【月ヶ瀬村女子中学生殺人事件】差別や村八分がきっかけとなった悲しき事件

月ヶ瀬村という小さな村で起きた月ヶ瀬村女子中学生殺人事件。女子中学生が殺害されたこの事件の裏側には、月ヶ瀬村で行われていた悪しき村八分の風習がありました。両親が朝鮮のハーフというだけで壮絶な差別を受けた犯人・丘崎誠人が犯行に至った経緯と、彼の心の闇、事件のその後について詳しくまとめました。

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月ヶ瀬村女子中学生誘拐殺人事件

消費税が5%となり、映画「もののけ姫」が公開された年、1997年、ある悲惨な出来事が世間をにぎわせました。13歳の少女が行方不明となり、最終的に、無残な遺体となって見つかることとなったのです。

全国ニュースで大々的に取り上げられたこの事件は、山と川と茶畑に囲まれた、人口の少ない小さな村で起こりました。のどかだったはずの村を震撼させた事件の内容とは?少女の身にいったい何が起こったのか?その顛末を追っていきます。

奈良県添上郡月ヶ瀬村

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三重県の伊賀市、京都府の山城村に隣接する地に位置し、山に挟まれ、川が横切る、谷合の集落です。梅の花の名所として知られ、大和茶の産地でもあったこの村は、2005年に奈良市に編入され、行政上は既に存在しません。

村がなくなった現在でも、梅の花や温泉を目当てに、全国から観光客が訪れています。そして、今回紹介する事件の舞台としても、この村の名前は広まることとなりました。地図から消えた村について興味をお持ちの方は、こちらの記事もご覧ください。

帰宅途中の女子中学生が殺害された事件

97年5月4日。13歳の中学2年生であった浦久保充代さんが、卓球の大会から村にある自宅へ向かう道中のことです。友達と別れ、一人で歩く彼女の姿を、車ですれ違った女性が見かけています。そのあと、少女の後ろから、一台の自動車が近づいてきました。運転しているのは丘崎誠人。当時25歳の男性です。

少女を見知っていた男は「乗っていかないか?」と彼女に声を掛けます。少女は答えることなく、その場を去ろうとしました。その態度に怒った男は、車を彼女にぶつけます。そして、意識が朦朧としている充代さんを、そのまま連れ去り、石で彼女を殴り殺し、遺体を山中に捨てました。

失踪した女子中学生と思われる品物が発見される

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「夕飯の時間になっても娘が帰らない」42歳だった母親の博子さんが、学校に電話したのは夜の8時頃でした。これにより事件が発覚します。すぐに少女の捜索が始まりました。そしてまもなく、自宅近くの道の横を流れる川から、彼女が履いていた靴が見つかります。

さらには、道路のタイヤ痕や、ガードレールに付いた血痕も確認されました。少女が何らかのトラブルに巻き込まれたとみた奈良県警は、村人も交えて、さらに大規模な捜索を展開。その結果、近くにある西部浄化センターの公衆トイレから、切り裂かれたジャージや血の付いた上着が見つかります。

犯人丘崎誠人も取材を受け捜索に参加

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記者やマスコミは村に押し寄せました。彼らの目当ては、早くから犯人の可能性があると怪しまれていた丘崎誠人です。彼が目を付けられていた理由は、現場にタイヤ痕を付けた車に近い大型の四駆を、彼が所有していたからでした。

しかし、県警は決定的な証拠を見つけられないままでした。丘崎は記者やマスコミのインタビューに堂々と受け答えし、さらには、村人による充代さんの捜索にも加わっていました。

丘崎誠人逮捕

事が起こってから2か月近くたったころ、県警はついに、売却された丘崎の車から決定的な証拠を採取しました。シートに付着した血痕のDNAが、被害者のものと一致。タイヤ痕もこの車のものと判明します。丘崎は逮捕されました。容疑は略取誘拐です。

当初丘崎は容疑を否認し、被害者の行方は分からないままでした。しかし、8月1日になって犯行を認め、自供を始めます。彼が態度を改めた理由は、証拠を突き付けられ観念したとも、刑事に諭されて心変わりしたとも言われています。丘崎の自供により、とうとう白骨化した少女の遺体が発見されました。

