ベクシンスキーの呪われた生涯と呪われた絵の真実に迫る!どこで見られるかも徹底リサーチ!

彼の父と祖父は建築の仕事に携わっていました。その為、彼もまた建築家を目指しクラクフ工業大学建築設計学部に入学。卒業後は現場監督に就任しますが、どうにも不満だったようです。その後すぐに、建築の仕事を辞め芸術の道へ転進します。

抽象画家としてデビュー

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建築家をやめ、芸術家となったベクシンスキーは1964年に初の個展を開きます。その初の個展でなんと、全ての作品に買い手がつき、すぐにポーランドの代表的な近代芸術家として、世間に認知されます。この当時は主に抽象画を描いていたようです。

幻想的リアリズムの確立

1960年代の間に、ベクシンスキーの画風が変わっていきます。独自のゴシック的で、かつシュルレアリスム的な、あるいは幻想的リアリズムとも称される、独特な画風に移行します。どうして画風が変化したのかは分かりません。ですが少なくとも、誰かの影響を受けてという事ではないようです。何故なら、ベクシンスキーは普段隠居するような暮らしをしながら作品の制作に没頭しており、他の芸術を見る事を避けていました。

④ベクシンスキーの生涯

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ベクシンスキーの生涯はまさに「呪われている」と言って良い程に不幸な出来事が続いています。彼の画風に影響を与えたであろう、その悲惨な出来事の数々を順を追って見ていきましょう。

ナチスのポーランド侵攻

ベクシンスキーは幼い頃に、ナチス・ドイツのポーランド侵攻を経験しています。幼少期の写真が残されており、こちらは1941年に撮影された物で、サノクにあったソ連軍の掩蔽壕がある廃墟で友達と遊んでいる様子が写っています。他国に攻め込まれた経験が、その後ベクシンスキーが描いていく独創的な絵画達に、何かしらの影響を与えていると思われます。

妻の死

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1998年、ベクシンスキーの妻が病気で亡くなります。身内の死は避けようのない不幸ではありますが、しかしベクシンスキーの不幸はこれだけでは終わりませんでした。

息子の死

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1999年、妻が亡くなった翌年のクリスマスイブ。ポーランドで人気のラジオで、パーソナリティをしていた音楽評論家の息子、トマシュ・ベクシンスキーが薬物の過剰摂取により自殺します。ベクシンスキーはトマシュの死と折り合いを付けられなかったようで、『もし、私がくたばった時に備えて。Tomek(息子の愛称)へ』と手紙を綴って、壁にピンで留めていました。

⑤ベクシンスキーの最期

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戦争に、愛する家族の死。数々の不幸に見舞われてきたベクシンスキーですが、その人生はとある人物によって終焉を迎えさせられました。ベクシンスキーの呪いが口にされるようになった理由の一つである、彼の最期について触れていきましょう。

17か所の刺し傷

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2005年の2月。ベクシンスキーは自宅で遺体となって発見されました。遺体には、多数の刺し傷が残されていました。その数は何と17か所。それも頭部と胸部に絞られていました。遺体の様子からは犯人の強い殺意が感じられます。事実、ベクシンスキー殺害は彼に恨みを持った人物による犯行でした。

1万円の借金をめぐる死

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ベクシンスキーが殺されたのは、借金の頼みを断った事が原因でした。それも大金ではなく、1万円程度だったようです。たったそれだけの事で、ここまで惨たらしい最期を迎えることになるとは、本人も周囲の人たちも想像もしなかったでしょう。

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