悪の象徴・チャールズ・マンソンとは?
全米を恐怖に陥れた連続殺人事件の黒幕、チャールズ・マンソンという男。まさに死神のような彼が築き上げたカルト集団をその信者と共にご紹介します。
カルト集団の指導者
チャールズ・マンソンが出所した1967年、アメリカではヒッピーブームが到来していました。まさにマンソンのようなアウトローは女性に人気がありました。それを十分に理解していたマンソンは髭や髪を女性にウケの良いように綺麗に手入れし、持ち前の口の上手さを生かして数々の女性を口説き落とし洗脳しました。
彼を崇めるマンソン・ファミリー
まず、図書館で働くアリーという女性を口説き彼女のアパートで同棲を始め、次々に口説き落としをカルト集団を大きくしました。大きくなったカルト集団はロス郊外の牧場へと引っ越しマンソンファミリーの女性との性交渉を引き換えに定住することを認めてもらいました。引っ越した頃にはマンソンファミリーは24人にも増え、マンソンの子供を出産した女性もいました。
恐怖の連続殺人事件概要!
2つもの殺人事件に関与したチャールズ・マンソン。どちらの事件も直接マンソンが手を下した訳ではなく自分の信者を教唆して殺害しています。悲惨な事件の全貌を残されいたメッセージとともに詳しく説明していきます。
惨殺された2つの事件
1969年8月9日、ロサンゼルスでロマン・ポランスキー(映画監督)の妻である女優のシャロン・テートが来客中であった知人と共に自宅で殺害された。シャロンは当時臨月で出掛けていた夫・ポランスキーの代わりに知人をもてなしていました。そして翌日来客中の知人らと共に遺体で発見されました。翌朝の8月10日同じくロサンゼルスでスーパーマーケットのチェーン店オーナー、レノ・ラビアンカと妻のローズマリーが、自宅で遺体で発見された。
犯行には血のメッセージが
チャールズ・マンソンは殺人を教唆するだけではなく血のメッセージを残すことも命じていました。女優のシャロンの時は、Political Piggy(直訳すると政治、子豚)と書き残し挑発するメッセージを残しています。ラビアンカ邸には、壁にDeath to Pigs(豚は死ぬ)やRise(立ち上がる)と書いてあり冷蔵庫にはHealter Skelter(混乱した状況)と残されていました。
マンソンは自分の信者を先導し人間同士の争いをを引き起こし、戦争を起こそうと画策していた。その一方でマンソンが嫌っていたブラックパンサーのシンボルを書き犯行をブラックパンサーに見せかけようともしていました。
全ての黒幕:チャールズ・マンソン
これらの2つの事件の首謀者はチャールズ・マンソンです。彼が直接手を下して殺した訳ではではありませんが、彼に心酔している彼の信者たちが動き悲惨な事件が起きしました。
事件から3カ月ほど経った頃、ロサンゼルス警察に電話がありました。マンソンファミリーのスーザンが事件に関わってるという電話でした。ビアンカ事件を起こしたのは私たち、ビアンカ事件に関与したのは素晴らしい指導者を持つマンソンファミリーの信者と発言していました。信者を心酔させて直接手を汚すことなく人を殺すチャールズマンソン、まさに黒幕です。
アメリカ中を震撼させた恐怖の渦!
アメリカ中を恐怖の渦に巻き込んだチャールズ・マンソン。事件によって彼が世間に与えた影響はとても大きいものでした。どのような影響が出たか詳しくお話しします。
スターがこぞって消えた!?
この2つの殺人事件により裕福なセレブや芸能人などがターゲットだとささやかれ、ロサンゼルス在住のスターが街を離れるようになりました。一部では麻薬やマフィア絡みの事件では?という憶測もあり、デビュー当時からイタリア系のマフィアと深い関係だと噂されていたフランク・シナトラ(映画俳優・歌手)もロサンゼルスを離れました。
ピストル200丁が数日で完売!?
2つの殺人事件では被害者の刺し傷が200ヶ所近くあり、銃で撃たれた跡がありました。ロサンゼルスの住民は得体の知れない殺人鬼に恐怖し、もし家に押入られたとき自分を守るために拳銃を買いに銃販売店に殺到します。ところが、余りに多くの人が銃販売店に殺到したため店によってはピストル200丁がわずか2日足らずで売れ切れる事態となりました。
ロサンゼルス住民が大パニック!?
