【月ヶ瀬村女子中学生殺人事件】差別や村八分がきっかけとなった悲しき事件

記者やマスコミは村に押し寄せました。彼らの目当ては、早くから犯人の可能性があると怪しまれていた丘崎誠人です。彼が目を付けられていた理由は、現場にタイヤ痕を付けた車に近い大型の四駆を、彼が所有していたからでした。

しかし、県警は決定的な証拠を見つけられないままでした。丘崎は記者やマスコミのインタビューに堂々と受け答えし、さらには、村人による充代さんの捜索にも加わっていました。

丘崎誠人逮捕

事が起こってから2か月近くたったころ、県警はついに、売却された丘崎の車から決定的な証拠を採取しました。シートに付着した血痕のDNAが、被害者のものと一致。タイヤ痕もこの車のものと判明します。丘崎は逮捕されました。容疑は略取誘拐です。

当初丘崎は容疑を否認し、被害者の行方は分からないままでした。しかし、8月1日になって犯行を認め、自供を始めます。彼が態度を改めた理由は、証拠を突き付けられ観念したとも、刑事に諭されて心変わりしたとも言われています。丘崎の自供により、とうとう白骨化した少女の遺体が発見されました。

月ヶ瀬村女子中学生誘拐殺人事件の犯人丘崎の生い立ち

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いったいなぜ、一人の少女の命が無残にも奪われてしまったのでしょうか。その理由は、犯人が犯行に手を染める25歳になるまで、いかなる人生を送ってきたかというところにありました。まずは、丘崎の素性と、彼の家庭の状況に焦点を当てて、その実情を見ていきます。

両親のルーツは朝鮮

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彼の両親は正式な婚姻関係にない、いわゆる内縁の夫婦でした。ダムの労働者として働いていた父親は、まじめで働き者という評判がある一方で、母親は不誠実で奔放な性格だったとも言われています。そんな二人の共通点は、ともに朝鮮人と日本人との間に生まれたことでした。

30年前に月ヶ瀬村に引っ越してきた

丘崎家が隣村から月ヶ瀬村の嵩地区へ移り住んだのは、約30年も前です。住む場所を用意したのは、奇しくも、殺された少女の祖父でした。当時、民生委員を務めていた少女の祖父は、貸し渋っていた家主に口を利かせ、彼らに家をあてがったのです。

物置小屋のような劣悪な環境で貧しい生活を送る

丘崎家が月1万円ほどの家賃を払い、生活していた住居は粗末ものでした。トタンの屋根とベニヤ板の壁でできた物置小屋のような建物で、隙間風が入り込み、ネズミが走り回ってている状態だったといいます。その上、トイレはなく、外に掘った穴で用を足さざるを得ないという、非常に劣悪な居住環境でした。

事件のきっかけ①月ヶ瀬村に残る悪しき慣習

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凄惨な出来事は、豊かな自然に囲まれた小さな村で起こりました。しかしそれは、人口が少なく、人の出入りが乏しい、歴史ある集落だからこそ、起こるべくして起きた事とも言われています。犯人の生まれ育った村は、どのような集落だったのでしょうか?そこには現代の世にそぐわない、前時代的な慣習があったのです。

与力制度が今も存在する

江戸時代、幕府は農村を統治するために「五人組」という制度を敷きました。何軒かの家ごとに組を作り、村人が村人を監視し、扶助し、何かが起これば連帯責任を負うというものです。与力制度は、この五人組を起源とします。村落における複数人の代表者「与力」が、以下のように、村のあらゆる活動を取りまとめ、責任を負うというものです。

与力の役割と区入り制度

  • 村内で葬式があった際は、その運営を務める。
  • 村内で家を建てたり、増改築する際はそれを手伝う。
  • 村人が結婚する際は、親族代表としてあいさつする。
  • 村人同士で争いやトラブルがあった際、それを取りなす。
  • 出産や祝い事の時に親類として付き合い、他の家に迷惑をかけた際は親類として詫びを入れる。

このような村人同士の付き合いや助け合いの恩恵は、村の一員として認められるという意味の「区入り」によって得られます。新しく村に移り住んだ家が区入りを果たすには、2人の与力による推薦が必要です。

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