樋田は車で会社を出てその時にたまたま見かけた犬と共に散歩をしている「鈴鹿市ベルシティ事件」の被害者である女子中学3年生Aさん。
わいせつ目的に乱暴をしてやろうと計画。背後から自家用車の4輪駆動車にて背後から、はねます。
思いのほか重症だったので車でひき殺すことを決意
乱暴しようと思い近づくが思いのほか、怪我がひどく断念します。この事が公になることを危惧した樋田康則は更に再度車をバックさせて被害者Aさんを轢き殺します。
この行為がのちに残虐性身勝手な事件として「鈴鹿市ベルシティ事件」と呼ばれます。
死体を運びだして遺体の手足をノコギリで切断
殺害し遺体となった「鈴鹿市ベルシティ事件」の思わぬ被害者となったAさんを亀山市安坂山町の石水溪まで運んだ。
その現場において樋田は臆することなく、ノコギリで両手両足を切断。両腕は上腕部から切断、両足は太ももから切断しました。
胴体と手足を別々のビニール袋に入れて捨てることに
「鈴鹿市ベルシティ事件」の被害者Aさんの胴体と手足を別々の 黒ビニール袋に入れ、伊賀町の鴨山池に沈めます。
池に沈める胴体部分のみ浮かんできたため友人に協力を仰ぐ
鈴鹿市ベルシティ事件の被害者Aさんの遺棄を沈めたものの、一週間後に胴体が浮かび上がる為、「沈めた犬の死骸が浮いてくるので薄気味悪い。手伝ってほしい。」知人に協力を仰ぎます。
被害者の遺体の胴体部分と手足部分は別に池に沈めることに
「鈴鹿市ベルシティ事件」の被害者Aさんの頭部・胴体部分を鴨山池に沈めていたものを一旦遺体を引き上げ。鴨山池から鈴鹿市伊賀町の竹谷池へと移します。
黒のビニール袋で見えない様に上から入れ、重しとして、コンクリートブロックを2個付けて池へと新たに沈めます。
鈴鹿ベルシティ事件の犯人・樋田康則はどんな人物?事件後の行動も紹介
鈴鹿市ベルシティ事件の犯人樋田康則は高校卒業した後、鈴鹿市ベルシティ事件逮捕されるまで整備士の仕事をしています。
その手腕を認められ、鈴鹿8時間ロードレースのチーフメカニックを任され、テレビ番組等でも紹介されており一流のメカニック整備士として一目置かれる存在でありました。
鈴鹿市ベルシティ事件を起こす2年前には、結婚しており2人の父親でもありました。やがて生活拠点を鈴鹿市から新潟県燕(つばめ)市に移し、3人目の子供もできます。
また新築一戸建てを購入して、鈴鹿市ベルシティ事件の犯人樋田みずから整備工場を立ち上げ、幸せの日々を過ごしていました。
鈴鹿ベルシティ事件の犯人・樋田康則は結婚しており子供もいた
平成2年(1990年)には結婚しており、2人の父親でもありました。この2年後にこの父親は鈴鹿市ベルシティ事件という残虐的な悪事を犯すのです。
事件前にはチームメカニックとして鈴鹿8時間耐久ロードレースに参加
昭和59年(1984年)に、鈴鹿市ベルシティ事件の犯人樋田 康則は高校を卒業したのちに オートバイ整備の仕事に就きます。
平成4年(1992年)三重県鈴鹿市のガラス会社所属チームのチーフメカニックとして、鈴鹿8時間ロードレースに参加。
その様子はテレビ番組でも紹介されていました。この人物があの鈴鹿市ベルシティ事件を犯すのです。
事件後は三重県鈴鹿市から新潟県燕市へ引っ越した樋田康則
鈴鹿市ベルシティ事件後の 平成4年(1992年)に家族3人で三重県鈴鹿市から新潟県燕市(つばめ)に引っ越しします。
翌年平成5年(1993年)には次男が誕生しており、翌年の平成6年(1994年)には新築一戸建(燕市小中川)を購入しており、家族と共に暮らしています。
樋田康則は自身で自動車修理工場を立ち上げて仕事をしていた
新潟県燕市に移転したのちに鈴鹿市ベルシティ事件の犯人樋田本人で自動車修理工場を立ち上げています。
この1年前8月に鈴鹿市ベルシティ事件を犯した樋田康則は1993年から1994年の2年間は燕市のプロライダー専門メカニックとして、鈴鹿8時間ロードレースに参加。仕事も好調となる日々を過ごしていました。
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