高齢者と呼ばれる年齢にも関わらず、運転手から工場長へ、そして最後は取締役にまで出世されたそうです。
息子に譲った会社は業績悪化で倒産した

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彼が働かねばならなかった理由の一つに、自身の育てた会社を息子に譲った後、倒産してしまったことも含まれます。家族のため、再就職をせねばならなかったのです。
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藤田信雄や彼の妻や子供のその後は?

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彼が82歳まで働き続けた理由…それは、ブルッキングス市の人々への親和活動でした。一度目の訪問で彼は、この様な温かい人たちの住まう場所へ攻撃をしたことの後悔と、被害が無かったことに安堵しました。
戦争という過ちを二度と繰り返したくない。そう説に願った彼は、お互いの手を取り合えるようにと、親和活動に励んだのです。
藤田信雄はアメリカの子供を日本へ招待した
会社が倒産し無一文になってしまい、再就職をするも手取りの金額は月に約12万円。生活を切り詰めて26,300円を毎月コツコツと貯金し、100万円を用意。
このお金を使い、1985年開催の『つくば万博』に、アメリカの女子高生3名を招待しました。「日米の若者の相互理解を深める…それが平和な世をつくることになる」という願いを込めて、行われた企画でした。
レーガン大統領から星条旗を送られた
この行いには、当時アメリカの大統領だったレーガン氏より、ホワイトハウスに1日飾られた星条旗と、サインの入った感謝状が贈られました。そこには、『あなたの優しさと寛大な心に敬意を表して』という言葉がありました。
藤田信雄はブルッキングスを再訪していた

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藤田氏にとってこの地は、自身の人生の中で切れない縁で繋がれた街となりました。1度目の来訪以降、1990年、1992年、1995年に市を再訪しています。
3回目の再訪は植樹をした

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山火事を起こす為に投下した爆弾により、1本の木が燃えてしまいました。この被害で済んだことは、不幸中の幸いであったと言えるでしょう。
1992年の来訪の際には木が燃えた場所へも赴き、燃えた木の場所には印を立てます。その傍らに、平和の証として新たに木を植えました。
4回目には市長らを乗せセスナを操縦した

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1995年の4度目の来訪では、80代という年齢でありながら、市長を含む3名を乗せてセスナを操縦したというのです。パイロットとしての腕前は健在でした。
藤田信雄の妻と子供のその後とは

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悲しいかな、妻と子どもには先立たれてしまったようです。長男は病死し、奥様が亡くなられた頃には、自身の肺に影が発見されると不幸が続きました。
藤田信雄の子孫によってアメリカとの交流は続いている

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娘・順子さんは彼の偉業を間近で見続け、その気持ちを尊重してきました。彼女と、その息子は2012年に市へ訪れ、ゆかりの地である図書館や爆弾の落ちた現場を見学するなど、現在も交流は続いています。
藤田信雄の晩年と死因は?

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日本刀の贈呈に始まり、植樹、募金活動、高校生を日本に招待する…と日米親善の為に、彼は生涯を通して取り組んで来られました。
彼の人生は、決して楽なものではありませんでした。ですが、思いやりに溢れ、いつも“自分に出来ること”を誠意をもって行ってきた彼の人生が、素晴らしいものであったことは間違いありません。
藤田信雄はブルッキングス市の名誉市民に選ばれた

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彼の功績と温かな人柄は国という壁を越え、多くのアメリカ人にも慕われました。1997年、ブルッキングス市は彼を“名誉市民”に選出しました。
市長が来日した当日に死亡

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名誉市民の証書を持って、友人が彼のもとを訪れる予定でしたが、その数日前に患っていた肺がんが原因で、帰らぬ人となりました。ご友人は葬儀に参列され、彼の遺骨を市に持ち帰りました。
藤田信雄の死後に遺灰の一部がアメリカの空爆地点に埋められた

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一周忌には、娘・順子さんのご家族が市に訪れ、爆撃地となった場所へ遺灰も埋められました。『唯一日本機に空爆された地点』という看板が、現在もここに立ち続けています。
藤田信雄に対する海外の反応をご紹介
彼の死は、日本の新聞よりも大きな見出しで、アメリカで報道されました。彼の死を悼み、功績を評価する海外の反応は少なくありませんでした。
藤田信雄への海外の反応①アメリカ

