藤田信雄とは?アメリカの本土を爆撃した歴史上唯一の軍人!
終戦から74年の月日が流れました。戦争を実際に体験した人も殆どおらず、戦争を後世へ伝える事が出来る人もいずれいなくなる事は避けられませんが、この歴史は世界中の人々が決して忘れてはならない歴史です。
藤田信雄という先人は、戦争を体験された1人です。彼はアメリカ本土への爆撃を成功させた、唯一の軍人として、世界の人々に語り継がれています。
未来から来たという人物が書き込んだ“予言”、その一つに『第3次世界大戦』が含まれていました。嘘か本当は分かりませんが、そのような未来が来ないように、努力したいものです。
“予言”についての詳細は、こちらの記事でご覧いただけます。
藤田信雄のプロフィールと経歴を紹介
彼の人生と戦争の関りを、順を追ってご紹介します。凄腕パイロットであった彼は、日本帝国海軍にとって、期待の星ともされる存在でありました。
藤田信雄のプロフィール
1911年に生まれ、1932年(21歳)に徴兵され、飛行士として戦争に携わった藤田氏。明治・昭和・平成という3つの年号の世を生き、1997年(満85歳)に帰らぬ人となりました。
藤田信雄の経歴①1932年に21歳で帝国海軍に入隊
彼が入隊した1932年には、五・一五事件が起こり犬養内閣が終わりを迎えるなど、情勢は目まぐるしく変化していきます。1939年には第二次正解対戦が勃発、飛曹長となり戦争に関わっていきます。
争いが起きる危険は国内にも潜んでいます。同時期にあった別の事件『二・二六事件』については、こちらの記事でご紹介しています。
1933年にパイロットに
入隊してすぐに飛行士へ配属となり、操縦の腕を買われて偵察の任務に携わることが少なくありませんでした。のちに飛曹長から少尉へ昇進、1943年には鹿児島海軍航空隊へ配属となり、若手のパイロットを指導する教官となりました。
藤田信雄の経歴②真珠湾攻撃への参加
1941年に行われた“真珠湾攻撃”に、藤田飛曹長も赴いていました。潜水艦・伊25に乗り、オアフ島付近を警戒していましたが、藤田飛曹長の乗機するはずだった零式小型水上偵察機の不調により、任務は不参加の形で終了。
藤田信雄の経歴③南太平洋での任務
真珠湾から帰還した1942年、藤田飛曹長は南太平洋の偵察という新たな任務を与えられます。2月~3月にかけて、オーストラリアとニュージーランドの偵察を行いました。
藤田信雄の経歴④太平洋岸北西部による任務
ニュージーランドの偵察の任を終え、北太平洋にあるアリューシャン列島侵略の為、偵察へ向かいます。6月には、オレゴン州にあるアメリカの基地へ砲撃をしました。
藤田信雄の経歴⑤アメリカ合衆国本土への攻撃を命令された
1942年、東京や名古屋といった首都に襲撃を受けた日本では、報復の企てがされていました。そして、飛行士として抜群のセンスを持っていた藤田飛曹長に、軍令部より招集がかかります。
『米軍本土爆撃』という、無謀ともとれる大胆な計画を任されることになりますが、彼は見事これを完遂します。
作戦の地が山間いの町に選ばれた理由とは?
この作戦の狙いの地となったのが、アメリカのオレゴン州にある森林です。手の付けようがない山火事を起こし、敵軍の戦意を削ぐことが狙い。
帰還は難しいと考え、藤田飛曹長は出発前に、家族に宛てた遺書を遺します。しかし彼は、敵地にある森林への焼夷弾を投下に成功します。
爆撃の結果は木を1本燃やしただけだった
投下には成功しましたが、前日の雨で湿気を含んだ森林は、燃え広がる被害にはなりませんでした。成果が木を1本燃やしただけだったと分かり、上官から叱責を受けます。
藤田信雄の経歴⑥アメリカに2度の単独攻撃を仕掛けた
1度目の襲撃は不発に終わり、3週間後に再度、単身での攻撃が計画されます。爆弾を投下、炎を見たと証言しますが、敵軍側に被害はなかった模様。
ですが彼の功績は、日本軍の士気を十分に高めたことでしょう。彼の任務遂行は、海外の反応を集めることにもなりました。
藤田信雄の経歴⑦特攻隊に志願したが終戦した
その後、飛曹長から海軍特務少尉へ昇進、1943年より鹿児島で教官を務めます。終戦に向かい、自身の教え子たちが段々居なくなり、自身も飛び立つことを希望するも、終戦を迎えました。
藤田信雄は戦後アメリカから招待され切腹も覚悟で渡米していた!
