藤田信雄はアメリカ本土を爆撃した唯一の日本兵!経歴や波乱の生涯を紹介!

武士道など、日本特有の文化に憧れるといった海外の反応は、現在でも多く見られます。贈った日本刀は、市民にも「カッコいい!」と人気になったことでしょう。

今でもアメリカは「藤田信雄デー」を祝っている

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彼が初めて市に赴いたのは、『アゼリア祭り』が開かれる5月25日でした。現在でもアメリカ市民により、この日が祝われ続けています。

藤田信雄の戦後④藤田信雄の刀は現在も飾られている

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彼は、市のために親和活動をされた事も有名で、寄付金を募ったのもその一つです。

これで集められた寄付金により、オレゴン最大となる図書館が建設されました。この図書館に、彼がかつて親愛の証として贈った、日本刀も飾られています。

藤田信雄は戦後に会社を経営していた!

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大分県豊後高田市出身の藤田氏ですが、茨城県土浦市で暮らしました。戦争は終わりを迎え、その後はどのように過ごされたのでしょうか?

藤田信雄は戦後は金物の行商を開始

終戦後は家族のため、茨城県で金物の行商を始めました。行商から始めた小さな経営は、企業と言えるまでに成長し、安定した収入を得ることが出来るようになりました。

藤田信雄は航空会社など戦争を思い出す就職は断っていた

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太平洋戦争が始まった1941年、完成したばかりの潜水艦・伊25の飛曹長として任命されるほどの、名パイロットでもあった藤田氏。終戦して航空会社・自衛隊から勧誘がありましたが、戦争を思い出すものと関わりたくない為、断っていたようです。

藤田信雄は会社を息子に譲った後運転手として再就職した

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企業となった自身の会社は息子に譲りましたが、ある目標を達成する為、82歳まで現役で働き続けました。60代後半に、以前の部下の口利きで運転手として働きました。

高齢者と呼ばれる年齢にも関わらず、運転手から工場長へ、そして最後は取締役にまで出世されたそうです。

息子に譲った会社は業績悪化で倒産した

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彼が働かねばならなかった理由の一つに、自身の育てた会社を息子に譲った後、倒産してしまったことも含まれます。家族のため、再就職をせねばならなかったのです。

藤田信雄や彼の妻や子供のその後は?

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彼が82歳まで働き続けた理由…それは、ブルッキングス市の人々への親和活動でした。一度目の訪問で彼は、この様な温かい人たちの住まう場所へ攻撃をしたことの後悔と、被害が無かったことに安堵しました。

戦争という過ちを二度と繰り返したくない。そう説に願った彼は、お互いの手を取り合えるようにと、親和活動に励んだのです。

藤田信雄はアメリカの子供を日本へ招待した

会社が倒産し無一文になってしまい、再就職をするも手取りの金額は月に約12万円。生活を切り詰めて26,300円を毎月コツコツと貯金し、100万円を用意。

このお金を使い、1985年開催の『つくば万博』に、アメリカの女子高生3名を招待しました。「日米の若者の相互理解を深める…それが平和な世をつくることになる」という願いを込めて、行われた企画でした。

レーガン大統領から星条旗を送られた

この行いには、当時アメリカの大統領だったレーガン氏より、ホワイトハウスに1日飾られた星条旗と、サインの入った感謝状が贈られました。そこには、『あなたの優しさと寛大な心に敬意を表して』という言葉がありました。

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