吉展ちゃん事件の全貌|警察がミス?死刑囚・小原保の生い立ちや自白の記録

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タイムリミットの日である7月3日、平塚は小原と何気ない世間話をします。これは最終手段であるFBIでの鑑定のために、声紋を採集する目的で行われたものでした。この時、小原は「西日暮里の大火を電車から見た」と話します。平塚はこの話を聞き逃しませんでした。

この大火は西日暮里のゴム工場が燃えた火事のことで、事件が起きた年の4月2日に起こっています。これは村越家に最初の電話がかかってきた日です。この日に大火を見たというなら、4月3日まで福島にいたという彼の証言と食い違います。

ついに小原保を落とした!おふくろの話し

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最早、彼が犯人であることは疑いようがないと思った平塚らは、彼に泣き落としをかけます。平塚は福島に行った時に、小原の母親に出会った話しを始めました。「俺の前で、おふくろさんどうしたと思う?こうしたんだ」といって、平塚は土下座して見せました。

「私の息子は決して人を傷つけるような悪い人間ではありません。でも、もし悪いことをしているとしたら、本当のことをしゃべって、真人間になるよう言ってやってください」母親がそのように言っていたと聞かされてた小原は、ほどなくして犯行を認めました。

小原保の自白により、吉展ちゃんの遺体を発見

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小原の自供により、吉展ちゃんは、攫われた直後に殺害されてたことがわかりました。攫った子どもに足の障害を知られた彼は、この子を返せば自分が犯人であると簡単にわかってしまうと考えます。人質を連れながら思案しているうちに、荒川区南千住の円通寺付近にやってきました。

2人はここで寺の住職とすれ違いました。住職は2人のことを覚えてはいませんでしたが、小原は自分の姿を見られたと思い焦ります。そこで、寺の裏の墓所で子どもを絞殺し、適当な墓の石室に骸を隠したのです。この自供通り、墓石の下から遺体が見つかりました。

吉展ちゃんの検死は元監察医・上野正彦が担当

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遺体が見つかったのは、65年の7月です。事件が起こってから2年もの月日が経ってしまっています。あまりに変わり果てた姿であったため、両親ですらこれが吉展ちゃんのものであるかわかりません。検死を担当し、小原の自供を裏付けたのは、元監察医の上野正彦氏です。

ネズミモチは2年の歳月を意味していた

上野氏が司法解剖した結果、口の中からある植物の芽が三本採取されました。これはネズミモチというモクセイ科の常緑灌木で、種子が発芽するのに2年の期間が必要という特性があります。つまり、この人物が息をしなくなってから2年経っているということがわかり、小原の自供が嘘でないことが証明されたのです。

吉展ちゃん事件の犯人・小原保の生い立ち

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小原保という人間は、犯行に至る30歳になるまでいかなる人生を送り、どのようなきっかけで事件を起こすに至ったのでしょうか。そこには高度成長に沸く当時の日本社会の、影の部分を垣間見ることができます。

小原保は貧しい農家の10番目の子ども

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1933年の1月、福島県石川郡石川町の山間部に暮らす、貧しい農家の10番目の子どもとして、彼は生まれます。山深い土地のうえ、靴も満足にはけない時代、小学校へ歩いて通学するのは過酷なものでした。彼は小学四年生の時、足のあかぎれが悪化して骨髄炎にかかってしまい、手術の結果、足に障害が残ってしまいます。

足の障害と休学によって留年したことが、彼の人格をゆがませ、非行に走るようになりました。しかし、小学校を卒業してからは住み込みで時計職人の修行をはじめ、その後も仙台市にある身体障碍者の職業訓練所で時計職人の技術を学びます。

事件時はブローカー業の借金返済が集中していた

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20歳の時にあるデパートの時計部に就職しましたが、職場で足のことを笑われ、これに怒り退職します。借金を重ねながら転職を繰り返し、1960年に上京して上野の時計店で働き始めます。しかし、薄給で生活が苦しかったため、時計ブローカーの内職をしていましたが、これがばれて時計店を解雇されます。

時計や貴金属のブローカーとして食い繋いでいましたが、一時期は飲み屋の女将のもとでヒモのような生活もしていたと言います。事件を起こした当時は、ブローカー業などで生じた借金が20万円に膨らんでいました。逼迫した中で、以前映画館で予告編を見た黒澤明の『天国と地獄』を思い出し、この映画に倣って誘拐を思いついたとのことです。

吉展ちゃん事件の判決・上告審で自白を覆した?