マンソンファミリーが起こした2つの殺人事件によりロサンゼルス住民は深い恐怖と混乱に包まれました。得体の知れない殺人鬼の様々な予想が飛び交い麻薬やマフィア絡みの事件、金持ちを狙った事件など多数の憶測が流れました。麻薬絡みであるという憶測が出て、薬物をトイレに流す人が殺到し下水が詰まるなどのハプニングが起こりました。
日本でも風化させてはならないとても残虐な殺人事件がありました。その記事はこちらです。
日本で起きたカルト集団による恐怖の事件
チャールズマンソンが引き起こした事件は別の国の他人事ではありません。日本でもカルト集団による事件が起きています。次は日本で起きたカルト集団による恐怖の事件を紹介します。
地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件とはオウム真理教が起こしたテロ事件です。1995年3月20日の朝の出勤ラッシュの電車が最も混み合う時間帯に東京都内の地下鉄で化学兵器である毒ガスサリンがばら撒かれました。サリンは電車が発車する直前に撒かれ、多くの乗客がそのままサリンに接してしまい13人の死者と約6000人もの負傷者が出てしまいました。
サリンをばら撒いたとされる実行犯は一人を除き死刑になり教団の指導者も死刑になりましたが今でも寝たきりの負傷者や後遺症を負った被害者、PTSDになった被害者などが数多くおり負傷された方の苦しみが癒えることはありません。
法の華・巨額詐欺事件
この事件は病気が治った体験記などの本を100冊以上出版している法の華による被害総額600億を超える巨額詐欺事件です。本を街頭で無料配布を行ったり、ポストに配布しています。本の内容に興味を持ち連絡してきた人に足裏診断や法の華の講演に誘います。そして実際に参加した人の不安を煽り研修を促し研修の参加費用と称して金銭を巻き上げました。
パナウェーブ研究所・障害事件
パナウェーブ研究所とは福井県を本部とするカルト集団であり、スカラー波という有害な電波から身を守るためと言って白装束を着ていた集団です。2003年8月にメンバーの数人が福岡教育大学の助教授で中枢幹部だった男の人を団体敷地内のテントで殴打し死亡させる事件が起きました。メンバー全員に事情聴取を行ったところ、精神を高めるために棒で体をたたくといった暴力行為が日常的に行われていたことが発覚しました。
チャールズ・マンソンはどのようにして生まれたのか
悲惨な事件の黒幕であるチャールズ・マンソンはどのようにして生まれどのような人生を送ってきたのでしょうか。マンソンの過去を結婚歴や逮捕歴をまじ
育児放棄の過去
売春婦の母親の元にチャールズ・マンソンは産まれました。望まぬ妊娠で生まれたマンソンは育児放棄されしばらくの間、名前がありませんでした。数ケ月後にチャールズと名付けられ、母親の僅かな間の結婚相手のマンソンという姓を貰いました。母親が強盗罪で逮捕されたためチャールズは5歳で祖母と叔父と叔母のところへ預けられました。
少年院で過ごした少年時代
最初の逮捕は9歳で学校を放火し少年院に入れられました。マンソンの母は仮釈放後一旦はマンソンを引き取ったものの孤児院に送りマンソンを育てることはありませんでした。孤児院を脱走しストリートキッズとなったマンソンは生きるために犯罪を繰り続け、7つもの少年院を転々としました。
大人になり家庭を持つも再び逮捕…
19歳のときに仮釈放されたマンソンは翌年にレストランで働く女性と結婚しました。しかし、マンソンはまた犯罪に手を染め窃盗で逮捕されてしまったのです。妻は息子を出産しましたが、妻の不倫で結婚して離婚しました。仮釈放後は売春斡旋などをし生活をしていたマンソンでしたが、1年後に小切手を偽造し逮捕されました。付き合っていた女性がマンソンの減刑を訴え2人は結婚し息子が生まれましたが4年後に離婚しました。
社会への復讐を誓った30代
チャールズ・マンソンが32歳で出所した時にはもう人生の半分以上を少年院や刑務所で過ごしていました。マンソンはサンフランシスコにて新たな人生を始めると決意し、マンソンを拒んだ社会に報復しようと試みます。そして報復の実現を目指しカルト集団のリーダーになりました。