌っている・避けているという感覚を感じるようになり、うまく人と接することができず暮らしていくこととなってしまいます。

国立大学を卒業するも対人恐怖症が理由で入院

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そんな病気に侵されながらも、彼は苦しみながら生活は続けていきます。この病気にさいなまれてすぐに下関通り魔殺人事件が発生したわけではないのです。

彼は病気におびえながらも、何とか大学を卒業に至りました。しかし、その後の生活は順調いえるものではありませんでした。彼はこの病気が原因で人間が嫌いになり、就職をしなかったのです。

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そして、就職ができなかったその姿を見た両親は1987年、彼をとうとう病院に入れることにするのでした。森田療法と呼ばれる当時では最先端を行く日本人が考案した精神医療で治療を考えたのです。

この治療法は、海外の物とは違って不安を解消させるというものではなく、不安を乗り越えさせるという方法だそうです。

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そうした一連の治療により、一時期は入院も行われ、専門的な医療行為が行われることとなりました。しかし病気の完治には至らなかったといわれています。

そうして、完治が行われないながらも、彼も仕事を見つけ前に進もうとします。彼も就職し働くようになっていくのです。しかし、対人恐怖症による症状は彼の生活を苦しめるものでした。

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そうして、いくつかの転職を繰り返す彼ですが、やっと安心して働くことのできる仕事場を発見します。それが福岡市内にあった設計事務所でした。ここは、所長と自分の二人だけの職場。

病気の症状も緩和され人間関係に大きく悩む問題もなく働ける環境が整っていたのです。この時には、症状も落ち着いてかなり安定した生活を行えていたと言います。

いくつかの職場を経て設計事務所を立ち上げた上部康明

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病気を患いながらも、やっとの思いで心の安寧を保ちながら働ける環境を手に入れた彼。そうして、彼も一つの決心をするようになります。それが自分の設計事務所を立ち上げることです。

彼はこれまでいくつかの職場を転々としていましたが、やっと落ち着ける場所は福岡市内の設計事務所でした。

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そこでは症状が発症することもなく働くことができ、そのおかげで一級建築士の資格取得を行えるほどでした。そして、それを気に、自信の事務所を独立開業しようと決心するのです。

彼は1992年に勤めていた設計事務所を退社し、その後父親からの支援などを受け取って独立を果たします。康明設計という自信の設計事務所を作るのです。

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また、それと同時期に1993年には結婚も行っています。結婚相談所にて知り合った女性と結婚し福岡市内にて、幸せな家庭を作り生活をしていたのです。

妻は保母をしていましたが、夫である上部康明をサポートするため二級建築士の資格を取得。仕事も家庭も幸せに順調に続いていくように見えていたのです。

営業不振になり事務所は閉鎖!妻とは離婚することに

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結婚と独立開業により、誰もが幸せな生活を過ごしていけると感じ始めたころ、事態は急展開を迎えます。そして、下関通り魔殺人事件の序章がここから始まったと考えられます。

彼の仕事がうまくいき始めた最中、1997年ごろから徐々に人と接する機会の増えたことにより、今まで落ち着いていた症状が再び再発するようになったのです。

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この結果、精神的な不安定な状態が続きとうとう営業不振にまで陥ることとなります。その後というものは、妻の稼ぎや実家からの仕送りで生活をしている棟暮らしぶりで全く仕事が手につかなかったそうです。

そんな状況の中、1998年にはとうとう営業不振がたたり事務所閉鎖に追い込まれます。しかし、いつまでも苦しんでばかりはいられないということで、新しく仕事も始めようとします。

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彼は、かつて新婚旅行で訪れたニュージーランドへの移住を考え、その資金作りに1999年には実家に戻り、軽貨物輸送の事業をフランチャイズで始めることにしました。

ただし、これが結果的には良くありませんでした。車を用意して仕事を始めた彼でしたが、妻を福岡市に置いて実家に戻ってしまったのです。

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そのことがきっかけで、妻はニュージーランドに単身で行ってしまいます。二人はこの大きくすれ違いによって、最終的には離婚となってしまいます。