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世間を大いに騒がせた男児誘拐殺人事件の犯人、小原保の審判が始まりました。その最終審において弁護人となった白井正明氏によれば、彼は当初の自供とは異なり「殺すつもりはなかった」と話します。果たして、小原に下された判決はいかなるものだったのでしょうか。事件は終幕へ向かいます。

東京裁判所出した判決は死刑!

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66年3月17日、地裁から小原に下されたの判決は死刑でした。3月31日に弁護側は控訴。控訴審は9月20日から始まりました。争点は計画性の有無です。被告は報道によって男の子の身元を知ったのであり、身の代金の要求を思いついたのはその後だというのが弁護側の主張です。しかし、11月29日に高裁は控訴を棄却します。

上告審で弁護人を務めた白井正明

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弁護側は高裁の判決を不服として上告しました。しかし、この上告審を担当していた国選弁護人は解任されてしまいました。新たな弁護人として抜擢されたのが、白井正明氏です。弁護士3年目の若手だった彼は、事務所の上司から「こういう重大事件で、刑事弁護の経験を積んでみろ」と推され、これを引き受けました。

小原保は一、二審の判決を覆した

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初め、白井氏は最高裁で判決が覆る望みは薄いと思われていました。しかし、小原が一審、二審では認めていた自供の内容が事実と異なると話し出したため、この考えを改めたと言います。当初の自供によると、小原は男の子を殺すために墓所へ連れて行ったと話していました。

しかし、実際は騒がれては困るので口をふさいだところ、いつの間にか死んでいたというのです。これが事実なら、殺人ではなく傷害致死の罪に当たり、刑は軽くなるかもしれません。小原は、自分のしたことには責任を感じ、反省もしているとも言っていたそうです。

1967年10月13日、小原保の死刑が確定

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結局、判決が覆ることはなく、小原の死刑が確定します。判決時は落ち着いていた小原ですが、刑の執行日が近づくにつれ、彼の素行は荒れていきました。69年6月、教戒師で日蓮宗の僧侶、山田潮透師が、心のよりどころとして短歌を勧めます。

それ以来、小原は短歌に打ち込み、歌人としての才能に目覚め、彼のペンネーム『福島誠一』の名は、次第に世間に知られるまでになりました。そして、刑の確定から4年後の71年12月、死刑が執行されました。

吉展ちゃん事件、関係者のその後

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この事件は、殺された吉展ちゃんはもちろんのこと、数多くの人間が巻き込まれた出来事であったと言えます。特に被害者の家族や、犯人の家族の心には、判決が下ったのちも大きな傷を残しました。

被害者・村越吉展ちゃんの母親

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吉展ちゃんの悲報が伝えられた日、アサヒ芸能の記者により母親の豊子さんにインタビューが行われました。彼女は「なんでもいいから生きていてほしかった」と言って、泣き崩れてしまったと言います。

犯人・小原保の兄と母親

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一方、福島県の小原の実家では、彼の実兄がやけ酒をあおっていました。「弟のしたことはとても人間のできることではない」と彼は言ったそうです。小原保の母親は、後に被害者の家族へあてた手紙で、次のように綴りました。

保よ。地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と、世間の人にお詫びをしよう。どうか皆様、許してくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。(出典:堀 隆次『一万三千人の容疑者―吉展ちゃん事件・捜査の記録』)

吉展ちゃん事件はテレビドラマにもなった

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劇的な顛末をたどったこの事件は、文学、ドラマ、映画など、多くの分野で題材として取り上げられました。とりわけ、ジャーナリストでノンフィクション作家の本田靖春が著した『誘拐』は反響が大きく、後の1979年『戦後最大の誘拐|吉展ちゃん事件』と題したドラマとなり、テレビ朝日にて放送されました。

犯人・小原保役は泉谷しげる

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このドラマにおいて、犯人である小原保の役を演じたのが泉谷しげるです。凶悪ながらも、人間の情や業を孕んだその怪演は、高い評価を集めました。もともとフォークソング歌手だった泉谷さんが現在も活躍中の俳優業で注目されるようになったのは、この作品からであったと言われています。

