作中に出てくる牛山辰馬は元柔道家であり10年間負けなしであったことから”不敗の牛山”と呼ばれている。網走監獄を脱獄したあとも体を鍛え続けており馬をも足払いで倒すことができる力を持っている。
ゴールデンカムイでは網走監獄からの脱獄者が大きな鍵を握っています。実在した人物である白鳥由栄は脱獄王と呼ばれ、作中では白石由竹という名前で登場しています。気になる方はこちらの記事をどうぞ。
牛島辰熊との共通点
牛山辰馬は常に鍛えることを忘れない。大木に打ち込み稽古をし、紐をくくりつけ背負い投げの練習。60kgの米俵を蹴り上げるなど日々鍛錬に勤しんでいる姿はまるで牛島辰熊のようだと言えるだろう。名前も見たとおり字面はほぼ同じで漢字も動物にまつわる字である。
作中では牛山辰馬が鍛錬する様子や熊と対峙するシーンなども描かれているので、これがもし牛島辰熊だったらと想像しながら読んでみるのも面白いかもしれません。見た目も牛島辰熊に似た風貌になっています。
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かっこいい牛島辰熊
名前を検索すると出てくる写真の数々は1900年代前半の日本人とは思えないほどの顔立ちとオーラを持ったものばかりである。もし現代に牛島辰熊が現れたら男女問わず魅了するスター選手になっていただろう。
日本人離れしたハーフ顔
ハーフ、もしくは外国人と言われても納得してしまうほどの彫りの深さで精悍な顔立ちをしています。しかし両親は精油業者だったこと以外詳細は不明です。九州は縄文系の顔つきが多いのでその血筋でないかと思われています。
鍛え上げられた見事な体
日々かかすことなく朝から晩まで鍛え上げられたその肉体は男性から見ても目を見張るものです。常人が鍛えてもここまでの肉体を作り上げることは難しいでしょう。完璧なまでに仕上げられた体は憧れる方も多いのではないでしょうか。
最強の柔道家木村政彦を育てる
木村雅彦は1917年9月10日生まれの柔道家。柔道選手として将来有望であった母校の後輩木村政彦を見つけだし、東京の自宅で生活の面倒を見ながら激しい稽古をつけていったのです。そうしてのちに柔道王呼ばれることとなる木村政彦を育て上げたのです。
のちに木村政彦は”鬼の木村”と呼ばれるようになったが、これは師匠である牛島辰熊の”鬼の牛島”から受け継がれたものだと言われている。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられるほどの選手となった。
天覧試合制覇を目指して鍛える
肝吸虫により衰弱してしまったために自身が叶えることができなかった天覧試合制覇を木村政彦に制してもらうべく、毎日10時間にも及ぶ稽古を行い強さを鍛え上げたのです。自身の夢を弟子木村政彦に託したのだ。
木村政彦は柔道の研究に熱心だったこともあり、手の腕を帯や道着を使って縛って抑えるという当時では斬新とされた技術を開発した。他にも寝技や腕緘に関する新たな技法を開発したりするなど、現在の柔道に影響を与えている。
「師弟の鑑」と言われた愛と絆
木村政彦の天覧試合優勝を強く願っていた牛島辰熊は毎夜水行することで精神面でも応援し支えていました。ついに悲願の優勝を果たした木村政彦と師匠牛島辰熊の師弟愛は”師弟の鑑”として世間から賞賛された。
空手家大山倍達も牛島辰熊を慕う
大山倍達(ますたつ)1923年7月23日生まれの空手家。空手の重鎮であり最強なのは誰かという議論で必ず名前が挙げられる大山倍達も慕っていたひとりでした。強さだけではなく、思想家でもあったその生き様にも惹かれたのです。
昭和の巌流島も観戦
巌流島とは1954年に行われた木村政彦と力道三の日本プロレス選手権の試合である。試合序盤では攻めたり攻められたりとを繰り返していたのだが途中力道山が木村政彦の顎にストレートパンチを放ち、状況をつかむ間もなく乱れ打ちの末のKO負けとなった。
プロレスでは顎にストレートパンチを食らわすなどルール上反則行為であった。リングマットが血まみれになったのを見て観客は騒然となり、憤慨した大山倍達は敗れた顛末のあまりの悔しさに牛島、木村の両名を叱責したと言われている。
牛島辰熊の最期
長きにわたり伝説を残し続けたが、ついに最期となるときが来てしまいます。老いても自身を鍛えることをやめずに高みを目指し続けた結果、80歳にして昇段するという偉業を成し遂げてしまうのである。
亡くなる数年前に九段に昇段
