【青木悠君】身体障害を理由としたリンチ事件の被害者。犯人、家族の現在など

青木悠君は2001年、滋賀県で起きたリンチ事件の被害者です。中学生の時の事故が元で身体に重い障害を負いながらも懸命にリハビリし生き抜こうとした矢先の悲劇。この記事では、そんな青木悠君の生い立ちや事件の概要、青木悠君の家族や犯人の現在などをまとめました。

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趣味と実益を兼ねて数秘カラーセラピー歴3年。看護師経験も有り。自分自身のリフレッシュのため、自然を求めて出かけます。
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青木悠君とは?

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2001年3月の末、とても少年のした事とは思えない凄惨なリンチ事件の被害者となった少年です。交通事故の後遺症のために左半身が不自由で身体障害2級の手帳を持っていました。助かっても植物状態だと言われた少年は懸命に頑張ってリハビリに励み、足を引きずりながらも何とか歩けるところまで回復していました。

青木悠君リンチ殺人事件の概要

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2001年3月31日、旧少年法の最後の日に事件は起きました。その事を加害少年らが解っていたかは不明ですが、改正前であったために被害者家族は非常に悔しい思いをすることになりました。事件はどのように起きたのでしょう。

2001年、青木悠君は友人の嘘により呼び出される

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努力の末に全日制高校に進学が決まった少年は友人の嘘を疑うことなく呼び出されました。友人が付いた嘘は「お祝いにカラオケおごってやる」という心にも無いものでした。待ち合わせ場所はリンチの現場となる大津市立平野小学校です。

見張り役3人と少年2人に取り囲まれ壮絶なリンチを受ける

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待ち合わせ場所には直接の加害者2人の他に3人の見張り役、合わせて5人の少年が待ち受けていました。特にリンチ実行者の2人は最初から、身体障害者である少年をボコボコにするつもりで待ち構えていたのです。少年は左半身が不自由でやっと歩ける程度でしたから、たとえ危ないと思っても、走って逃げるどころか身をかばう事さえ出来なかった筈です。

どれほど恐ろしかったでしょう。犯人の1人は空手3段です。空手の有段者が高さ60センチのコンクリート台からバックドロップで頭から地面に叩きつけるという事を2度もやっています。犯人の動機については後に触れますが、全く理由にもならない理不尽な動機で酷いリンチに合わされたのです。

リンチ後発見、病院で治療を受けるが、事件から数日後に死亡

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意識を無くして横たわる少年を放置して加害少年らはパチンコに出かけ、主犯の少年は「オレとB(もう1人の加害者)でボコってやった」と自慢して歩いていました。その自慢話を聞きつけた少年の友人から話を聞かされた少年の母親が救急車を手配し、病院へ運ばれたのはリンチを受けてから3時間も経ってからでした。

友人とカラオケに行くと楽しそうに出かけていったのですから直ぐには信じられず、救急隊には一刻も早く!と要請しながらも頭の片隅では「間違いだったら謝れば良い」と考えていたそうです。

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頭ばかりを集中的に痛めつけられた少年は、病院についたときには「助かる見込みは1%も無い状態」で、それでも数日の間、必死に心臓を動かし続け亡くなりました。

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青木悠君を殺害した少年2人の処分、裁判の行方は

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犯行が行われたのは少年法が改正されるギリギリ前日だったのです。そのため犯人少年らは旧少年法で処遇されることになりました。旧少年法は処罰よりも、少年の更生に重きがおかれていました。もちろん名前が好評されることは無く、手厚く保護されることになりました。

直接暴行を加えた少年2人は少年院へ

少年Aと少年Bとしましょう。Aは空手3段、「あなたの10年後」について書いた中学の卒業文集には「人を殺して指名手配」のような事を書いていたそうです。冗談でも卒業文集に書くことではないでしょう。

いったい少年Aはなぜこんな事を書いたのか、なぜ、これを見た大人は何も思わなかったのでしょう。もう1人は当時、内装工事の作業員で非行歴は1回、補導歴17回となっています。A,B両名ともに刑事裁判に掛けられること無く、中等少年院に送致が妥当と判断されました。

事件を傍観していた3人は不処分に

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暴行を加えた2人の他に3人の少年が居て、止めに入るわけでもなく傍観していました。この3人は不処分になっています。暴力行為を止めないことが罪になるかどうかは、暴力を行っている人や被害にあっている人との関係性も考慮されるようです。

関係者全員が未成年で、友人あるいは顔見知り程度の知人であり、空手3段が暴れているとなればやむを得ないと判断されたようです。

2001年、青木悠君の親が加害者家族に起こした裁判は和解成立

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2001年の8月に少年A、Bと保護者の計5人に対して1億円の損害賠償を請求しています。A,Bが少年院を出た2003年6月に和解協議が行われ両名も出席しています。

その席で、事件当時に被害少年が身につけていた泥だらけのシャツを見せられ、Aは泣きじゃくりBは「申し訳ありません。一生かけて償います」と頭を下げました。5名で計6000万円を支払うことで和解が成立しました。

2004年、青木悠君の親が傍観者家族に起こした裁判は棄却

傍観少年3名とその保護者に対しても計3000万円の損害賠償を求めましたが、こちらは2006年5月15日に大津地裁で棄却されています。3人は見張り役だったことを否定しており、死亡は予見できず通報の義務も無いと主張しています。また、「止めに入ったら何かされると思った」とも証言しています。

3人は直接暴行しておらず制止の法的義務も無いと判断されました。同じ年の12月には大阪高裁でも地裁判決を支持しており、「法的責任は問えない」と判断し訴えを棄却しました。

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最高裁に上告しましたが、2008年2月、「少年らに救護義務があったとは言えない」として訴えを棄却しました。最終的に多数決で決まるのですが、5人の裁判官のうち2人は消防に通報すべきだったと反対意見を付けていました。

青木悠君の家族の現在は?

