女郎屋とはどういう場所?
「じょろうや」とは?現在では聞かない言葉ではありますが、徳川時代を中心に発展した自身の身体を売り生業としていた場所のことです。ただ身体を売るだけではない女のドラマがそこにはありました。
女郎を住み込みで男性客と遊興させる商売の家
遊女屋とも言われていた男性客が遊興する施設で、現在の風俗店のモデルになっています。彼女たちは性サービスをするだけでなく芸も磨き教養豊かにし宴会の場を楽しませる教育も受けるのです。
江戸時代でも風俗のランクがあった
この時代の遊興場所で有名なのが吉原です。その中でも最も価値の高い花魁と呼ばれるランクになると、彼女が首を縦に振らない限り大金を積んでも床を共にはできませんでした。逆に身分の低い女郎は外に出て積極的に誘い、お客を得ていたのです。
女郎屋のサービス内容
宴会席でお客と一緒に踊りを楽しんだり接待をしたのち、お客の要望があれば床を共にし性交渉を行います。その場所は風呂屋でこっそりと行うものから、幕府の公認を受けた高級な遊郭まで幅広いサービス内容だったといわれています。
女郎の意味とは?
遊興する場所でお客と床を共にする女のことを指します。売春婦全般をいいますが最高級の女郎は花魁と呼び、芸風が達者で飛び抜けた才能を持っていた女郎を太夫と呼んでいました。
女郎屋で働く人の避妊方法
彼女たちにとって避妊は重要なことです。身ごもってしまえば仕事ができません。魚の浮袋を現在のコンドームのように用いたり、和紙を膣に詰めて予防していたとされています。ですがどの方法も確実な予防ではないため望まぬ妊娠をしてしまう場合があったようです。
中絶するしか選択肢はなかった
お客の子供を身ごもってしまっても不特定多数を相手する女郎ですから父親がわからないこと、仕事にならないこともあり中絶しか選択肢はありませんでした。子宮収縮作用のあるほおずきの根を似た汁を飲んでいました。
女郎屋に通ってもらうためのテクニック
現在のキャバクラに似たシステムですがいかにお客を魅了し通ってもらうかが女郎の見せ所でした。身体を売るだけでなく心まで掴むためにさまざまな方法を試していたといいます。
裸になる
基本女郎は服を着たまま性相手をしますが、ときには裸となってあなただけしか見せていない雰囲気を醸し出し特別感を演出するのです。それをされたお客は優越感に浸ったことでしょう。
帰り際のあいさつ
お客が帰る際は見送りをしますが、「まだ一緒にいたい」などと恋焦がれているような言葉を言い残し、また来てほしいことをアピールしました。
手紙で営業
今ではメールや電話がある便利な時代ですが、当時の交流手段は手紙しかありませんでした。達筆な字を書くためや文字を覚えるために日ごろから女郎は勉学にも励んだのです。
独特な女郎言葉
地方から出てきた女性が多くなまりが強いと聞き取れない場合が多くありました。大名や武家相手になまった言葉では高級遊郭で通用しません。そのために独特な女郎言葉を作り少しでも気品高い女性として見られるよう考案されました。
ありんす言葉
語尾で「です」の代わりに「ありんす」と言ったり「してください」を「しておくんなんし」、「さようなら」を「おさればえ」、「なんですか?」を「なんざんす?」などと言い換えて使用していました。現在でも聞いたことのある語尾がありますね。
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女郎屋の歴史とは?
