左卜全とは?七人の侍に出演?老人と子供のポルカの歌詞の意味や死因も

左卜全とは七人の侍に出演するなど、俳優として有名です。老人と子供のポルカでレコードデビューもしています。左卜全は妻が新興宗教の開祖であり、彼女にギャラをすべて渡していたそうです。この記事ではそんな彼の経歴や死因について紹介していきます。

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左卜全とは?老人と子供のポルカで有名な俳優

彼は、コミカルな老人の役をやったら超一流の役者でした。特に酔っぱらいの演技は素晴らしく、あの黒澤明監督の作品にも7本出演しました。また、76歳で始めて吹き込んだ曲が大ヒットになりました。

この記事では、変人といわれる彼の型破りな生き方とキャリアについて、紹介します。

左卜全とはどんな人物だったの?

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そもそも彼は、なぜ名優・名脇役・変人と呼ばれるようになったのでしょうか?ここでは彼の生まれから俳優になった後の生き方まで、ひと通り追いかけてみます。

左卜全とは①左卜全のプロフィール

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彼は1894年2月20日に、埼玉県で生まれました。本名は三ヶ島一郎です。父親は小学校の校長でした。

小学校入学後間もなく、親の転勤で東京に移り、そこで育ちます。高等小学校を卒業後は、さまざまな仕事をしながら中学校にしばらくの間通いますが、結局中退しました。

左卜全とは②左卜全は変人俳優として有名だった

紆余曲折の末に、彼は老け役専門のコメディアンとして活躍するようになります。第二次世界大戦後は映画にも出演し、超一流のバイプレーヤーとして重宝されました。黒澤明監督の作品にも出演しています。

彼と同じように、高い評価を受けている昭和の俳優として、高峰三枝子と乙羽信子を取り上げます。

身体障害者となった後もそれを感じさせない暮らしぶり

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彼は、41歳のときに病気で片脚が不自由になりました。

普段の生活では松葉杖を使っていたものの、世間から身体障害者を装っていると噂されるほど普通に暮らしました。

左卜全とは③左卜全は老人と子供のポルカでレコードデビューした

変人のバイプレーヤーとして知られる彼ですが、76歳で歌手デビューをします。老人と子供のポルカです。

奇妙な歌詞のこの曲は大ヒットを飛ばし、彼は世間の注目の的になりました。

左卜全とは④妻は新興宗教の開祖だが夫婦仲は円満だった

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彼は52歳のときに結婚しました。相手は母方の遠い親戚で、当時37歳です。

夫人は結婚後に新興宗教の開祖になります。ただし信徒は自分の夫(つまり左卜全)一人でした。彼は自分のギャラのすべてを開祖(つまり妻)に寄付していました。

奥さんは撮影所に出かける彼に常に付き添い、彼を献身的に支えました。撮影所で二人でお祈りする姿も目撃されています。

左卜全は芸能界きっての変人と呼ばれた

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彼は貴重なバイプレーヤーとして、大活躍しました。

しかしプライベートでは不思議な言動が多く、業界では変人ぶりが有名でした。ここではその一例を紹介します。

左卜全は薬草を楽屋に干していた

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彼は、いつも薬草を楽屋に干していました。そして不老長寿の霊薬と称する飲み物を入れた水筒を首から下げて、いつも飲んでいました。

ある人が興味を持ってこっそりと飲んでみると、中身は普通のコーヒーだったそうです。

普段は松葉杖なのに急ぐ時は松葉杖を抱えて走っていた

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彼は片脚が悪いため、撮影所の内部では常に松葉杖を使っていました。

しかし、バスに乗り遅れないようにある人が彼と走った時、彼は松葉杖を小脇に抱えて、凄いスピードで走って、その人を追い越しました。

身体障害者を装っているといわれたこともある

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このような左卜全なので、彼は身体障害者のふりをしているだけ、という噂が流れていました。

しかし彼は41歳の時の病気が原因で、歩くと左脚に激痛が走るようになっていました。本当に脚が不自由だったのです。障害者手帳も持っていました。

噂に憤慨していた奥さんに彼は、そういう噂があるから逆に助かる、役者が持病で同情されたら職業上致命的、と笑って諭したそうです。

左卜全はいつもよれよれのモンペがトレードマークだった

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彼は服装に構わない人でした。着たきりが基本で服はあまり新調しませんでした。夢で神からお告げがあったと、晴れた日に傘と雨合羽姿で現れたこともあります。

撮影所の中ではよれよれのモンペ姿がトレードマークでした。いつも俳優仲間と離れて過ごしていたので、周囲が忘れることも多かったです。

左卜全の経歴や死因は?

