般若の意味はなかなか複雑
「般若(はんにゃ)」と言うと能などで使われる、角の生えた怖い顔のお面をイメージする人が多いと思います。しかしそもそもなぜそのような面を般若と言うのでしょうか?元々その語源は怖い鬼を連想させるような意味はなく、意外と複雑な背景がありました。
般若とは本来仏教用語
本来はサンスクリット語で「智慧」を意味します。これは判断やアイディア・知識の意味で用いられる「知恵」とは異なり、仏教において真理に即して物事やその道理を見極める心の働きを言います。しかし、実を言うとこの意味と般若の面との関係はあまりありません。
般若が般若の面を意味することもある
現代で「般若」と言うと面を指すことが最も一般的かと思います。これは能で使われる面で、嫉妬や悲しみ、怨念によって形相が変わってしまった女を表現しています。2本の角や眉をしかめた表情が特徴です。
般若を他の意味で使う場合もある
般若の面から転じて、別の意味で使われている場合もあります。例えば、嫉妬や恨みを持った女性のたとえとして用いたり、恐ろしい表情のことを般若のような形相という言い方をしたりする場合もあります。
般若の面の名称の由来は?
般若と言うのが元々仏教用語だというのはわかりましたが、その元来の意味と能で使う面とはあまり関係がないようです。ではなぜ恨みを持つ恐ろしい表情の女の面をそう呼ぶようになったのでしょうか。由来には諸説ありますが、有力なもの2つをご紹介したいと思います。
鬼の面を作った般若坊という僧の名前から
昔、僧であり面を作る能面師であった男がおり、元々優秀な腕を持っていましたが仏の力を借りてもっと素晴らしい面を作りたいと自らを般若坊と名乗るようになりました。そうしてさらに面作りに励んだ結果、素晴らしい能面を作れるようになり、特に鬼の面は非常によくできていました。
そうして般若坊の作った面は人々から褒め称えられるようになりました。しかし噂が広まるうちにだんだんと作り手を示していた言葉が鬼の面そのものを指すようになり、今に至ったと言われています。
嫉妬心を持つ生怨霊を般若心経を読んで退治したから
仏教には般若心経という有名なお経があり、これを使って生霊を退治したために、鬼を示す隠語のような形で鬼=般若と言われるようになったという説もあります。有名な古典『源氏物語』では、六条御息所という女性が嫉妬し生霊になりますが、祈祷によって祓い除けたというエピソードがあり、その祈祷に使用したのが般若心経だと言われています。
その他の仏教にかかわる美術「地獄絵図」についてはこちら。
鬼を退ける般若心経とは?
般若の面の名前の由来になったという説もある般若心経。名前くらいは聞いたことがあるかと思いますが、いったいどんなお経なのか知っていますか?そもそもお経に意味があったの?という人もいるかも知れません。その意味について解説していきます。
複数の宗派で使用される有名なお経
正式名称を「般若波羅蜜多心経」といい、元々はサンスクリット語の経典を漢文に翻訳したものです。実は翻訳した人によって8種類ありますが、『西遊記』でも有名な玄奘三蔵法師が訳したものが最も一般的です。浄土真宗と日蓮宗では用いられませんが、天台宗や曹洞宗、真言宗など幅広い宗派で、それぞれの解釈のもと唱えられています。
262文字で仏教の真髄を説く
般若心経自体は262文字しかない大変短いお経ですが、その中で本質的に変わらないものはないという「空(くう)」の概念を説いています。これは仏教で非常に大事な概念です。これを理解することが悟りを開き、智慧を完成させるためには不可欠です。では空とはどんな概念なのでしょうか。
例えばパンは、小麦粉などをこねて焼いてあればパンですが、材料があるだけではパンではないし、同じ材料でも違う人が作れば違う形や味になるかもしれません。仏教ではこの材料にあたるものを「因」、作る人や環境などを「縁」と呼び、全てはこの因縁が揃うことで初めて存在し、それが離れると別のものになると考えます。
般若心経は身近なお経
般若心経は古くは病気を治すお経とも言われ、病にかかったときはお守りにしたり写経をしたりして祈願する風習があったほか、「耳無し芳一」などの物語でも登場しています。現在では病気平癒の信仰はありませんが、写経の際によく用いられるほか、手ぬぐいや扇子、帯などに印刷したグッズなども販売されています。
般若の面は鬼になった女の能面
この面は妬みや怨念などによって鬼になってしまった女を表しています。なんとなくのイメージはあると思いますが、じっくりよく見たことはないですよね。ここではその造形や表情を詳しく見ていきたいと思います。
嫉妬や恨みに満ちた鬼女の面
悲しみや怒り、恨みなどが極限に達し、自らを鬼に変えてしまった女を表現した般若の面は、角が生え、目は金色に光り、眉をしかめて頬は硬直し、大きく開いた口からは牙も見えています。一方で、角の周りに髪の毛があったり、おでこの上の方に描いた置き眉が残っていたりと人間の女性であった面影も残しています。
般若の面は進化する
実は女が鬼に変わるまでには段階があり、般若はその変化の途中の段階です。般若になる前、まだ女性の表情が残る「生成(なまなり)」から、般若を経て、完全に化け物と化してしまった「真蛇(しんじゃ)」となります。
般若の前段階:生成
生成はいわば「鬼になりかけの女性」を表現しています。そのため、貴族の女性らしい髪の毛や置き眉もしっかりあり、目つきも女性らしさを残しています。しかし頭には小さな角が生えてきているうえ口元も大きく開き牙もあり、人間であることに未練を残しながらも鬼に変化していく様子をよく表しています。
般若の後段階:真蛇
真蛇はもうすっかり鬼(蛇)に変化してしまった姿なので、元の女性らしさはありません。金色の目は大きく開き、あごは突き出て口元は裂けて真っ赤な舌を出しています。髪は前に垂れ下がり、耳もなくなっているのも特徴です。最初の段階を生成というのに対し、般若を中成(ちゅうなり)、真蛇を本成(ほんなり)という呼び方もあります。
能に登場する般若の面
そもそも能とは日本の伝統芸能のひとつで、超自然的なものをモチーフにした高尚な内容の歌舞劇のことを言います。その中で般若の面は主に鬼女物と呼ばれる曲目で出て来ます。その代表的なものを見てみましょう。
葵上
『源氏物語』のエピソードがモチーフになったものです。光源氏の正妻である葵上は光源氏の愛人である六条御息所の怨霊に取りつかれ危険な状態になっていました。怨霊は巫女によって姿を現し、葵上の姿を見ると嫉妬に駆られて鬼女に変身します。ここで般若の面が登場します。鬼女は最後には修験者の祈祷によって浄化されるという話です。