牛島辰馬最強伝説!不敗と呼ばれゴールデンカムイ牛山のモデルに!その強さに迫る

さらには各所の道場に出稽古へと赴き一日40本以上の乱取りを行うなど激しい特訓を繰り返していました。特訓後は消耗しきった体で階段も上れないような状態で食事もお粥しか食べられないほどだったようです。

深夜のトレーニング

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夜は裸になって大石を抱え上げることで筋肉を鍛え上げ、寝る間も惜しいとほとんど寝ずに鍛錬に費やしていました。いざ寝るときもイメージトレーニングをしていて、まさに一日中鍛えることに専念していたといえます。

現在ではなかなか考えられないような自然を相手にしたトレーニング方法ですが、現代でも自然に赴き修行を行うこともできるのです。同じような精神力や体になりたい、近づきたいと思う方はこちらの記事を参考にどうぞ。

牛島辰熊最強伝説④

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語られるべき牛島辰熊の伝説は現役の柔道選手だったときだけでは終わりません。柔道選手を引退してからも伝説はまだまだ続いていったのです。選手を引退するとき、そして引退した後とまだまだ続く逸話があります。

引退後も伝説は尽きない

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1934年の皇太子生誕記念天覧試合前に肝吸虫(寄生虫の1種)によって体を蝕まれてしまった牛島辰熊は体が思うように動かないのを精神力でカバーしようとするが、ついにこの試合で敗れてしまうこととなる。「負けは死と同義」とし、この年引退したのである。

中国相撲チャンピオンと異種格闘戦

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引退から7年が経った1941年、北京で中国相撲チャンピオンに挑み、そして見事打ち破ったのです。選手を引退してからも変わらずに鍛錬を休むことなく続けることでその強さ保ち、柔道だけにとらわれずに新たな挑戦をしたのです。

神永昭夫も晩年の牛島辰熊には敵わなかった

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引退してからも衰えることなく強さを保ち続けていた牛島辰熊は50歳の頃に出稽古のため明治大学を訪れました。当時学生柔道界で活躍していた明治大学エースの神永昭夫を子供のように扱ったと言われています。神永昭夫は全日本選手権大会を3度制し東京オリンピックにも出場する実力者だった。

牛島辰熊最強伝説⑤

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牛島辰熊が引退するきっかけとなったのが皇太子誕生記念天覧試合です。これまで最強と言われていた牛島辰熊がどのようにして敗れることとなったのか。先ほどよりさらに詳しくその成り行きを知っていただきたいと思う。

数少ない敗北は天覧試合

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明治神宮大会そして全日本選士権とを勝ち続けてきた”不敗の牛島”がついに敗れることとなったのが、1934年に行われた第2回天覧試合だった。予選リーグは勝ち抜くことができたが、その後2人に破れリーグ敗退となったのである。

精神論では病に勝てず…

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天覧試合前に肝吸虫に冒され体重が9kgも減り歩くこともままならなくなっていたのです。精神論でカバーしようと洞窟に籠もり1ヶ月そこで座禅を組み宮本武蔵の五輪書を読み試合に備えたが、惜しくも優勝は逃した。

しかし肝吸虫によって蝕まれた体で準優勝まで勝ち抜いていった牛島辰熊の精神力はやはり並大抵のものではないだろう。このことがなければ優勝していたのは牛島辰熊だっただろうと言われている。

肝吸虫

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肝吸虫とはほ乳類を終宿主としており、肝臓の中にある胆管に寄生する吸虫です。肝吸虫に罹ると胆管壁とその周囲に慢性炎症が起き、肝細胞が変異や萎縮をし壊死していくため肝硬変を起こしてしまう。

当時は即効性のある薬はなかったのですが、1980年代以降にブラジカンテルという吸虫駆除剤が登場したことにより1日の投与のみで根治できるようになった。コイ科の魚を生食する地域では注意が必要です。

牛島辰熊最強伝説⑥

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牛島辰熊が残した伝説は柔道や力強さだけではなかったのです。柔道家として名を広めた牛島辰熊には公にはしていなかった裏の一面があったのです。まさかこのような事件に関わっていたとは、驚くことでしょう。

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