凌遅刑とは?人の肉を生きながらにしてそぎ落とす恐ろしい刑!
苦しめて見せしめにしながら囚人を殺す方法の1つであり、痛みを感じる生きたままの状態で体の様々な個所の肉をそぎ落としていく処刑方法です。この記事では詳しい内容についてご紹介致しますが、内容に関してはグロテスクな表現が含まれているため、閲覧する際にはご注意ください。
凌遅刑とは?どんな方法で執行される?
どういった方法だったのかのご紹介を始めさせていただきます。記録に残っていない方々も合わせると、とても沢山の人へ執り行われていました。その残虐性から現在ではほとんど行われていないとされていますが、廃止された国が多い中現在も一部の地域ではこの処刑方法がとられています。
また、他にも様々な極度の痛みを伴う刑罰などが生み出されており、どの方法に関しても死んだ方がましであるほどの仕打ちを受けるのです。そういった行為の数々も併せてこの記事ではご紹介させていただきたいと思います。
凌遅刑とは①生きたまま罪人の肉を少しずつ削ぐ刑罰
麻酔なども打たずに生きたまま貼り付けにして行う処刑方法です。そして執行人の手によって罪人の体の肉を指のサイズ程度で少しずつ削いでいくのです。またこの言葉は刑罰が執行されていた朝鮮から伝わった言葉で長時間苦しみを与える死刑という意味を持っています。
その苦しみは想像も絶する痛みであったことが解りますが、どうしてそれほどまでの刑罰を行わなければいけなかったのでしょうか。この記事の中では執り行われる理由や、実際に処刑された人々も合わせてご紹介させていただきたいと思います。
凌遅刑とは②死刑を超える極刑だった
元々、恐怖で反乱を抑え、政治を円滑に行うため考案された方法でした。逆らったらどうなるかという事を見せしめのために公共の場で吊るし上げて、痛めつけたとしていたとされています。死刑では一瞬で痛みがなく死に至らしめるため、恐怖や痛みが少なく、一方でこの刑罰は痛みや苦痛を伴う史上最悪に残酷な刑罰とされています。
凌遅刑とは③削いだ肉は漢方薬として使用された
この刑で削ぎ落した肉は漢方の材料として使用されていたとされており、漢方といえど食人行為が行われていた事実にも驚愕する方が多くいらっしゃいます。実際にどのような理由でこの刑が執行されて漢方へと使うようになったのかは詳しくわかっていませんが、至って残虐な手法であるとして今では行われていません。
凌遅刑とは④古代中国・朝鮮で行われていた
宋よりも前の中国、朝鮮においては反逆罪の人間も首切りなどの一瞬の痛みを与える方法で死罪は罰せられていました。しかし、宋の時代になり反逆勢力が増加してきたところで、恐怖政治に頼るべくこの刑罰が執行されるようになったのです。
他の国でも恐怖で押さえつけるような政治は執り行われており、中国に限ったことではありません。また、恐怖を与える方法も無限と存在しています。特に処刑方法は抗うとどうなるのかを観衆へ店閉める事ができるため、とても有効な手段だったとされています。
凌遅刑はウイグル・チベット・東トルキスタンで現在も行われている
中国や朝鮮での執行は残虐さと囚人の受ける痛みの大きさから廃止されています。しかし一部の地方では現在も残虐な行為が続けられています。当時は他国の記者がこの方法が残虐であると驚愕したとされていますが、実際には西洋でも似たような苦痛を伴う刑罰が行われていたことも事実です。そして場所や執行人へ渡される賄賂でもやり方が違っていたとされています。
また世界の中では様々な拷問や厳しい処刑法が行われておりスカフィズムもその1つです。これは身動きの取れない対象に蜂蜜などの甘い物質を塗り、長い期間放置する事で、対象の甘い匂いに誘われた虫が蜂蜜を対象ごと食し殺していく方法です。詳しくご興味ある方はこちらを参考ください。
凌遅刑の詳しい執行方法や流儀の違いとは?
