吉展ちゃん事件とは?
高度経済成長期、東京をはじめとする大都市は急速に発展し、地方からの出稼ぎ労働者で溢れていました。過密化する都市部と過疎化す農村部との格差に比例し、富裕層と貧困層、経営者と労働者の格差もまた、浮き彫りになってゆきます。事件が起こったのは、そんな時代のさなか、東京オリンピックを翌年に控えた1963年です。
「戦後最大の誘拐事件」と呼ばれたゆえん
人質やその家族への被害拡大を防ぐため、警察の要請でマスコミの報道を規制する「報道協定」が、日本で初めて取り入れられたのは、この事件からです。このことのみならず、今日まで続く法律、犯罪捜査や人質救出の手法、また、映画やドラマ等における人質誘拐事件のイメージにも大きな影響あたえました。
解決まで実に2年3ヶ月の期間を要し、公開捜査に至ってからは、テレビ、ラジオ、新聞などのメディアで、連日大々的に取り上げられます。大勢の国民が容疑者の情報を寄せ、被害者の安否を案じたこの出来事は、日本における劇場型犯罪の走りともいわれています。日本で起きた劇場型犯罪としては、以下で紹介する事件も有名です。
事件の概要
1963年の東京で4歳の男の子が連れ去られました。その後、家族に身の代金を要求する電話があり、用意された50万円は警官による監視の中で、まんまと相手に持ち去られます。公開捜査に踏み切るも、容疑者が特定できず、人質の行方も分からないまま、事件は迷宮入りかと思われていました。
そこで、警視庁は担当チームを一新し、後に「昭和の名刑事」とうたわれる平塚八兵衛を起用します。平塚は容疑者として挙げられていた30歳の男性、小原保のアリバイを崩すことに成功し、ついに自供に導きました。結果、被害者は殺害された状態で見つかり、小原には死刑の判決が下ったのです。
吉展ちゃん事件の始まり
後に全国からの注目を集め、日本犯罪史に残ることとなる大事件は、どのように始まったのでしょうか。4歳児の失踪は、当初ただの迷子と思われ、攫われたと分かったのちも、身の代金目当てとは思われていませんでした。
神隠しのように消えた吉展ちゃん
3月31日、台東区入谷378(現在の台東区松が谷3丁目に当たる)で工務店を経営していた村越繁雄さんの長男、吉展ちゃんが失踪しました。17時40分ごろに「公園に行く」と言って遊びに行ったきり、帰ってこないのです。
公園とは自宅の目と鼻の先にある入谷南公園のことで、まだ明るく人目もある中、母親の豊子さんはほとんど心配なく、息子を送り出しました。しかし、18時ごろになって帰宅した妹たちに尋ねたところ、公園内に吉展ちゃんの姿は見えなかったとのことです。
19時頃、父親が近くの交番に届け出る
いよいよ心配になった繁雄さんが、下谷北署(現在の下谷署)に捜索願を届け出ました。この時署は迷子として手配しており、警視庁への通達が遅れてしまいます。この初動の遅れがまず、被害者救出失敗の原因の一つになったと言えます。
捜査一課が目撃情報を集めた
連絡を受けた警視庁の捜査一課は翌4月1日、入谷周辺で聞き込みを行います。その結果、8歳の小学3年生、菊雄君から、有力な証言を得ることができました。その日、壊れた水鉄砲に水を入れようとてこずっていた吉展ちゃんに、声をかけてきた人間がいたというのです。
「坊や、いい鉄砲だね」そう言いながら吉展ちゃんに近づいてきたのは、身長160㎝ほど、灰色のレインコートを着た30歳ぐらいの男だったと言います。
警察は変質者の線で捜査を開始
当局は、吉展ちゃんはこの男に連れ去られた可能性があるとみて捜査を展開します。ただし、この時点では性的ないたずら目当ての変質者の仕業と思われていました。金銭目当てのはまだ日本では少なく、被害者の家が特別裕福なわけでもなかったためです。
事件の犯人・小原保から身の代金要求の電話
最初の電話があったのは、4月2日17時40分ごろです。相手は人質の身柄と引き換えに、現金50万円を用意するようにと家族に言い渡します。電話は4月7日まで、延べ9回に渡りかかってきます。その間に担当チームは相手の声の録音には成功しますが、逆探知はできませんでした。電電公社が「通信の守秘義務」を優先させたためです。
また、相手が吉展ちゃんの声を一度も聞かせないことに、家族や当局は慎重にならざるを得ませんでした。行方不明の報道がされて以来、被害者の家にはいたずら電話がかかってくるようになったからです。しかし、8回目の通話において、被害者が履いていた靴の特徴を相手が言い当てたため、この男が誘拐犯であると確信されます。
受け渡し方法と当局の作戦とは
