水槽の脳とは?
「水槽の脳」とは、1982年にアメリカの哲学者ヒラリー・パトナムが考案した思考実験の一つです。思考実験とは文字通り頭の中でのみ行う実験のことで、実際に実験器具を扱うわけではありません。パトナムは生前水槽の脳以外にも、多くの機知に富んだ思考実験を残しています。
現実は水槽の中にある脳が見ている夢
実験内容について簡単に説明します。ある科学者が誰かから脳を摘出して、特殊な培養液に浸します。そして、その脳の神経細胞をコンピュータに繋ぎ、電磁刺激によって脳波を操作します。そうすることで、普通の人と同様の意識が脳内で生じ、仮想現実が構築されます。今あなたが目にしている世界もまたコンピュータによる幻かもしれないのです。
単なる仮説では終わらない
これは哲学者だけの命題ではありません。近年、この宇宙はシミュレーションに過ぎないのではないかと考究する科学者が増えているのです。アイザック・アシモフの追悼記念討論会にて、理論物理学者ジェームズ・ゲーツ氏は「シミュレーション仮説を信じたくはないが、数学的にはそう思わざるをえない」と話しています。
水槽の脳は証明可能なのか?
脳は、千数百億個もの脳神経細胞から構成され、電気信号によって情報のやり取りを行っています。そこから考えると、人間の一生分の思考をシミュレートした上で、適切な電磁刺激を送り続ける超高度なコンピュータがあると仮定すれば、水槽の脳は確かに証明可能な説であるかのように思われます。
証明は難しい問題
たとえば、ある日あなたが何らかのきっかけで「この世界は仮想現実だ」と気づき、目を醒ましたとしましょう。しかし、それは「目を醒ました」うちに入りません。なぜなら、「自分はたった今目醒めた。この世は仮想現実だったのだ」と確信を抱くあなたもまた脳が見ている夢の一部に過ぎないかもしれないからです。
水槽の脳は議論することが目的
結局、どこからが現実でどこまでが夢なのかを知る手立てはないというのがこの実験の結論です。パトナム自身もこの実験の目的は、形而上学実在論の否定であると説明しています。形而上学とは、簡単に言えば自然の摂理を無視して物事を考える学問のことで、しばしば哲学と混同されがちです。証明の是非ではなく、議論自体が目的なのです。
哲学者たちも唱えていた「水槽の脳」説
この世界が本当に実在するのかどうかという問いかけを始めたのは、何もパトナムが最初ではありません。事実この実験は、哲学者イマニュエル・カントの認識論がベースとなっています。認識論とは、人間の認識の性質や限界について探る営みを指します。いわばカントは私たち人間の知ることができる限界を探っていたのです。
フランスの哲学者ルネ・デカルト
デカルトは真理を発見するため、あらゆるものに対して懐疑的でした。現実どころか夢さえも疑う彼は、「もし全知全能の悪魔が私を欺いているとしたら、本当は1+1=5であるのに『1+1=』と私が思考する度に、悪魔に欺かれて『2』を導き出している可能性」があるとまで考えていました。
この思考法を「方法的懐疑」と呼びますが、日頃当たり前だと見過ごしているものが嘘かもしれないという点に、水槽の脳と酷似したものを感じませんか。目に映る現実は偽りで、本当の現実は認識の外にあるという点が共通しています。
ドイツの哲学者イマニュエル・カント
カントによれば、私たちの暮らす世界は、生まれつき与えられた鋳型で加工されたものに過ぎません。それゆえ、私たちが本当の世界の姿を知ることは敵いませんが、一方で本当の世界は実在すると主張しています。なぜなら、元となるデータなくして加工はありえないからです。
このカント哲学をわかりやすい形にしたものが、水槽の脳であると考えることができます。もっとも本物の世界の実在を肯定するカントに対し、パトナムが出した結論は、本物の世界の有無は証明できないというものでした。
水槽の脳を否定する意見も多い
この世界はコンピュータが構築したに過ぎず、本物の世界は別にあるのではないか。オックスフォード大学の教授であるニック・ボストロム氏やスペースX社CEOであるイーロン・マスク氏もこの説に賛同する一方で、物理学的観点からこれをありえないと主張する学者も存在しています。
世界を作り出せるコンピュータはありえない
理論物理学者ゾハール・リンゲル氏とドミトリー・コブリジン氏は、論文の中で「世界をシミュレートするだけのメモリーを持つコンピュータを開発するには、全宇宙の原子を集めても足りない。だから、この世界が仮想現実であることはありえない」と証明しました。
しかし、ここでもう一つの仮説が浮かびます。私たちが認識している「現実」的にありえないとしているその「現実」もまた、水槽の脳が生み出した架空の「現実」に過ぎないのではないでしょうか。つまり、物量的観点から不可と証明したところで、それが正しいかはわからないということです。
水槽の脳を作る意味がない
仮にコンピュータの技術が進化を続け、宇宙全体をシミュレートできるほどのものが開発されたとします。しかし、一体誰が何の目的でそのようなシミュレーターを操作しているのでしょう。膨大なコストを費やして、宇宙規模の仮想現実を維持する確かな理由などあるのでしょうか。
中には「この世界はコンピュータが作り上げた偽物であり、そこに生きる我々は宇宙人の玩具である」と考える人もいます。一見すると馬鹿げた話ですが、人類が昆虫などの小動物を研究対象にしていることを思えば、完全な否定は難しいのかもしれません。
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エポケーにより現象として認識する
哲学者エトムント・フッサールは、「水槽の脳」に対して一風変わった捉え方を提唱しています。この世界が仮想現実か否かという判断は一旦停止して、意識の中に自然と現れてくるものだけを表現しようと言うのです。この一旦判断を中止することをエポケーと言います。
たとえば水槽の脳の前にマグカップがあるとします。水槽の脳が認識している以上、そのマグカップは実在しません。しかし、意識の中に現象として現れたマグカップは、そこに確かに実在します。この世界が仮に架空の存在であったとしても、フッサールの発想から生まれた「現象としての世界」は揺るぎようがないのです。