決まった執行方法があり、行われていた時期や地域によって少しずつルールが違っていました。また、入刀する人によっても流儀に違いがあったようです。こちらではその流儀やルールの有名なものをご紹介させていただきます。
また様々な地域や人の手によって行われていた事も有り、ご紹介している方法以外でのやり方もあります。しかし、流儀は人から人へと伝えられていたため、大本は1つの手技であったと考えられます。そのため主流な流儀から少し違う点があるのは、伝わっていく中で改変されていったということなのかもしれません。
凌遅刑の肉の削ぎ方は秘伝の技
執行する人はそれぞれの流儀を持っており、削ぎ方はその人それぞれの熟練した秘伝の技によって行われていたと言われています。また、その執行人の技量として受刑者の痛みをコントロールできるため、賄賂を渡して苦しまずに殺してもらうということもできました。
また職人技が必要であるとともに、強靭な精神力を備え合わせた人物でないとこの執行を行う事ができないのではないでしょうか。痛みに呻き叫ぶ人物に対して、更なる痛みを与える行為を行うという仕事の繰り返しは、人の精神をおかしくしてしまうという事が安易に想像できるのです。
凌遅刑の詳しい執行方法①八刀刑
この流儀で執行する執行人は肉を剥ぎ取る順番が決まっており、頭の次に手足の肉、そして首の肉という順番で肉を切り落としていたとされています。その削ぎ落し方にはコツがいるため、師匠から弟子へと伝えられる技であったとされています。
正しい手法で行う事で痛みなどが変わるという事は考えにくいですが、あくまで公的な行事であったため、正式に決まった形で決行されていた事が伺えます。また公の場で行うため、誰でもかれでもが行える行為ではなく、決まった許可を受けた人物のみ執行できたという事なのでしょう。
凌遅刑の詳しい執行方法②遮目罩
執り行う人が変わると、頭の額より上で横に切れ込みを入れ、頭皮を引きちぎり降ろすように剥いでいき、めくれてきた頭皮で目が隠れるところまでで止める方法を使用していました。これは執行人が受刑者と目が合い情がわかないように、受刑者の頭皮で目隠しをするために行われていました。
凌遅刑は刑の重さによって切られる回数が違った
受ける肉削ぎの回数には受ける刑の重さで違いがあり、一番軽い刑だと8刀、そこから刑が重くなるごとに、24、36、72、120と回数が増え、受ける痛みや苦しみが増えるような仕組みとなっていたようです。
また歴史上に名を残している人々の処刑では3桁を越えた4桁にも及ぶ回数、削ぎ落しがあったという言い伝えも残っており、大きなことを成し遂げるためのリスクの大きさも伺えるでしょう。また、普通の人間であればそれだけの回数削ぎ落される痛みに意識を保っていられるはずがないのです。
凌遅刑は賄賂の有無で苦しみに差があった?
執行する側も人間であり、刑罰を与える事でご飯を食べています。そこへ漬け込み賄賂を執行人に渡すことで、受刑は免れずとも痛みや苦しみの度合いが執行人の調節で変化することがあったといいます。賄賂を渡す事で、死ぬよりもつらい仕打ちからは免れるという金銭主義な世界であることがわかります。
凌遅刑の犠牲者の人肉は漢方薬とされた
倫理に関する志向も今ほど強くなかったため、受刑者から削ぎ落した肉は漢方の材料とされて、市場で高額な取引が行われていたとされています。また観衆に与えていた事も有りカニバリズムが普通に行われ、購入するほどの需要があったということです。
凌遅刑の罪人の人肉は漢方薬として売られていた
中国では昔から数多くのカニバリズムの歴史があったと報告されています。時には人の毛の油であったり、人の肉のしゃぶしゃぶを食したという記録も残っています。そしてその肉は罪人から削ぎ落された肉も含まれていたのです。
そして執行中、周りに人だかりがある理由はこちらに関係しています。削ぎ落した肉はその場にいた観衆に配布されることもあったようで、それを目当てに周囲で待機している方もいらっしゃったはずです。自身の美容や長寿のためと言えど、痛みに叫ぶ受刑者の近くにいると気がふれてしまっても仕方がない事なのかもしれません。
中国では人肉が漢方薬になるとして信仰されていた
言い伝えの中に人の肉は漢方として妙薬であるという信仰があったため、受刑者の肉が市場に並ぶと飛ぶように買い漁られていたとされています。肉はバラバラに解体され売られていましたが、その食べ方には数多くのバリエーションがあった記録が残っています。
薬効として正式な文章が残っているわけではありませんが、古くから人間の血肉は美容や長寿へと効果があるとされており、その薬効からか中国の方々は同じ人間であっても平気で好んで食べてしまっていたのかもしれません。特に病気を患い余命が少ない方々からすると天にも縋る思い出むさぼっていたのではないでしょうか。