藤田氏は、思いやりのある人物でした。戦争とはいえ、自身の襲撃により被害が出た事を、長く心苦しく思いながら生きてきました。
藤田信雄の戦後①アメリカが探していると政府から告げられた
終戦から17年が経ったある日、藤田さん元に1本の電話が入ります。彼を呼んだのは、のちの総理大臣、官房長官・大平正芳氏。
なんと、彼が襲撃したブルッキングス市から、招待したいと連絡が入っていると告げられます。ですが政府は、命の補償はしない、一切関与できない、と言うのです。
藤田信雄の戦後②自決用の日本刀を持ち渡米
当時はまだ、アメリカを敵視する日本人が少なくありませんでした。戦争に憤りを持つ海外の反応を考えても決して穏やかとは言えず、アメリカでも同様に、彼が恨まれていても不思議ではありません。
『本土襲撃』の際にも携えた日本刀を持ち、自決する覚悟を持って招待に応じました。
アメリカでも藤田信雄歓待の反対運動が起きていた
予想通り、彼を招くことに反対だという市民の意見が多くありました。ところが、日本軍の捕虜にされたローガン・ケイ元陸軍少佐は、「憎むべきは彼ではなく、戦争そのものだ」と、反対した市民たちを説得。
そして彼が到着した時、なんとブルッキングス市民は喜んで彼を迎え入れてくれたのです。
藤田信雄の戦後③アメリカで歓待を受けて日本刀を贈呈した
実際に彼らの温かい歓迎を受けた彼は、「なぜこんなに人情味の溢れる人たちと、戦争しなければならなかったか」と憤りを感じたそうです。手を取り合おうとしてくれる市民に感銘を受け、彼は持参した“魂”とも言える日本刀を贈呈。
武士道など、日本特有の文化に憧れるといった海外の反応は、現在でも多く見られます。贈った日本刀は、市民にも「カッコいい!」と人気になったことでしょう。
今でもアメリカは「藤田信雄デー」を祝っている
彼が初めて市に赴いたのは、『アゼリア祭り』が開かれる5月25日でした。現在でもアメリカ市民により、この日が祝われ続けています。
藤田信雄の戦後④藤田信雄の刀は現在も飾られている
彼は、市のために親和活動をされた事も有名で、寄付金を募ったのもその一つです。
これで集められた寄付金により、オレゴン最大となる図書館が建設されました。この図書館に、彼がかつて親愛の証として贈った、日本刀も飾られています。
藤田信雄は戦後に会社を経営していた!
大分県豊後高田市出身の藤田氏ですが、茨城県土浦市で暮らしました。戦争は終わりを迎え、その後はどのように過ごされたのでしょうか?
藤田信雄は戦後は金物の行商を開始
終戦後は家族のため、茨城県で金物の行商を始めました。行商から始めた小さな経営は、企業と言えるまでに成長し、安定した収入を得ることが出来るようになりました。
藤田信雄は航空会社など戦争を思い出す就職は断っていた
太平洋戦争が始まった1941年、完成したばかりの潜水艦・伊25の飛曹長として任命されるほどの、名パイロットでもあった藤田氏。終戦して航空会社・自衛隊から勧誘がありましたが、戦争を思い出すものと関わりたくない為、断っていたようです。
藤田信雄は会社を息子に譲った後運転手として再就職した
企業となった自身の会社は息子に譲りましたが、ある目標を達成する為、82歳まで現役で働き続けました。60代後半に、以前の部下の口利きで運転手として働きました。