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彼が最初の訪問で、持ってきた日本刀を贈呈したことは有名でした。この日本刀が、現在でもきちんと管理されている事を喜ぶ声や、刀という歴史ある物、現在であれば法律に抵触する恐れのある代物を、自決する覚悟で持ち込んだ事への称賛の声もありました。
藤田信雄への海外の反応②その他の国

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海外の反応は、アメリカだけに留まりません。「偉大な男だ」「心からの敬意を表す」と、藤田さん本人、また日本の文化に対して多くの海外の反応が上がるほど、国を越えて称賛されました。
戦争を生き抜いた偉人・板津忠正
世界との架け橋として奔走した藤田氏。彼と同じ時代を生き抜き、戦争を乗り越えて自身の信念を貫いた人として、板津忠正氏をご紹介します。
特攻により亡くなった戦士を弔う
戦後、生き残ってしまったと自責の念に苛まれた板津氏。仲間と共に特攻へ出発するも、エンジントラブルにより帰還し、生きながらえる事になったのには理由がある、として特攻隊員の遺族を訪問して回ります。
特攻隊として旅立っていった若者の、当時の様子を遺族に話し、名簿の確認と資料収集を行いました。そして基地のあった鹿児島県に『知覧特攻平和会館』を建て、遺品や遺影を並べました。
『知覧特攻平和会館』の初代館長に就任
館長となった1986年、全員の遺影と資料を集めるために仕事を辞め、活動に専念します。1995年、この地より飛び立った1,032名全員の遺影の収集を達成。
その傍らで講演会を開き、かつての仲間の実際の声、戦争により引き裂かれた心を語り継ぐ活動も行いました。生涯活動を続けられ、2015年(90歳)で人生に幕を閉じました。
藤田信雄の関連書籍・作品

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彼の生きざま、日米親和のために尽力された行いは、後世に繋ぐべきモノの一つだと言えましょう。彼に関する書籍、また特集としてテレビで放送された事についてご紹介します。
「アメリカ本土を爆撃した男」

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単身でアメリカへ攻撃を仕掛けた藤田飛曹長。彼が遺した27冊に及ぶ手紙、遺族の声より解読された彼の85年という人生を描いた、ノンフィクションの作品です。
藤田信雄はアンビリバボーで特集された
2018年8月9日、有名番組『アンビリバボー』で彼の特集が組まれました。彼の人生、心情にもピントを当てた素晴らしい内容でした。
1995年には存命中の藤田信雄がテレビ番組に登場したことも

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1995年には『たけし・さんま世紀末特別番組』で、世界の5,000人の偉人に選ばれており、存命中だったためVTRに登場するシーンも見られました。ちょうど、4度目のアメリカ訪問を行い、日本刀を図書館へ移動、セスナに搭乗した年でもありました。
藤田信雄のエピソードは映画化の話もあった

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とある米誌記者は、彼を主人公とする物語を執筆し、映画製作者エルモ・ウィリアム氏の下へ持ち込みました。『オレゴンの日本刀』と呼ばれる映画が実現されるかと思われましたが、製作には至らなかったようです。
戦争を題材にした創作小説『永遠の0』

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第二次世界大戦を題材とした作品と言えば、小説・映画で『永遠の0』が話題となりました。大学生の主人公が姉と一緒に、特攻で亡くなった自身の祖父について調べる物語です。
命を惜しむ男・宮部久蔵

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国の為に命を懸けることを喜べと教え込まれる兵士たちの中に、一人だけ「死にたくない」という男が居ました。彼こそが主人公の祖父、宮部久蔵でした。
宮部を知る生き残った兵士たちにインタビューを申し込むのですが、凄腕の飛行士でありながら、“死なないため”に戦った宮部に対して発せられるのは、蔑みの言葉ばかり…。
命の観念が軽薄になっていた時代で、命に重きを置くという信念を貫いた人。愛する家族の下へ生きて帰ることを、心から願った人。
彼の孫である主人公は、宮部のエピソードを聞いてどのように変化していくのか…。涙なしには見られない作品となっています。
藤田信雄はアメリカ本土を唯一攻撃し平和活動に生涯を捧げた男!

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戦争を知らない子どもが増えていく事、その時代はもうすでに始まっています。戦争という悪しき歴史は、決して繰り返されてはならないのです。
その歴史に携わり、その上でアメリカとの友好関係、平和を望んだ藤田信雄氏の築いたモノを、私たちはきちんと受け取り、後世へ紡いでいく事が求められます。手を取り合う為に必要な物は、小さくとも思いやりを持った行動であると、人生をかけて説いた人でした。
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