東海村臨界事故とは
放射能漏れを防ぐ設備の無い普通の工場で起きた事故であり、福島第1原発事故が起こるまでは日本の原発の歴史上最悪の事故と言われ作業員2名が死亡し、2000年4月時点で認定されているだけで667名が被爆しました。もっと大勢の犠牲者が出た可能性もありました。
この事故が深刻だったのは放たれた放射線が「中性子線」とガンマ線だったということです。中性子線は物は壊しませんが、そこにいる命を奪う放射線です。中性子爆弾は、落とした先の人々の命を奪い建物や設備はそのまま残る、そういう性質です。
臨界とは?
核分裂が次々と起こり非常な高温状態になる事をいいます。目的は原子力発電であり、十分に備えをした原子炉の中で意図的に行われることです。火力発電では重油が燃える時の熱エネルギーを利用して蒸気を発生させタービンを回し電気を作ります。原子力発電ではウランが核分裂する時に発生するエネルギーを利用して水を沸かします。
JCOで起こった原子力事故
事故を起こしたのは住友金属鉱山が100%出資して作った株式会社JCO。事故が起きたのは1999年9月30日、11時15分ごろに臨界事故の可能性ありと第一報がJCOから科学技術庁に入っています。この事故で日本国内で初めて、被爆による死者が出ました。
東海村臨界事故の原因とは?
どうして事故は起きてしまったのでしょう。防ぐことは出来なかったのでしょうか。当時の報道やネット上の情報から、現場では絶対にやってはいけない方法で作業がなされていました。事故原因と違法な作業手順について見ていきましょう。JCOのずさんな管理が事故の原因
作業に従事する人がウランの性質や危険性を十分に知っていれば、事故は起こらなかったかも知れません。作業員に教育するのは会社の責任です。知識を与えないばかりか万が一の事故が起きた場合の想定がされていなかったのはズサンとしか言いようがありません。
このような作業を知識を持たない人がやって良いのか?誰もが疑問に思うところではないでしょうか。原子力発電所の中でも厳重に放射線から守られた比較的安全な場所で仕事をしているのは高学歴な人たちでしょう。しかし、ウランやプルトニウムを直接扱う人たちについては我々一般の人たちは誰も知らないのではないでしょうか。
原発の構図
原発と一言で行っても、その仕組みは複雑です。原発→元受け(財閥系)→下請け→孫受け→ひ孫受け→親方→日雇い労働者、という具合に連なっています。通常、電力会社の社員は原発の中で作業はしません。
中で汚れ仕事を引き受けている底辺労働者の中には黒人観光者や、騙されて大阪の寄せ場(日雇労働の求職者と求人者が大勢集まる所)から連れて来られた人が何十人と混じっていた事が暴露されていました。このような人たちの犠牲の上に電気を好きなだけ使う生活が出来る事を知らないでいてはいけないと思います。
原発ではどんな人が働いているのか?底辺労働者の実態に迫る/ITmediaビジネス
違法な作業手順とは
本来、国が認めたマニュアル通りに作業をしなければいけません。この事故ではそれが守られず、法律に違反する裏マニュアルが存在し、それさえも守っていなかったのです。「人手と費用を減らすため」と会社は答えています。
裏マニュアルでは臨界を防ぐために、直径が小さく背の高い容器を使用するとされていましたが、当日使用されたのは背が低く直径が大きい「バケツ」のような容器でした。作業の効率化の為だったとされています。臨界が起こる仕組みや危険性を知らされていなかったから起きた事故です。
東海村臨界事故は決死隊の活躍で終止符を打った
一度は収束したと思われましたが再臨界の可能性があると分かり、事故が起きた9月30日の23時30分、核分裂反応を抑えるため冷却装置の水抜きをすると科学技術庁が発表しました。JCO社員の中からベテランの社員8組16名が指名され、決死隊が結成されたのでした。
冷却水の除去を行い臨海が終息した
現場の状況を知るため、最初の一組が工場内に入り、大急ぎで写真を3枚撮ってエンジンをかけっぱなしの車に飛び乗り猛スピードでその場を離れました。その僅かな時間で浴びた中性子線は112ミリシーベルト。人が普通に生活しても浴びてしまう放射線量の約100年分です。
作業を始めてみると排水のためのパイプが曲がっていたり思わぬ事態もあり、予定の8組では足らず2組を追加して中には2度現場に入った人もいて、ほぼ全ての水を抜くことが出来ました。10月1日、午前6時14分、中性子線は通常値に戻りましたが18人全員が被爆しました。
偶然成功したという意見もある
作業ができる時間は限られており、何か1つでも2つでも悪条件が重なれば、或いは水を抜いても臨界が止まらなかったら、どうなっていたのでしょうか。今、何事も無かったように過ごしていられるのは運が良かっただけという意見もあるのです。
原発で大きなトラブル・事故が発生するのは人為的ミスばかりではありません。地震や津波により、電源に問題が生じて事故に繋がるケースもあります。大きな地震の後に頭に置いて置くべきことの一つが火災です。火災旋風という言葉を知っていますか?
東海村臨界事故における被爆者①大内さん
人が絶対に見てはいけない「青い火」を見てしまった。ウランが臨界に達した時に発する火です。被爆してから最後の日までの苦しみはどれほどだったのか、あまりの凄惨さから日本国内では殆ど報道される事はありませんでした。事故発生から亡くなるまでの83日間を整理してみました。
被爆した際の状況と被曝量
ウランを硝酸に溶かし均一にする作業を行っていました。臨界を起こしやすい形状の沈殿槽に、ステンレス製のバケツと漏斗を使って大量のウラン溶液を流し入れていたました。臨界を起こすのに十分すぎる量でした。午前10時35分、中性子線とガンマ線が彼らの体を突き抜けました。被ばく線量は推定16〜20シーベルト。
被ばく線量は法律で決められている
癌などの健康被害を極力防ぐため、年間の被ばく線量は国が法律で定めています。放射線技師など職業で放射線を扱う人は年間50ミリシーベルト以下。5年間の通算で100ミリシーベルト以下。一般人は年間1ミリシーベルト以下です。
大内さんの被爆治療の記録
水戸市立病院から千葉県の放射線医学総合研究所へ、そして東大病院へと転送されました。当初はウラン中毒を疑って治療されましたが、検査の結果ナトリウム24が検出され『臨界による急性被爆』だと分かりました。運び込まれた時点では臨界事故であるという情報は放医研に伝わっておらず、誰も臨界による急性被爆を疑っていなかったそうです。
当初は意識もハッキリしていて会話も出来ましたが、彼を次々と襲ったのは血液の液体成分が血管の外に出てしまう、体が浮腫む、肺に水がたまる、酸素の取り込みが悪くなる、4日目ごろには昼夜逆転し不穏状態に。という悲惨なものでした。呼吸管理が必要になり薬で意識をなくし83日目に永眠されました。
東海村臨界事故における被爆者②篠原さん
同じ作業をしていたもう一人の作業員、被曝量がいくらか少なかったのですが、その分ゆっくりと破壊が進み211日という長期に渡って苦しみ続ける事になりました。事故発生から亡くなるまでの軌跡を追ってみました。
被爆した際の状況と被曝量
推定6〜10シーベルトの被爆であったと思われます。作業していた2人はウラン溶液に近すぎて、何が起きたのか分からなかったかも知れません。工場内で被爆した3人のうち唯一生存している男性は作業場と壁一枚隔てた事務室にいました。ドアの向こうが青く光ったのを見て、「臨界だ!すぐ外に出ろ!」と声をかけたのです。