上部康明は新たなビジネスも失敗して行き詰っていた

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もともと病気で生活の苦しい中、しかし何とかして新規ビジネスに手を出して精を出していた彼でしたが、妻との離婚によりさらに歯車が狂い始めます。何と新規ビジネスすらも失敗してしまうのです。

彼は離婚後も、単身でニュージーランドでの生活を夢見て一生懸命仕事をしていました。しかし1999年7月の台風18号によって、仕事で使用していた車が水没してしまうのです。

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これにより車は故障。その結果購入費用のローンだけが降りかかり苦しい生活を強いられることとなります。結果、仕事もうまく回らなくなっていってしまうのです。

それでも、せめて新天地で働きたいと考えたのか、海外への移住費用として、同居の父親に30万円ほどお金が借りられないかと打診したところ、しかしこちらも拒否されてしまいます。

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父親からは、車を貸す代わりに仕事をして自分でローンを返すようにとのことでした。しかし、すでに上部康明には公私ともに絶望的な状況であり、すでに人生に行き詰ってしまっていたのです。

下関通り魔殺人事件の上部康明を苦しめた対人恐怖症とは?

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彼がどういった人生を歩んで下関通り魔殺人事件を引き起こしたのか、その一部始終を知ることでどれほど行き詰っていたかを知ることができたと思います。

では、そんな彼の人生が狂い始めた原点ともいえる対人恐怖症とはいかなるものなのでしょうか。人生を苦しめるその病について焦点をあててみましょう。

対人恐怖症とは“他人にどう思われているのか”と不安になる状態

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下関通り魔事件にも間接的に関与した対人恐怖症。この症状は人を前にしたときに、必要以上に不安を感じたりあるいは緊張したりしてしまうことに原因をもつ症状です。

嫌がられているのでは不快にさせてしまったのでは必要以上に考えることで、異常なほど他人と距離を置いてしまう神経症状のことを言います。他人にどう思われているのか不安になる状態が引き起こさせます。

自分の見た目や、放った言葉、匂いや体型など事細かに至る部分まで他人が不快に思う要素なのではと不安に思い、この恐怖によって相手と必要以上の距離を取ってしまうので、対人関係に支障をきたすのです。

また、この病気には具体的な症状もあり、例えば極度の緊張から大量の発汗や他人からの視線に恐怖を覚える視線恐怖症のような別の精神症状を引き起こすこともあります。

上部康明はパーソナリティ障害も併発していた

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下関通り魔殺人事件の実行者である男性は、こちらの病気も患っていたと考えられています。そして、下関通り魔殺人事件にも間接的に関与しているともいわれています。

この病気は、人の怒りや拒絶、不振といった振る舞いに対して異常な反応を示し、それを湾曲して受け止める傾向にあるので、人間関係において相手をなかなか信用できない傾向になるそうです。

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先述の病気もありますが、この病気によって、より周囲の人を信用できない状態になり、それ故に人間関係を築けないことにつながるのです。

下関通り魔殺人事件はこういった病気から彼を形成してしまった末に起きた悲しき出来事ともいえるわけです。

下関通り魔殺人事件の犯行動機と事件を起こすまでの行動

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道行く人を分別なく襲い掛かった下関通り魔殺人事件ですが、しかし犯人がこういった行動に及んだ理由は何なのでしょうか。どういった理由から下関通り魔殺人事件が引き起こされたのか探っていきます。

また、下関通り魔殺人事件が起きるまでの犯人の行動にも焦点を当てて、なぜこのような事件が起きてしまったのかを探っていきましょう。

営んでいた事業が廃業?自暴自棄になっていた上部康明

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下関通り魔殺人事件が引き起こされることになった一番の犯行動機ともいえるものが、彼自身が営んでいた事業の廃業です。彼はもともと転々と仕事を変えていました。

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