高峰三枝子は歌う映画女優の先駆け!代表作は?息子は逮捕?死因は?

高峰三枝子とは歌う映画女優と言われた昭和の女優で、歌手としても大ヒットしました。私生活では実業家の鈴木健之と結婚しましたが、その後離婚し息子も逮捕されるという波乱の人生を送りました。この記事では、高峰三枝子の経歴や代表作、息子や夫との関係、死因などについて詳しくまとめました。

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高峰三枝子とは?歌う映画女優と呼ばれた昭和の大女優

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高峰三枝子は昭和の時代に大活躍した「歌う映画女優」です。

1936年(昭和11年)に映画デビュー、映画の中で口ずさんだ歌が評判になって歌手としてもデビュー、それから声帯に変調をきたした一時期を除いて、女優兼歌手として活躍を続けてきました。

しかし彼女は1990年(平成2年)に自宅で倒れ、入院して一時は回復に向かったものの、時代の変わり目を見届けたかのように、亡くなってしまいました。死因は脳梗塞です。

高峰三枝子とはどんな女優だったの?

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高峰三枝子は昭和の時代を代表する大女優です。彼女は歌手として何枚ものレコードも出していて、「歌う映画女優」として大活躍しました。

しかし家庭的にはトラブルの連続で、大変な人生でした。彼女は昭和が終わり平成の時代に入って間もなく、この世を去っています。

生まれは大正時代ですが、昭和の時代を目いっぱい生き抜いた人生でした。

高峰三枝子のプロフィール

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高峰三枝子は、1918年(大正7年)12月2日に東京で生まれました。1936年(昭和11年)に松竹へ入社し、同年「母を尋ねて」で映画デビューをします。

その後、コロンビアが歌手として彼女をスカウト。女優業のかたわら歌手活動を続け「歌う映画女優」として有名になります。

女優としても歌手としても一流だった

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彼女は18歳で映画デビューし、またたく間にスターダムを駆け上がり人気女優になりました。

そして翌年の1937年(昭和12年)年末に公開された「浅草の灯」の劇中歌をきっかけに、歌手としての活動も開始します。

彼女は、女優としても歌手としても一流でした。1985年(昭和60年)紫綬褒章を受章し、1990年(平成2年)の没後に勲四等宝冠章が贈られました。

鈴木健之と結婚するも離婚

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彼女は、1946年(昭和21年)実業家の鈴木健之と結婚しました。この結婚で、一人息子を授かったのですが、夫婦仲は円満とは行かなくて、1954年(昭和29年)には夫と離婚してしまいます。

息子は覚せい剤や交通事故で逮捕された

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夫と離婚した後、親権を得て一人息子を必死になって育て上げた彼女ですが、息子の清貴もいろいろとトラブルを起こします。

18歳のときには車を乗り回して交通事故を起こしてしまいます。そのときは示談で済ますことができたのですが、1977年(昭和52年)28歳のとき、覚醒剤の売買に関わってとうとう逮捕されてしまいました。

高峰三枝子は1990年に脳梗塞が死因で亡くなる

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夫のことや息子のことでいろいろと苦労しながらも、女優として歌手として、第一線で活躍を続けてきた彼女ですが、平成へ時代が移って間もなくの1990年(平成2年)、自宅で倒れて緊急入院します。

一時は意識が回復したのですが、その後再び容態が悪化して、遂に帰らぬ人となりました。死因は脳梗塞です。

高峰三枝子の生い立ち・経歴は?

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高峰三枝子は1918年(大正7年)12月2日、東京に生まれました。父親は高峰筑風(ちくふう)といい、高峰流筑前琵琶の宗家として、明治から昭和初期にかけて活躍した人です。

彼女は何不自由のない環境で、お嬢さんとして育った人です。

それにもかかわらず、彼女は若くして映画界にデビューして大スターになりました。それにはやむを得ない事情があったのです。

高峰三枝子のデビューは18歳

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彼女が高等女学校(東洋英和女学院)を卒業した1936年(昭和11年)に、父親が急死してしまいました。

突然一家を養う立場になった彼女は、周囲の勧めもあって18歳で映画界入りを決意し、帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社しました。

彼女は同年に公開された映画「母を尋ねて」ですぐに女優としてデビューすることになります。

婚約三羽烏で人気女優に

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彼女の気品のある美貌は、たちまち当時の映画ファンの人気を集めました。

そのためデビューの翌年の1937年(昭和12年)に公開された「婚約三羽鳥」という映画では、上原謙・佐野周二・佐分利信といった当時の二枚目俳優3人(松竹三羽鳥)を相手に、早くもマドンナ役を演じました。

デビューした翌年には、人気女優としての地歩を固めてしまったのです。

「浅草の灯」が話題になり歌手デビュー

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彼女は1937年(昭和12年)の年末に公開された「浅草の灯」という映画に出演しました。この映画は大正時代、1923年(大正12年)の関東大震災以前に盛んだった「浅草オペラ」を巡る青春群像劇です。

この映画の中の彼女の役は新人のコーラスガールでした。そのため劇中で彼女が歌を歌うシーンがあるのですが、これが話題になりました。

そしてコロムビアがレコード歌手として、彼女をスカウトしたのです。こうして、彼女は映画女優として活動を続けると同時に、歌手としても活動を始めることになりました。

当時の首相・東条英機も高峰三枝子のファンだった

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こうして、彼女は歌手としてもデビューすることになりました。彼女はたくさんのヒット曲を歌うことになるのですが、中でも有名なのは1940年に発表された「湖畔の宿」です。

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