1909年には帝劇歌劇部に合格し、歌やダンスの訓練を受けます。1914年喜歌劇ブン大将のコーラス・ボーイとして初舞台を踏みます。
当時の彼はダンサーになることが夢でした。しかし帝劇洋劇部が1916年に解散したため、夢を諦めます。
活動の場を広げる
- Free-Photos / Pixabay
その後彼は俳優として、小さな劇団を転々としながら活動します。1920年には関西に移って剣劇を中心の新声劇に参加します。
1926年には「松旭斎天華一座」に入り、三ヶ島天晴の芸名で活躍します。この一座の活動範囲は広く、地元関西の他、満州や中国にまで巡業に出ることもありました。
左卜全の経歴③喜劇俳優としてデビュー
- nmiranda / Pixabay
彼は東京に戻り、経営者の佐々木千里に誘われてムーランルージュ新宿座に加わります。
入団後、彼は「左卜全」と名乗るようになります。左は左甚五郎、卜は塚原卜伝から取り、全は丹下作善の善を全に変えたものが名前の由来です。
ムーランルージュ新宿座で、彼は老け役専門コメディアンとしての才能を開花させます。そして舞台を見た関係者にスカウトされて、松竹の移動演劇隊に移ります。
左卜全の経歴④突発性脱疽を患い松葉杖が必要な体に
- ferobanjo / Pixabay
この頃から彼は左脚に激しい痛みを感じるようになり、突発性脱疽と診断されます。この病気では患部が壊死を起こす可能性があるので、医者は脚の切断を勧めます。
しかし役者を天職と信じる彼は切断を拒み、脱疽の痛みと共存する道を選びます。それでも左足の親指の第一間接より先は、切断してしまいました。
左卜全の経歴⑤52歳で小暮糸と結婚
- PIRO4D / Pixabay
1946年、彼は母方の遠い親戚に当たる小暮糸と結婚しました。このとき新郎は52歳、新婦は37歳です。
この頃、ムーランルージュ新宿座で彼を高く評価した、台本作家の小崎正房を座長とする「劇団空気座」が発足し、彼もその役者として活躍します。
左卜全の経歴⑥55歳で映画デビュー
- Clker-Free-Vector-Images / Pixabay
空気座は3年ほど活動して、解散します。彼は小崎の紹介である映画スタジオに入り、1949年に55歳で銀幕デビューします。
その後の彼はどこにも所属せず、フリーで活動します。業界内では私生活の変人ぶりと共に、彼の演技力の高さが評判になりました。
左卜全の経歴⑦76歳で歌手デビュー
- freestocks-photos / Pixabay
役者一本でキャリアを築いて来た彼ですが、終わり近くの76歳になって、歌の仕事が舞い込みます。老人と子供のポルカです。
この曲は大ヒットして、彼は一躍お茶の間の人気者になります。その結果、2曲目の拝啓天照さーんも収録されますが、直後に彼が亡くなり、販売は一時中止になります。(後にCDとして発売されます。)
左卜全の経歴⑧死因はガンで妻が看取った
- realworkhard / Pixabay
老人と子供のポルカの大ヒットの翌年、彼はガンで亡くなります。77歳でした。奥さんの呼びかけに、はいと小さく応えたのが彼の最後の言葉だったそうです。
彼の葬儀にはこの曲で共演した子供達も参列し、この曲の大合唱で彼をあの世へ送ったそうです。
左卜全の俳優としての活動
- michellekoebke / Pixabay
彼は生涯を通じて、演じることに執着しました。しかし前半生の舞台俳優時代としての活動は、全体を把握できません。
ここでは50代以降の映画やテレビ番組の時代について、述べることにします。一見自然体に見える優れた演技力で、彼はこちらの方面でも、バイプレーヤーとして売れっ子になりました。
左卜全は黒澤明監督の映画に7本出演した
- OpenClipart-Vectors / Pixabay
中でも特筆すべきことは、あの「七人の侍」をはじめ、黒澤明監督の映画に7本も出演したことです。
それは「醜聞」「白痴」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「どん底」「赤ひげ」の7本です。
彼の最初の映画を見て、黒澤監督が「醜聞」に起用したのです。チョイ役でしたが演技は高く評価され、黒澤映画の脇役の常連になりました。