凌遅刑に処された人々①中国
数多くの人がこの獄刑により命を絶たれています。当時の風習で刑罰は一般人の目の前で公開処刑という風習があり、処刑の様子が撮影された写真でもはりつけにされた受刑者の周りには執行人以外に多くの民衆が見守っている姿が写されていました。
また執行後には首だけを晒して置いておくなどで民衆へと知らしめていた記録も残っており、特に大きな事を成した有名な人物の首は同じ意思を持っていた人たちや、陰ながら尽力していた人たちを震え上がらせるにはかなりの影響を与えていたのではないでしょうか。
凌遅刑に処された中国の罪人①劉瑾
正徳帝の東宮時期から側近として地位をなしており、政治を乱していたとされ、捕らえられたとされています。そして行った行為の大きさから彼の受刑は3日で4700刀加えられ、相当な重罪であり、かなりの苦しみの中息絶えた事がわかります。
これほどまでの回数、苦痛を与えられていても最後の1撃まで生きながらえていた精神力と生命力は政治的に人々を動かしてきた人ならでの強さなのかもしれません。一般の人間であれば、これほどまでの精神的、肉体的な苦痛に耐えれるほどのキャパシティーは持っていないでしょう。
凌遅刑に処された中国の罪人②鄭鄤
政治闘争の中で他人から陥れられて受刑された方もいらっしゃいます。彼は実の母を殺し、実の妹を姦淫したというデマにより、3600か所の肉を削ぎ落される刑罰を受刑しています。そしてその肉はその場で見ていた観衆へと配布されたようです。
凌遅刑に処された中国の罪人③壬寅宮変に関わった女官
政治に関わる人物に男性が多い事から受刑者は男性の占める割合が多いのですが、もちろん対象が男性のみであるというわけではありません。政治紛争に関わったとされる女性たちも女であるからという理由は関係なく、受刑している記録があります。
凌遅刑に処された中国の罪人④洪天貴福
二代目の太平天国天皇へと即位した人物ですが、1864年に敵軍である清軍に捕まり捕虜となってしまいました。そして敵軍の手により処刑が執行されたのです。政府への反乱以外にも位の高い捕虜に対して重罪人の扱いがなされ、この刑が執行された事がわかります。
凌遅刑に処された中国の罪人⑤康小八
政府に逆らった人々へ執行される例が多い中、重罪的な殺人を犯した人物にもこの刑罰が執行されていました。その刑を受刑した人物が康小八で、彼は現在でいう通り魔殺人鬼のように、2人の無関係な人物を殺害しました。そして、市場という観衆が大勢いる目の前にて凌遅刑が執行されました。
凌遅刑に処された人々②朝鮮で凌遅刑に処された人々
中国のみならず、お隣の朝鮮においてもこの痛々しい刑罰は執行されていました。朝鮮では重罪の中でも3つの等級に分けられて刑罰が下されており、1つ目は既に死体となった状態で身体を6つに切り分け晒し者とし、2つ目ではウシを用いての八つ裂き、3つ目では凌遅刑が執行されていました。
凌遅刑に処された朝鮮の罪人①金長孫
1882年にソウルで起きた日本に向けた反乱である壬午事変の首謀者とされており、捕らえられたのちに刑罰を与えられています。またこの大規模な反乱では、彼の他にも同罪で10名以上の方が身体の肉を削ぎ落されて死亡したとされています。
凌遅刑に処された朝鮮の罪人②金玉均
彼の死因としては、暗殺ですが、政府に背いた重い罪を死んだ後も償うべきとして、朝鮮政府が彼の遺体を公開張り付けにし、肉を削ぎ落す行為を行いました。また、彼の体と首を切り離し、公開処刑後は晒し首にもされていました。
凌遅刑に処された朝鮮の罪人③許筠
李氏朝鮮の15代目国王に仕えていた人物でした。当時国の中で起こっていた内紛により、貶められ政府反乱の首謀者として処刑されることとなり、この重い刑罰を受けています。また、仕えていた王も暴君であり、陵名などが残っていません。
凌遅刑が日本で行われた?!福岡一家4人殺害事件とは
この記事を閲覧中の方々の多くは、日本でこの刑罰が歴史上行われていないことをご存じでしょう。しかし、罪人への刑罰としてではありませんが、日本でこの手法を使用した殺人事件が発生していた事をご存じでしょうか。既に近隣の国では廃止されていたはずのものが、日本で再来してしまったのです。
福岡一家4人殺害事件の概要
極めて残虐な一家全員の殺人事件であり、内容には目を覆いたくなるような事象が多く含まれています。中国からの留学生であった3人の男子学生による反抗であり、強盗目的で忍び込んだ家に住む家族全員を残虐な方法で殺しているのです。
侵入時に在宅していた母親と息子へと暴行を加え、息子は頸椎を損傷してなくなりました。その後、3人は母親の肉を少しずつ削ぎ落し始めました。そして彼女が亡くなる最後の一刀を入れた人が娘を殺め、帰宅した父親を殺害しましたという事件です。