犯人からの最後の連絡があったのは、7日の深夜1時25分です。50万円を豊子さん一人でもってこいと、相手は言います。受け渡す場所は、被害者の家から数百メートルほどしか離れていないところにある自動車販売店です。そこに停めてある5台の車のうち、3番目の車の荷台に子どもの靴が置いてあるから、金をそこに置くようにということです。
50万円といえば、大卒新入社員の初任給が約2万円だった時代においては大金といって間違いありません。しかし、当局は本物の現金を全額用意しました。犯人を怒らせては、人質の身が危険にさらされると判断したからです。彼らの作戦は、警官を現場に配置してから、豊子さんにその金を届けさせるというものでした。
度重なる警察のミス?事件の捜査は難航した
捜査の中で、小原を逮捕するチャンスは何度もありました。にも関わらず、解決に2年以上の期間を要してしまった理由は、警視庁の失態によるところが大きいと言われています。彼らはいったいどのようなミスを犯していたのでしょうか。
警察の合図のミスで現金50万が奪われた
いよいよ受け渡しとなりました。犯人を確認、あるいは確保する絶好の機会です。しかし、ここで大きなミスが生じます。警官が現場に到着する前に、豊子さんが金を置いて行ってしまったのです。
これは、豊子さんの車が出発する際、警官が「まだ待て」という意味で手を挙げたのを、運転手が「行け」という意味の合図と勘違いして、準備が整う前に現場へ向かってしまったからです。慌てて現場へ走った警官たちはバラバラに到着します。全員がそろったのは、豊子さんが到着してから5分後のことです。
小原保が指定した車と別の車を見張っていた
警官たちは受け渡し場所となった車を見張ります。しかし、誰も車に近づいてくる様子はありません。実は、警官が見張っていた車は店の正面に停まっていた車。犯人の指示した車は店の横に停めてあった車でした。間違った車を見張っていたことに気が付いたのは1時間以上後のことです。50万円はとっくになくなっていました。
用意した1万円札のナンバーを控えていなかった
まんまと身の代金を持ち去られた上に、手がかりは何一つ得られませんでした。ここで、用意した現金のナンバーを控えておけば、犯人が金を使用した際に足が付くようにできたのですが、当局は、それを怠ってしまいます。
4月19日、脅迫電話の男の声を公開した
誘拐犯に身の代金を持ち去られるという事態が起こったのは、日本の犯罪史上でも稀なケースです。その上、以降男からの連絡は途絶え、被害者の行方もようとして知れません。相手は「金を受け取ったら、1時間後に引き渡す」と、告げていたはずなのにです。
ミスを隠すため、マスコミに知られる前に事件を解決したい警視庁でしたが、捜査は行き詰まってしまいました。4月13日、警視総監がマスコミを通じ「子どもを親元に返してやってくれ」と犯人に頭を下げて呼びかけ、19日には報道管制を解き、公開捜査に切り替えます。録音した通話の音声をラジオやテレビで流し、市民に情報提供を求めました。
吉展ちゃん事件の犯人は「40代~50代」と世間に広まった
言語学の専門家である東北大学の鬼春人教授の助言により、当局は犯人の年齢を40代から50代と想定しました。この犯人像は報道においても取り上げられます。そのため、実際の犯人・小原保の年齢とは異なるイメージが、世間に広まったしまったと言えます。
小原保の1度目の取り調べは犯人像と合わずシロ
公開捜査の結果、1万件に及ぶ通報が市民から寄せられます。その中には小原保に関するものもありました。彼の近所に住む住人や職場の人間、身内である弟からも「声が似ている」と通報があります。当局は5月21日から3週間かけて、彼を聴取しました。しかしその結果、容疑者にはならないとして釈放します。
その理由は、まず小原が当局の推定した年齢よりも若い30歳であったこと、そして彼が足を患っており、警官の目をかいくぐって大金を持ち去るのは困難と思われたことです。
小原保の2度目の取り調べはアリバイがありシロ
その年の12月、小原に対して2度目の聴取が行われました。しかし当局は、またも彼をシロとみなします。アリバイがあったためです。3月27日から4月3日までの間、彼は故郷の福島にいたといいます。3月29日の朝と4月1日の早朝、実家近くで彼を見たという証言により、この主張は立証されたのです。
小原は当時別件で逮捕されていた
63年8月に、小原は賽銭を盗んだとして逮捕され、その執行猶予中にあった同年12月に、工事現場からカメラを盗んだとして、またも逮捕されています。誘拐事件に関する2度目の聴取は、この逮捕の時の拘留期間中に行われました。その後窃盗罪で懲役2年の刑が確定し、64年の4月に前橋刑務所に収監されました。
警察の不手際が連鎖する!「雅樹ちゃん事件」から「狭山事件」まで