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事件が起きてから18年という歳月が流れました。事件から1年過ぎた頃からお母さんはHPに日記を綴っています。日記は2007年まで続いていました。おじいちゃんの佃煮屋を継ぎたいという少年の夢を母と長男で引き継いでいるそうです。長男は家庭を持ち、お子さんもいらっしゃるようです。今は家業で忙しく過ごしていらっしゃると思います。

大切な息子を奪われた痛みや悲しみは癒えることは無いかも知れませんが、ある時、長男に言われたそうです。「生きている僕のことも大切にしてほしい」と。その言葉がきっかけになり、裁判が終わった頃から気持ちを切り替えていかれたようです。事件後から時間が許す限り「生命のメッセージ展」に参加しておられ、少年法を廃止する運動に関わっていきたいと書いています。

青木悠君を殺害した少年2人、事件を傍観していた3人の現在は

当時15歳と17歳だった2人の少年は旧少年法が適用されており、刑事裁判を受けること無く中等少年院で2年間の更生教育を受け社会復帰しています。もちろん名前などは一切公表されておらず、現在どこで何をしているか等は一切わかりません。事件を傍観していた3人については「法的責任を問えず」という最終判断が出ており、普通に暮らしていると思われます。

青木悠君の生い立ち

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殺害された少年はどんな子供時代を過ごしてきたのでしょう。お母さんが公開しているHPから辿ってみました。交通事故にあい、良くても植物状態と言われたのに歩けるまでに回復した彼はスポーツに打ち込み身体は鍛えられていたようです。

幼い頃から文武両道の子供だった

少年の母親は育児休暇など無い時代に大手企業に勤めていて、出産後4週間ほどで職場復帰し保育園や祖父母の元で過ごす時間が多かったそうです。当時から母子家庭だったようです。平日は仕事で帰りが遅かったそうですが、土日は母親が父親役もこなしていたようです。

少年が小さかった頃はお母さんが習い事に熱心で、父親が居ない分、将来のためにもなんでも身につけさせてやりたいと思ったのでしょう。絵画も水泳も最初は泣いて嫌がったそうですが、元々運動神経が良く絵画は先生の指導が良かったこともあり写生大会では毎回入選したそうです。

小学校、中学校とサッカーやバドミントンなどスポーツに打ち込んだ

小学校4年からは3年間、スポーツ少年団でサッカーを1日も休まずに続けており、当時の少年の夢は「Jリーグに入ってお母さんを一生楽させてあげる」だったそうです。お母さんは少年の成長をどれほど楽しみにしていたでしょうか。

その頃にはサッカーに打ち込むため、他の習い事は止めたそうです。シューズが小さくなって爪が剥がれても「新しいのを買って」と言わない我慢強い子でした。

中学でバドミントンに打ち込んだが一度の不祥事で退部

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中学では、サッカーでレギュラー入りは難しいと判断し少年の兄が入部していたバドミントン部に入りました。1年生で副キャプテンになり2年になったらキャプテンにと言われていたそうですが、ある時、少年は当時のキャプテンに対して暴力を働いてしまいます。

自分がキャプテンになったら「ああしたい、こうもしたい」とたくさんの考えや思いがあった少年は、何もしない大人しいキャプテンを蹴ってしまったのです。そのことが原因で、少年は退部させられてしまいました。母親とともに、どれだけ謝っても部に戻れるようお願いをしても聞き入れては貰えなかったそうです。

中学3年の時、交通事故で左半身付随となる

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バドミントンを止めたのは彼にとって不本意でしたが、その頃、通っていた塾も本人の希望で止めています。頭の良い少年でしたが好きで打ち込んでいた事が出来なくなり塾だけを続ける気にならなかったのでしょう。やることが無くなった彼は暇を持て余し夜遊びもするようになったようです。

そのような背景がある中で、中学3年の8月18日の0時35分ごろに彼は交通事故に合いました。同乗していたバイクと車の事故でした。頭を強く打ち重体、頭の右側を損傷していたため良くても左半身が一生動かないと言われたそうです。

必死のリハビリで自力で歩けるまでに回復

低体温療法という治療で意識を取り戻し、8月29日、少年はICUで誕生日を迎え脳外科医の問いかけにピースで答えるまでに回復していました。その後、ICUからHCU(ハイケアユニット)、そして4人部屋へと移りベッド上生活から車椅子、装具を付けて歩行訓練へと進んで行きました。

若くてスポーツをやっていたとは言え、身体の片側が麻痺して動かない状態での歩行訓練は「血を吐くような」と言っても大げさではありません。死に物狂いでリハビリに取り組んだ事がわかります。

青木悠君がリンチされた理由とは

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何とか歩けるようになり退院した少年は、昼間の時間をリハビリに使えるよう定時制高校に進学しました。

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