藤田信雄はアメリカ本土を爆撃した唯一の日本兵!経歴や波乱の生涯を紹介!

山火事を起こす為に投下した爆弾により、1本の木が燃えてしまいました。この被害で済んだことは、不幸中の幸いであったと言えるでしょう。

1992年の来訪の際には木が燃えた場所へも赴き、燃えた木の場所には印を立てます。その傍らに、平和の証として新たに木を植えました。

4回目には市長らを乗せセスナを操縦した

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1995年の4度目の来訪では、80代という年齢でありながら、市長を含む3名を乗せてセスナを操縦したというのです。パイロットとしての腕前は健在でした。

藤田信雄の妻と子供のその後とは

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悲しいかな、妻と子どもには先立たれてしまったようです。長男は病死し、奥様が亡くなられた頃には、自身の肺に影が発見されると不幸が続きました。

藤田信雄の子孫によってアメリカとの交流は続いている

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娘・順子さんは彼の偉業を間近で見続け、その気持ちを尊重してきました。彼女と、その息子は2012年に市へ訪れ、ゆかりの地である図書館や爆弾の落ちた現場を見学するなど、現在も交流は続いています。

藤田信雄の晩年と死因は?

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日本刀の贈呈に始まり、植樹、募金活動、高校生を日本に招待する…と日米親善の為に、彼は生涯を通して取り組んで来られました。

彼の人生は、決して楽なものではありませんでした。ですが、思いやりに溢れ、いつも“自分に出来ること”を誠意をもって行ってきた彼の人生が、素晴らしいものであったことは間違いありません。

藤田信雄はブルッキングス市の名誉市民に選ばれた

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彼の功績と温かな人柄は国という壁を越え、多くのアメリカ人にも慕われました。1997年、ブルッキングス市は彼を“名誉市民”に選出しました。

市長が来日した当日に死亡

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名誉市民の証書を持って、友人が彼のもとを訪れる予定でしたが、その数日前に患っていた肺がんが原因で、帰らぬ人となりました。ご友人は葬儀に参列され、彼の遺骨を市に持ち帰りました。

藤田信雄の死後に遺灰の一部がアメリカの空爆地点に埋められた

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一周忌には、娘・順子さんのご家族が市に訪れ、爆撃地となった場所へ遺灰も埋められました。『唯一日本機に空爆された地点』という看板が、現在もここに立ち続けています。

藤田信雄に対する海外の反応をご紹介

彼の死は、日本の新聞よりも大きな見出しで、アメリカで報道されました。彼の死を悼み、功績を評価する海外の反応は少なくありませんでした。

藤田信雄への海外の反応①アメリカ

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彼が最初の訪問で、持ってきた日本刀を贈呈したことは有名でした。この日本刀が、現在でもきちんと管理されている事を喜ぶ声や、刀という歴史ある物、現在であれば法律に抵触する恐れのある代物を、自決する覚悟で持ち込んだ事への称賛の声もありました。

藤田信雄への海外の反応②その他の国

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海外の反応は、アメリカだけに留まりません。「偉大な男だ」「心からの敬意を表す」と、藤田さん本人、また日本の文化に対して多くの海外の反応が上がるほど、国を越えて称賛されました。

戦争を生き抜いた偉人・板津忠正

世界との架け橋として奔走した藤田氏。彼と同じ時代を生き抜き、戦争を乗り越えて自身の信念を貫いた人として、板津忠正氏をご紹介します。

特攻により亡くなった戦士を弔う

戦後、生き残ってしまったと自責の念に苛まれた板津氏。仲間と共に特攻へ出発するも、エンジントラブルにより帰還し、生きながらえる事になったのには理由がある、として特攻隊員の遺族を訪問して回ります。

特攻隊として旅立っていった若者の、当時の様子を遺族に話し、名簿の確認と資料収集を行いました。そして基地のあった鹿児島県に『知覧特攻平和会館』を建て、遺品や遺影を並べました。

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