九段に昇段したのは、亡くなる数年前の1984年に講道館100周年を記念してのことだった。しかしそれまでの柔道の殿堂においても十分な実績が残していたこともあり、実質的な最高段位の十段に昇段していても不思議はないと言われていたのです。
81歳でこの世を去る
1985年5月26日、数々の伝説を残してこの世を去りました。妻や娘をもうけていたことはわかっていますが、詳しい死因などの記録は残されておらず、その最期はどのようなものだったのか謎に包まれています。
多くの伝説が生まれた柔道界の歴史
もともと柔道とはいつの頃から存在したのか知っていますか?実は古くからあった柔術を柔道として確立したのはそれほど昔の話ではないのです。現在の柔道を造り上げた人物や成り立ちを説明したいと思います。
始まりは武家の柔術
はるか昔の12世紀頃に武家の間で合戦時に使われる武芸十八般といわれる武芸が発展していきました。その後戦国時代が終わりを迎えたのち江戸時代に武術のひとつとして柔術発展していったのです。
武芸十八般とは18種の武技の総称で時代や土地柄などによっても異なるが、柔道、弓道、剣術、槍術、居合抜刀術、薙刀術、棒術、馬術などがあげられまさに古き日本の戦い方の象徴ともいえるだろう。
柔術から柔道へ
嘉納治五郎師範が天神真楊流と起倒流などの流派を学ぶ中で、人としての生き方や道しるべとして立派な人間を育むことができるのではと考えるようになったのです。そして嘉納治五郎は戦うための柔術から人間形成を目的とする柔道へと昇華させ、1882年に確率させました。
柔道の父と名を馳せたことで1978年には嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会開催され、その後12回行われている。柔道選手が世界大会などに出場する際には選手団が必勝祈願として嘉納治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。
嘉納治五郎
1860年12月10日生まれの柔道家であり、教育者。柔道のみならずスポーツや教育の発展に尽力し、日本のオリンピック初参加にも関わり国のスポーツの道を切り開いた。”スポーツの父”と賞されている。
1882年に学習院にて教頭を勤め、1893年からは通算約25年間にわたり東京高等師範学校と東京高等師範学校付属中学校の校長を勤めた。他にも日本女子大学の創立委員にも加わるなど教育者としても活躍した。
生き様をさらに掘り下げる
ここまで読み進めて来た人にはどれほどまでに強く、逞しく、ストイックな人間だったのかをわかっていただけたのではないだろうか。もっと詳しく知りたい!そんな方には書籍を読むことをおすすめしたい。
”木村政彦はなぜ力道三を殺さなかったのか”
この本には木村政彦の成り立ちが書かれているのだが、そこには牛島辰熊が師匠としてどのようなことをしてきたのか詳細を知ることができる。選手を育てるために立ち上げた道場”牛島塾”についても書いてある。
この本を読んでから牛島辰熊に興味を持った人も多くいるのではないだろうか。柔道選手としてだけではなく、選手を育てるためにも晩年活躍したその生き様をこの本からさらに感じ取ることができるだろう。
牛島辰熊以外にも
本作では牛島辰熊だけではなく、大山倍達や力道三などの話も書かれている。みなそれぞれの波瀾万丈な人生があったことを知ることができます。作者は18年の取材を元に執筆されているので読み応えがあるでしょう。
「KIMURA」
こちらは先ほど紹介した「木村政彦はなぜ力道三を殺さなかったのか」のコミカライズ版になっています。文章で読むのが苦手な人、臨場感のある絵で組合などを楽しみたい人は漫画もいいでしょう。文章だけではわからなかった情景も伝わってきます。
「昭和の怪物 7つの謎」
さきほど書いた東条英機暗殺計画について関係する書籍である。この本は7章仕立てで作られており、東條英機、牛島辰熊、石原莞爾など昭和の戦争の渦中にいた人物たちにスポットがあてられている。この本では柔道家としての活躍についてではなく、暗殺計画行った首謀者として名を連ねている。
命を懸けて柔術に生きた”柔道王牛島辰熊”
柔道家として生き、生涯を懸けて自身と戦い続けその名を残した牛島辰熊。その伝説を知ってもらうことはできただろうかか。柔道ファンのみならず漫画からもその存在を知り、そしてまた新たなファン増え続けるだろう。最強伝説はまだ終わっていないのかもしれない。