藤田信雄はアメリカ本土を爆撃した唯一の日本兵!経歴や波乱の生涯を紹介!

1942年、東京や名古屋といった首都に襲撃を受けた日本では、報復の企てがされていました。そして、飛行士として抜群のセンスを持っていた藤田飛曹長に、軍令部より招集がかかります。

『米軍本土爆撃』という、無謀ともとれる大胆な計画を任されることになりますが、彼は見事これを完遂します。

作戦の地が山間いの町に選ばれた理由とは?

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この作戦の狙いの地となったのが、アメリカのオレゴン州にある森林です。手の付けようがない山火事を起こし、敵軍の戦意を削ぐことが狙い。

帰還は難しいと考え、藤田飛曹長は出発前に、家族に宛てた遺書を遺します。しかし彼は、敵地にある森林への焼夷弾を投下に成功します。

爆撃の結果は木を1本燃やしただけだった

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投下には成功しましたが、前日の雨で湿気を含んだ森林は、燃え広がる被害にはなりませんでした。成果が木を1本燃やしただけだったと分かり、上官から叱責を受けます。

藤田信雄の経歴⑥アメリカに2度の単独攻撃を仕掛けた

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1度目の襲撃は不発に終わり、3週間後に再度、単身での攻撃が計画されます。爆弾を投下、炎を見たと証言しますが、敵軍側に被害はなかった模様。

ですが彼の功績は、日本軍の士気を十分に高めたことでしょう。彼の任務遂行は、海外の反応を集めることにもなりました。

藤田信雄の経歴⑦特攻隊に志願したが終戦した

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その後、飛曹長から海軍特務少尉へ昇進、1943年より鹿児島で教官を務めます。終戦に向かい、自身の教え子たちが段々居なくなり、自身も飛び立つことを希望するも、終戦を迎えました。

藤田信雄は戦後アメリカから招待され切腹も覚悟で渡米していた!

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藤田氏は、思いやりのある人物でした。戦争とはいえ、自身の襲撃により被害が出た事を、長く心苦しく思いながら生きてきました。

藤田信雄の戦後①アメリカが探していると政府から告げられた

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終戦から17年が経ったある日、藤田さん元に1本の電話が入ります。彼を呼んだのは、のちの総理大臣、官房長官・大平正芳氏。

なんと、彼が襲撃したブルッキングス市から、招待したいと連絡が入っていると告げられます。ですが政府は、命の補償はしない、一切関与できない、と言うのです。

藤田信雄の戦後②自決用の日本刀を持ち渡米

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当時はまだ、アメリカを敵視する日本人が少なくありませんでした。戦争に憤りを持つ海外の反応を考えても決して穏やかとは言えず、アメリカでも同様に、彼が恨まれていても不思議ではありません。

『本土襲撃』の際にも携えた日本刀を持ち、自決する覚悟を持って招待に応じました。

アメリカでも藤田信雄歓待の反対運動が起きていた

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予想通り、彼を招くことに反対だという市民の意見が多くありました。ところが、日本軍の捕虜にされたローガン・ケイ元陸軍少佐は、「憎むべきは彼ではなく、戦争そのものだ」と、反対した市民たちを説得。

そして彼が到着した時、なんとブルッキングス市民は喜んで彼を迎え入れてくれたのです。

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