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変人として有名な左卜全ですが、彼の経歴も型破りです。超遅咲きの人生でした。

左卜全の経歴①氷川神社の神官の家系に生まれる

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彼は1984年2月20日に埼玉県で誕生しました。本名は三ヶ島一郎で、父親は小学校の校長です。しかし祖父の代で分家するまでは、同じ埼玉県にある氷川神社の神官を代々務めていました。

8歳のときに父親の転勤で東京へ移ります。10歳で丁稚奉公に出た後、高等小学校に入学します。慌ただしい子供時代を過ごしたようです。

異母姉は歌人の三ヶ島葭子

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彼には、父親の先妻との間に生まれた異母姉がいます。彼女は三ヶ島葭子といい、歌人として有名です。

与謝野晶子の門下として、将来を嘱望された時代もあります。しかし残念なことに、40歳で脳卒中により亡くなりました。

左卜全の経歴②高等小学校卒業後は舞踏家を目指す

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高等科を出た後、彼はさまざまな仕事を転々とします。その合間に中学校にも通っていましたが、短期間で退学します。

1909年には帝劇歌劇部に合格し、歌やダンスの訓練を受けます。1914年喜歌劇ブン大将のコーラス・ボーイとして初舞台を踏みます。

当時の彼はダンサーになることが夢でした。しかし帝劇洋劇部が1916年に解散したため、夢を諦めます。

活動の場を広げる

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その後彼は俳優として、小さな劇団を転々としながら活動します。1920年には関西に移って剣劇を中心の新声劇に参加します。

1926年には「松旭斎天華一座」に入り、三ヶ島天晴の芸名で活躍します。この一座の活動範囲は広く、地元関西の他、満州や中国にまで巡業に出ることもありました。

左卜全の経歴③喜劇俳優としてデビュー

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彼は東京に戻り、経営者の佐々木千里に誘われてムーランルージュ新宿座に加わります。

入団後、彼は「左卜全」と名乗るようになります。左は左甚五郎、卜は塚原卜伝から取り、全は丹下作善の善を全に変えたものが名前の由来です。

ムーランルージュ新宿座で、彼は老け役専門コメディアンとしての才能を開花させます。そして舞台を見た関係者にスカウトされて、松竹の移動演劇隊に移ります。

​左卜全の経歴④突発性脱疽を患い松葉杖が必要な体に

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この頃から彼は左脚に激しい痛みを感じるようになり、突発性脱疽と診断されます。この病気では患部が壊死を起こす可能性があるので、医者は脚の切断を勧めます。

しかし役者を天職と信じる彼は切断を拒み、脱疽の痛みと共存する道を選びます。それでも左足の親指の第一間接より先は、切断してしまいました。

左卜全の経歴⑤52歳で小暮糸と結婚

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1946年、彼は母方の遠い親戚に当たる小暮糸と結婚しました。このとき新郎は52歳、新婦は37歳です。

この頃、ムーランルージュ新宿座で彼を高く評価した、台本作家の小崎正房を座長とする「劇団空気座」が発足し、彼もその役者として活躍します。

左卜全の経歴⑥55歳で映画デビュー

空気座は3年ほど活動して、解散します。彼は小崎の紹介である映画スタジオに入り、1949年に55歳で銀幕デビューします。

その後の彼はどこにも所属せず、フリーで活動します。業界内では私生活の変人ぶりと共に、彼の演技力の高さが評判になりました。

左卜全の経歴⑦76歳で歌手デビュー

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役者一本でキャリアを築いて来た彼ですが、終わり近くの76歳になって、歌の仕事が舞い込みます。老人と子供のポルカです。

この曲は大ヒットして、彼は一躍お茶の間の人気者になります。その結果、2曲目の拝啓天照さーんも収録されますが、直後に彼が亡くなり、販売は一時中止になります。(後にCDとして発売されます。)

左卜全の経歴⑧死因はガンで妻が看取った

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老人と子供のポルカの大ヒットの翌年、彼はガンで亡くなります。77歳でした。奥さんの呼びかけに、はいと小さく応えたのが彼の最後の言葉だったそうです。

彼の葬儀にはこの曲で共演した子供達も参列し、この曲の大合唱で彼をあの世へ送ったそうです。

左卜全の俳優としての活動

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彼は生涯を通じて、演じることに執着しました。しかし前半生の舞台俳優時代としての活動は、全体を把握できません。

ここでは50代以降の映画やテレビ番組の時代について、述べることにします。一見自然体に見える優れた演技力で、彼はこちらの方面でも、バイプレーヤーとして売れっ子になりました。