誘拐事件に対するノウハウが乏しかった日本の警察は、吉展ちゃん事件の前後で起こった類似する誘拐事件でも失態を演じ、被害者の救出に失敗しています。吉展ちゃん事件の直前に起きた「雅樹ちゃん事件」、直後に起きた「狭山事件」において、どの点に当局の不手際が指摘されているのか、紹介します。
雅樹ちゃん事件とは
吉展ちゃんの事件が起こる3年前の1960年5月、世田谷区に住む鞄会社の社長の長男、尾関雅樹ちゃん(6歳)が、通っていた慶應義塾幼稚舎に登校する途中で攫われました。その後、自宅に身の代金300万円を求める電話がかかってきて事件が発覚します。
当局は秘密裏に捜査を開始します。その結果、犯人と思わしき男、山本茂久を突き止めますが、逃走され、人質ともども行方が分からなくなりました。その後、被害者は変わり果てた姿で見つかり、事件の発覚から2ヶ月後、元歯科医の山本茂久が逮捕されます。
雅樹ちゃん事件での警察の失態
この事件も吉展ちゃんの事件同様、警察が早期解決の機会を逃した事件と言われています。また、被害者が攫われて早々に殺害された吉展ちゃんの事例とは異なり、対応の手際によっては、攫われた男の子の命を救えた可能性があることも指摘されています。
雅樹ちゃんは助け出せたはずだった
男の子が攫われた翌日、犯人宅のお手伝いから通報がありました。「被害者らしき子どもが家にいる」この情報を当局は、不確実として一蹴します。これが失態の一つ目です。山本が比較的裕福に見えたため、営利誘拐を企てるとは思えないとしたからです。
二つ目は警察の介入を山本に気付かれた点です。3回目の電話で犯人から警告され、家族は当局に手を引くよう懇願しますが、張り込みは続けられました。三つ目は、山本を捕らえ損ねて逃亡を許した件。四つ目に、逮捕後、捜査本部が盛大な打ち上げパーティーを開催した件が挙げられます。
狭山事件とは
吉展ちゃんの事件が起こった2ヶ月後の1963年5月、埼玉県狭山市で16歳の少女が拉致され、その後身の代金20万円を要求する脅迫文が届けられます。警官による張り込みの中で身の代金の受け渡しが行われますが、犯人に気づかれて受け渡しは失敗し、逃走を許します。その後、被害者は無残な姿で見つかりました。
狭山事件での警察の失態
雅樹ちゃん事件、吉展ちゃん事件と連続して誘拐犯を取り逃していた警察は、世間から厳しい批判の目を向けられていました。狭山事件においては何とか汚名を晴らすべく、身の代金受け渡しに際して、警官40人を現場に配置し、張り込ませました。しかし、結果相手に警官の存在を諭られ、逃走されてしまいます。
埼玉県警は事件の発生から22日後に、被差別部落出身の男性を逮捕しました。無期懲役の判決を受けたこの男性の逮捕は、功を焦った当局による誤認逮捕、あるいはでっち上げであったという声が上がります。
吉展ちゃん事件に「昭和の名刑事」平塚八兵衛を投入
犯人の特定も、人質の救出もかなわないまま、事件は発生から2年の月日が流れます。1965年5月、暗礁に乗り上げた状況を打開するため、警視庁は担当チームを一新します。抜擢された人間の中には、名刑事として名高い平塚八兵衛の名前がありました。
「昭和の名刑事」「警視庁の至宝」と呼ばれた平塚
1913年生まれの平塚八兵衛は、39年に警察官となります。当初は交番勤務でしたが、警視庁管轄内一の検挙率だった腕を買われて、その後捜査一課に配属となります。
以来32年間、巡査から警視までを無試験で昇進。「落としの八兵衛」「鬼の八兵衛」などとも呼ばれ、帝銀事件や3億円事件など数々の難事件を担当。当時、在職中に警察功績賞と警察功労賞の両方を受賞したのは彼だけだったと言われています。
「シミモチを食った」小原保のアリバイは崩れた
平塚を筆頭とする新しいチームは、録音された音声から小原が犯人であると確信します。新たな分析の結果、声の主は30歳ぐらいの年齢と判明し、また、彼の足は障害がありながら俊敏に動くこともわかりました。残る問題は彼のアリバイです。平塚は、自ら福島へ出向き、問題の日に彼を見たという人間をあたって、真偽を確かめました。
その結果、3月29日の朝の目撃情報は確かでしたが、4月1日の目撃は誤りで、本当は3月28日に見たというものだったとわかります。さらに、小原は「29日の夜に実家の蔵の鍵を壊して忍び込み、中にあったシミモチを食った」と証言していましたが、実際には蔵の鍵は壊されておらず、その年はシミモチを作っていなかったということでした。
強制捜査を申し出、小原保の3度目の取り調べ
6月23日、平塚らによる聴取が行われます。この3度目の取り調べは人権団体からの抗議の影響もあり、あくまで任意の聴取であり、期間も10日間に限るという制約付きのものでした。しかし、平塚の追及に対し、彼は黙秘を貫きます。有力な手がかりを得られないまま、期限の日が近づいてきます。