月ヶ瀬村女子中学生誘拐殺人事件の犯人丘崎の生い立ち

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いったいなぜ、一人の少女の命が無残にも奪われてしまったのでしょうか。その理由は、犯人が犯行に手を染める25歳になるまで、いかなる人生を送ってきたかというところにありました。まずは、丘崎の素性と、彼の家庭の状況に焦点を当てて、その実情を見ていきます。

両親のルーツは朝鮮

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彼の両親は正式な婚姻関係にない、いわゆる内縁の夫婦でした。ダムの労働者として働いていた父親は、まじめで働き者という評判がある一方で、母親は不誠実で奔放な性格だったとも言われています。そんな二人の共通点は、ともに朝鮮人と日本人との間に生まれたことでした。

30年前に月ヶ瀬村に引っ越してきた

丘崎家が隣村から月ヶ瀬村の嵩地区へ移り住んだのは、約30年も前です。住む場所を用意したのは、奇しくも、殺された少女の祖父でした。当時、民生委員を務めていた少女の祖父は、貸し渋っていた家主に口を利かせ、彼らに家をあてがったのです。

物置小屋のような劣悪な環境で貧しい生活を送る

丘崎家が月1万円ほどの家賃を払い、生活していた住居は粗末ものでした。トタンの屋根とベニヤ板の壁でできた物置小屋のような建物で、隙間風が入り込み、ネズミが走り回ってている状態だったといいます。その上、トイレはなく、外に掘った穴で用を足さざるを得ないという、非常に劣悪な居住環境でした。

事件のきっかけ①月ヶ瀬村に残る悪しき慣習

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凄惨な出来事は、豊かな自然に囲まれた小さな村で起こりました。しかしそれは、人口が少なく、人の出入りが乏しい、歴史ある集落だからこそ、起こるべくして起きた事とも言われています。犯人の生まれ育った村は、どのような集落だったのでしょうか?そこには現代の世にそぐわない、前時代的な慣習があったのです。

与力制度が今も存在する

江戸時代、幕府は農村を統治するために「五人組」という制度を敷きました。何軒かの家ごとに組を作り、村人が村人を監視し、扶助し、何かが起これば連帯責任を負うというものです。与力制度は、この五人組を起源とします。村落における複数人の代表者「与力」が、以下のように、村のあらゆる活動を取りまとめ、責任を負うというものです。

与力の役割と区入り制度

  • 村内で葬式があった際は、その運営を務める。
  • 村内で家を建てたり、増改築する際はそれを手伝う。
  • 村人が結婚する際は、親族代表としてあいさつする。
  • 村人同士で争いやトラブルがあった際、それを取りなす。
  • 出産や祝い事の時に親類として付き合い、他の家に迷惑をかけた際は親類として詫びを入れる。

このような村人同士の付き合いや助け合いの恩恵は、村の一員として認められるという意味の「区入り」によって得られます。新しく村に移り住んだ家が区入りを果たすには、2人の与力による推薦が必要です。

区に入らないと普段の生活にも支障

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丘崎家は区入りを認められていませんでした。与力を中心に結束している村において、区入りができていないということは、村人との交流がなくなるということ以外にも問題が発生します。ごみの収集場所のような、村人共有の施設や場所の利用も制限されるため、普段の生活にも支障をきたすのです。

「火事になったり、葬式をしなければいけなくなった時だけ手伝うが、それ以外では付き合わない」村の人間からそのように言われたと、誠人の母親は話したそうです。いわゆる「村八分」の状態です。村社会における忌まわしい因習については、こちらの記事でも紹介しています。

事件のきっかけ②丘崎誠人に対する月ヶ瀬村住民の対応

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月ヶ瀬村で育った丘崎誠人の心は、徐々に黒いもので染められていきます。事件が起こるに至った原因を紐解くにあたって、続いては、丘崎誠人に対する村の人間の態度がどのようなものであったのか、迫っていきます。

在日朝鮮人の家系であることで嫌っていた

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