左卜全は黒澤明監督の映画に7本出演した

中でも特筆すべきことは、あの「七人の侍」をはじめ、黒澤明監督の映画に7本も出演したことです。

それは「醜聞」「白痴」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「どん底」「赤ひげ」の7本です。

彼の最初の映画を見て、黒澤監督が「醜聞」に起用したのです。チョイ役でしたが演技は高く評価され、黒澤映画の脇役の常連になりました。

七人の侍と左卜全

黒澤明監督の代表作のひとつに七人の侍があります。ハリウッドでもリメイクされて荒野の七人が作られるほど、世界に強い印象を与えた大作です。

七人の侍には左卜全も出演していて、印象深い演技を見せています。

彼は七人の侍の撮影の際も変人ぶりを発揮し、その一徹な演技には巨匠クロサワも手を焼いたそうです。それでも黒澤監督は、彼の演技力を高く評価して、七人の侍を含む合計で7本の作品に出演を依頼します。

七人の侍のあらすじ

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戦国時代のある農村が舞台です。麦が実ると同時に野武士の集団が村を襲うという情報を知った百姓のグループは、腹いっぱい白米を食べさせることを条件に、助力してくれる侍を探しに出ます。

侍探しは難航しますが、結局リーダー格の勘兵衛以下菊千代までの、七人の侍が集まります。やがて麦が実り、激しい戦いが始まります…

七人の侍の超大まかなあらずじは、以上の通りです。

七人の侍での左卜全の役割

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左卜全が七人の侍で演じたのは、与平という中年の百姓です。意気地のない間の抜けた人間ですが、三船敏郎が演じる菊千代となぜか親しくなります。

与平は野武士との戦いの際、菊千代が持ち場を離れたことで、背後から襲われて亡くなります。与平の死をきっかけに菊千代は態度を変化させて、決死の働きを見せます。

左卜全は七人の侍で黒澤監督を出し抜いた?

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左卜全は、演技の面でもマイペースを貫く人でした。七人の侍の撮影の際にも彼の変人ぶりはいかんなく発揮されています。

完成版からは削除されているシーンの中に、村人達が野武士に襲われて燃える村を呆然と見ている場面があります。ここで黒澤監督は彼に泣くように指示しました。

しかし彼は何度繰り返しても笑いだすため、黒澤監督はそのシーンを諦めました。七人の侍に関して何故泣かなかったのかと後に質問された彼は、人間、悲しみを超越すると笑うのさ、と答えました。

七人の侍の欠点?

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七人の侍には、ひとつの欠点があります。俳優のせりふがわかりにくいというものです。左卜全のせりふも、意味不明に聞こえる部分がいくつかあります。

幸いなことに、最近この作品は4Kデジタルリマスター版が作られました。これによって画像が鮮やかになったと同時に、せりふの聞き取りづらさもかなり改善されました。

これからこの作品を鑑賞する人は、デジタル・リマスター版を見るようにすることをお勧めします。

左卜全の出演映画作品

彼が生涯の間に出演した映画の本数は、上記の7本の黒澤明作品も含め、なんと150本を超えています。出演したのが、登場場面の多くない脇役に限られていることにも、関係あるかもしれません。

それでも彼は、自らの出演シーンのひとつひとつに心血を注いで演じ続けたのです。

左卜全の出演テレビドラマ・テレビ番組

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彼が出演したテレビドラマは、映画に比べると大変少ないです。彼のキャラクターはテレビドラマに合致すると思われるので、意外です。しかし全部で20本近くのドラマで何かの役を演じています。

いくつかのバラエティ番組にも登場しています。中でも1969年の第20回NHK紅白歌合戦にゲスト出演したことには、注目すべきでしょう。

「老人と子供のポルカ」で歌手デビューし大ヒット!

左卜全を76歳という高齢で有名にしたのは「老人と子供のポルカ」という曲です。彼にとって、これが歌手としてのデビュー曲に相当します。

この曲は、1969年に皆川おさむ(当時6歳)が歌う「黒猫のタンゴ」が大ヒットしたことで、「逆に老人が歌ってもよいだろう」という、あるプロデューサーの発想から生まれた曲でした。

当初この曲は、経済エコノミストの小汀利得(おばま としえ)を歌手として想定して作られていましたが、本人に断られてしまったため、左卜全に白羽の矢が立ったという経緯があります。

左卜全の老人と子供のポルカは40万枚の大ヒットになった

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彼が歌うことになった「老人と子供のポルカ」は、1970年2月に当時の日本グラモフォン(現ユニバーサル・ミュージック)から発売されました。

この曲は主婦や小学生を中心とした聴衆に強い印象を残し、40万枚を超える売上を記録する大ヒットになりました。

左卜全はひまわりキティーズと共に老人と子供のポルカを歌った

この曲が大ヒットになったのは、76歳の彼と5人の女子小学生の声やリズムの微妙なミスマッチが何ともユーモラスだったためです。

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