長続きしない職歴
高校受験に失敗して定時制高校に通うようになり、昼間は工場や肉屋で働くようになりましたがいずれも長続きせず、高校も中退しています。
料理店や自動車整備工場など複数の職を転々としましたが、やはり長続きはしませんでした。
暴力団と盃を交わし暴力団の準構成員に
ホストクラブに勤めていた頃、大倉は恋人を通じて、のちの共犯者となるやくざ組織のTと知り合い、Tに心酔する様になります。
大倉はTのもとで働くようになり、両親も手がかかる息子をやくざのTにあずけてしまいました。
そして大倉はTと杯を交わし、やくざの準構成員となります。恐喝や強盗を働いて保護観察処分となったあと、Tの属するやくざの配下で働くようになりました。
少年やくざとして出発することになってしまった大倉ですが、何故こうなってしまったのでしょうか。本人のせいか?親・学校・地域・社会のせいか…?やくざになる理由を考証する必要があったのかもしれません。
人との出会いが人生を変える事はよくあります。ただ、それが良い出会いになるか悪い出会いになるのかは本人次第です。もしかしたら引き返せた出会いがあったかもしれず、大倉はそれを逃していた可能性があります。
暴排法が制定されてから、やくざの徹底排除が社会的風潮になっています。しかし何故やくざになるのかを考えていかないと、只の排除だけでは根本解決にはならないのです。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で犯人の生い立ち③芳我匡由
当時18歳の芳我は大阪・西成区の出身で1975年に出生。三人の中では下っ端扱いでしたが、控訴審・上告審で主犯格と認定されました。
元暴力団員の父親と放任の母親の元で育つ幼少期
芳我は7人兄弟という大家族の中で育ちました。ですが、元暴力団員だった父親はすでに家におらず、非常に貧しい家庭だったといわれています。
母親に育てられるも、その母もゲームセンターに入り浸りの放任家庭でした。
小学校の頃は格好が汚いという理由でいじめを受けていました。その間、地元の野球チームに所属して野球に打ち込んでいます。
芳我はこの野球チームのコーチにとても懐いており、小学校卒業時に後輩をチームに誘っています。
この後輩はのちにプロ野球選手となってパリーグで活躍しており、この事件の取材にも応えています。
木曽川事件の直前にもコーチに会う機会がありましたが、事件について語りはしませんでした。芳我にとっての居場所はここにもなかったのでしょうか。
やがて、いじめや家庭を忘却できるという理由でシンナーを吸引するようになります。芳我は薬物に逃げるしかなかったのです。
母親の失踪後救護院で生活をする
1989年、中学2年のときに家事をしなくなっていた母親が失踪しています。その頃、芳我は窃盗で補導をうけており、教護院に入っています。
中学校も入学後にまもなく不登校になり、働きながら暮らしたこともありました。
母親による養育が不十分なために犯罪志向となった人物について知りたい方はこちらをご覧ください。
窃盗・シンナーなどで少年院送致される
1990年には窃盗で少年院に送られました。入所中に父親が亡くなっており、少年院を出た後はパチンコ店などで働きました。
その後も非行行為により何度も少年院に出たり入ったりするようになりました。
結婚し子供をもうけるが離婚
芳我は17歳のときに女性と同棲し、一児をもうけて入籍をしています。しかし、ホストクラブでの派手な女性関係によって3か月後に離婚をしています。
荒んだ家庭環境が犯罪者にもたらしていた影響は無視できるものではありません。もし彼らが違う家庭で育っていたら…?親から愛情を注いでもらっていたら…?
仮定に意味はありませんが、違う展開がのぞめた可能性を感じます。連日の凄惨な殺戮は起こっていなかったかもしれません。