入院当初は普通に会話も出来ました。臍帯血移植などにより一時は回復の兆しを見せていたようですが、結局は放射線の力に勝つことは出来ず211日目に亡くなりました。皮膚の破壊などがゆっくりと進行し、胸や腹、手足の皮膚は鎧のように固くなり、新しい皮膚を作る幹細胞も壊れ最後は筆舌に尽くしがたい様子だったと前川医師は語っています。
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東海村臨界事故の生存者の現在とは?
その人は事故から6年後、毎日新聞の取材に答えていました。その瞬間、「パシッ!」という音を聞き「青い火」を見ていました。臨界が起きると青い光と共に音が聞こえることは知っていたので、臨界が起きたのだと悟ったそうです。自分たちは無知だったと語っています。
唯一の生存者がいた!
彼が仕事をしていた事務室と、亡くなった2人が作業していた作業場を行き来するドアは開いていました。男性は推定1〜4.5シーベルトの被爆でした。他の二人に比べて少ないとはいえ危険な被曝量には違いありません。
一時は白血球がゼロになり非常に危険な状態だったそうですが、幸い回復し3ヶ月後に退院することが出来ました。入院中に一緒に入院した他の2人は亡くなり、一人ぼっちになってしまった、相槌を打ってくれる人が居なくなった、臨界体験者が自分だけになってしまった孤独感が大きかったと後に語っています。
横川豊さんの現在の生活とは?
退院後数ヶ月で職場復帰した後、既に定年退職し現在は70歳を過ぎ関東で暮らしているようです。以前は取材に答えていましたが、最近は断っているそうです。2人の作業員とはスペシャルクルーと呼ばれ、その副長として燃料用ウラン溶液の製造に関わっていました。過去の取材では、2ヶ月に一度は無くなった2人の墓前に参っていると語っており、きっと今も続けているのでしょう。
東海村臨界事故の風評被害や住民への影響
現場のある村は「さつまいも」の産地であり周辺地域も農業地帯ですが、事故の後は米や野菜、魚や肉に限らず商工業、観光などあらゆる産業で長期に渡って風評被害が続きました。人が2人も死ぬほどの事故だったのだから、影響が無いはずはない、なるべく近寄らない方が良いに違いないという心理が人々の間に働き長い期間それが続いたのです。
体調悪化で職を失った人もいる
現場から僅か120メートルの場所で自動車部品工場を営む夫妻は、被爆検査を受け「大丈夫です」と言われて帰宅しました。しかし、妻はその日の深夜から激しい下痢などに見舞われ仕事に行けなくなりました。事故のニュースを見たりすると動悸がしたりパニックになったりするPTSDにもなりました。夫は持病の皮膚病が悪化し入院、2001年に工場を閉めました。
他にも体調を崩した人が10名おり、一時は団結してJCOに対して損害賠償を求めました。様々な理由で次第に決裂し、最終的には工場を閉鎖した夫妻だけが訴え続けました。夫妻は2002年に水戸地裁に提訴しましたが10年、最高裁が訴えを退け敗訴。JCOは体調不良と事故との因果関係を否定したまま夫妻は既に他界。現在は夫妻の長男が事故を風化させまいと語り継いでいます。
心理的影響へのケアも必要
事故当日、私は事故現場から80キロほど離れた所で仕事をしていました。職場のオーナーは「大変な事が起きようとしています。万が一の時は私は家族を連れて逃げますから皆さんも各自の判断で行動して下さい」と言われ、えらく緊張した記憶を今も思い出します。
原発は安全だと言われ続け、恐怖を感じること無くそこで生活していた近隣住民にとって事故はどれほどの恐怖を与えたでしょうか。簡単には平静に戻れないでしょう。PTSDなどは本人の心がけや工夫で何とかなるものでは無いので専門家のサポートが必要です。
東海村臨界事故からの教訓は得られたのか?
2019年2月現在、日本国内で運用中の原子炉は37基、廃止・解体中が22基、現在計画中・建設中が青森県下北郡大間の1基と山口県熊毛郡の2基。停止中と運用中を合わせるとナント!59基もあるのです。悲惨な出来事から何を学んだのでしょうか。なぜこんなにも増え続けたのでしょうか。
当時は大事として捉えていなかった
現場から500メートルしか離れていない場所に小学校や幼稚園があり、事故の2日後には再開されています。現場から一番近い学校と幼稚園だけでも休校にした方がという意見が出ても、「安全宣言が出ていますから」と再開されたそうです。
後に周辺に放射能が漏れていた事が暴露されるのですが、情報が無くても「万が一という事がある」という認識があれば違う選択をしたのではないでしょうか。事故後の村議会でも「原発のおかげで村が豊になっている」ことが評価されていて、事故後も意識の変化はそれほど無かったと当時の村議が話しています。
東海村臨界事故のその後
「小さな会社がいい加減な事をしたから事故が起きた」という総括をして、あくまでも原子力は安全だという考えを推し進め、人の力の及ばない天災に見舞われ福島第1原発の事故が起きました。その時に言われたのが「想定外」という言葉でした。想定内であろうと無かろうと覆水盆に返らず、今でも一部の地域は線量が高く家があっても住むことが出来ないでいます。
原発大国日本の未来図
世界が放射能で汚染され地上に人がすめなくなり、遠くイスカンダル星へ放射能除去装置を受け取りに行くというアニメ映画がありました。そんな日がいつか本当に来るのではないかと思えてしまいます。現実はイスカンダルへ行ける宇宙船なんてものは無く、人は滅びるしか無いかもしれない。
一つの原発施設を使えるのは、どんなに寿命を先延ばししても50年がいいところです。プルトニウムやウランの半減期(放射能線を出す能力を放射能と言います。半減期は放射能が半分になるまでの時間)は気が遠くなるほど長く、プルトニウム239の半減期は2.4万年、ウラン238の半減期は45億年です。
原発跡地はどうなる?
一度原発に使われた土地は、たとえ運用を止めても短く見積もっても10万年は何の用途にも使えない、人が近づくことさえ出来ないのです。いま稼働している原発が寿命を迎えることを見越して新たに原発をと増やしていけば、使えない土地がどんどん増えて行くのです。
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電気無しでは暮らせない?
現代に生きる私達は日々、電気の恩恵を受けています。電子レンジが壊れて二度と手に入らなかったら「もう料理なんて出来なーい」とまでは言いませんが、とっても困ります。日々の消費電力を減らすために私が日々やっている事といったら、炊飯器を使うのをスパッと止めたことくらいでしょうか。
美味しく炊けなくなったので、買い替えを検討しましたが気に入った物は高額でビックリしてしまいました。それならばと一万円で「かまどさん」という土鍋を購入し、以来ご飯は土鍋で炊いています。近い将来、安全でクリーンなエネルギーを必要なだけ使える日が来ることを願いつつ、今は出来ることをするのみです。
東海村臨界事故は二度と繰り返されてはいけない事故!
日々の糧を得るために、何も知らされず危険な仕事をして命を失った人がいます。家族を失った人がいます。体調不良に苦しみ仕事を失った人がいます。風評被害で死活問題に陥った人がいます。こんな悲しい事が二度と起きてはいけません。
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