吉展ちゃん事件を教訓に!特殊事件捜査係(SIT)新設

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吉展ちゃん事件は、日本の司法、治安維持の分野において、大きな課題を浮き彫りにさせる出来事でした。それ故に、報道協定をはじめとして、この事件を機に改善されたり、新しく取り入れられたものがあります。一つは刑法に身代金目的誘拐罪が加えられたことです。被害者が殺害されていない場合でも、厳罰が与えられます。

二つ目は警察による逆探知が認められうようになったこと。そして、三つ目に上げられるのが、「特殊事件捜査係」通称「SIT」が設置されたことです。

特殊事件捜査係(SIT)とは

吉展ちゃん事件での警察の対応の不備を受けて、1964年4月1日に警視庁捜査一課の第3強行担当班内に新設されました。SITというのは、公式には「Special Investigation Team」の略ということですが、もともとは「捜査」「一課の」「特殊班」の略だったと言われています。

誘拐、ハイジャック、立てこもりなど人質がいる事件において、捜査や犯人逮捕、人質救出を担当する部署です。そのために必要な、特殊な通信技術や、逆探知のノウハウ、交渉術などの技術を有し、機動隊や特殊部隊のように、突入制圧する訓練も積んでいます。

SITの出動した事件

吉展ちゃん事件の二の轍は踏むまいとして設置されたSITや、各都道府県警察の同様の特殊班は、今日まで様々な事件で活躍し、これらを解決に導いてきました。過去にSITが出動した事件のうち、主だったものを紹介します。

町田市立てこもり事件

2007年4月20日、暴力団組員の男が、同じ暴力団に所属する男を拳銃で射殺。その後、現場付近にある自宅のアパートに立てこもったという事件です。男は駆け付けたパトカーに向けて、拳銃を11発も発砲し、現場一帯が騒然となりました。最終的に、警視庁のSITが催涙弾を撃ちつつ突入し、男を逮捕します。

愛知立てこもり事件

こちらは愛知県警のSITが出動した事件です。町田市の事件から1ヶ月も経たない2007年5月17日に起こりました。愛知県愛知郡長久手町(現在の長久手市)で元暴力団員の男が、元妻を人質に民家に立てこもり、拳銃を発砲。警官1人が死亡し、男の妻子と警官1人が負傷します。発生から約29時間後、男が投降して、事件は終息しました。

事件の現場は今どうなっているのか

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日本中が一人の男の子の身を案じ、その死に心を痛めた時から、すでに50年以上の年月が過ぎました。忌まわしい犯罪の現場となった場所は、今はどのような姿になっているのでしょうか。事件の記憶は完全に風化してしまっているのか、はたまた、過去の惨事を今に伝えているのか、その様子を紹介します。

子どもに大人気の公園

かつて、遊んでいた4歳の子どもに誘拐犯の魔の手がかかった現場である入谷南公園は、台東区の運営で現在も同じ場所に存在しています。約3919平方メートルの広さがあり、周辺区域の中では最も大きな公園です。

2013年にリニューアルオープンし、真新しく、キレイに整備された園内には、カラフルで現代的な遊具とバリアフリー施設が設置されています。特に注目されるのが遊具の多さで、長い滑り台や、円形のジャングルジムなど、子どもを楽しませる工夫が施され、近隣住民の人気スポットとなっています。

吉展ちゃんを偲ぶお寺

小原保が吉展ちゃんを殺害し、その亡骸を隠した場所である円通寺は、荒川区南千住に現在も建っています。亡骸が見つかった場所である墓所には、当時数多くの人が被害者の冥福を祈って焼香に訪れました。その場所には「よしのぶ地蔵」が建立され、今でも供養が行われています。

吉展ちゃん事件は世の中の親を震撼させた

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この事件をきっかけとして、子どもの誘拐事件は大きくクローズアップされます。吉展ちゃんの家庭が特別裕福なわけでもなかったことも、全国の子を持つ親に不安を覚えさせました。

もしかしたら、我が子も吉展ちゃんのような被害を受けるかもしれない。そう感じた親たちの間で、いつしか「知らない人にはついていっちゃだめ」という決まり文句が定着します。吉展ちゃん事件という痛ましい出来事は、現代の日本が治安の良い国として知られる社会になる上で、重大な影響を与えたといえます。

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