男性のお客を対象とした性産業はいつから始まったのでしょうか?ドラマや映画の題材にも使われることがありますが、徳川幕府が中心です。ですがもっと以前からスタートしていたのです。その歴史をご紹介します。
元々遊女は芸能に従事する女性のことだった
彼女らは、最初は巫女のように神仏の前で歌や踊りをしていたのですが生活費をえるため、地方へ出かけ宿場や酒場で歌踊りを披露しながら身体も売るようになったことが始まりと説があります。
遊女は古代中国から存在する
詩経で遊女という漢字が出ていきます。用いられている意味は、川の女神を指していて古代から存在する言葉でした。日本とは違った意味で使われていました。
日本に残された遊女の呼称
万葉集では、遊行女婦の名前が登場しており平安時代に遊女という言葉が生まれました。源氏物語にも登場しています。鎌倉時代に、性産業として生業する女性が出たとされています。当時は売春が主流だったのです。
1584年最初の遊郭が大阪に作られた
豊臣秀吉が大阪城を新築と共に、日本で初めての遊郭を作ります。以前から各地で売春行為は認知されており性病も高い確率で感染していました。現代のように効果のある薬はなく、感染力を縮小させようと一か所に固めたとされています。
京都、長崎、各地に遊郭が作られた
その5年後には京都に設置されたり、当時貿易が盛んだった長崎では外国人を対象とした遊郭を次々と作っていったのです。それに伴い遊郭以外で売春行為をすることを厳しく取り締まっていきました。
長崎遊郭は外人専門の遊女がいた
日本人客用と外人用と分けて遊女を囲っていました。外国人との子供を身ごもった際は、届け出を出せば出産することができ相手である父親は養育の義務があると異例の規約を作りました。
1612年に有名な「吉原」が作られた
ある男が遊郭設置を幕府に申し出たことから幕府公認の高級吉原が誕生することとなります。最初は現在の日本橋付近に存在していましたが浅草に移転をしています。
「二階で小便」は吉原遊びを意味した
女郎遊びでも高級な吉原へ行ってきたという男のステータスであり、江戸で遊んできたという自慢の意味を示します。それにはその時代の建築材料にあったのです。当時は木材で建築されています。排泄管設置する高度な材質はなく、一階にトイレがあるのが主流でした。
お客のために特別に用意した
お酒を飲むとトイレが近くなるので、特別に遊郭は竹を割っただけのような筒を設置します。二階にトイレがあるというのは珍しいことで画期的だったのです。それはここでしかない設備でもあったのです。
戦後の1956年・売春防止法により消滅
多くの女性が働き性産業は大きくなったかと思ったのも束の間で、戦後には国の最高司令官からの指示によって遊郭が廃止となり、条例規制されたことで消滅することとなるのです。
現代の遊郭?大阪・飛田新地や尼崎・かんなみ新地
表向きは旅館や料亭と営業登録をしていますが、現代の遊郭バージョンが存在しました。大阪と兵庫の2県にあったのです。当時の伝統を守りつつ営業を続けていました。およそ1万円前後で遊ぶことができるようです。
大阪の飛田新地
賑やかな近代的な都市とは異なるタイムスリップしたかのような風情ある街並みに遊郭バージョンが存在しています。玄関入り口には若い女の子たちが座り、年配の女性が客引きをしています。
兵庫の尼崎かんなみ新地
表向きは旅館として営業しているので民宿のような家々が並んでいます。好みの女性を指名をし二階へ行って行為をするといった遊郭の伝統を引き継いだスタイルです。
女郎屋で働く女性達・女郎の生涯とは?
恵まれた時代に生きている私たちとは異なり過酷な時代を必死に生きた人々がいます。貧しい生活を強いられ生活のために子供を差し出すしかなかった複雑な風景がありました。
借金や生活難で、幼い頃に売られてきた
貧しい家庭に生まれた子供や借金返済のため、お腹いっぱいご飯が食べられると言われて吉原へ連れて行かれます。そこには子供を売って生計を立てていかなければいけなかった過酷な時代でした。
仲介業者が存在していた
女衒と呼ばれ、対象となる少女を買い付けて、吉原へ売ることを生業とする人間が存在していました。少女を鑑定し、健康体かや陰部の状態も評価し、値段や売り先を決めていたようです。
5歳~8歳までの幼い少女たちが約30万~50万ほどで身売りされていたといいます。
吉原につくと
まずはすでに働いているお姉さんたちに就いて女郎になるための勉強を積みます。お姉さんたちの着替えの手伝いや頼まれごとを任され、夜のお客相手の時間では立ち振る舞いなどを学んでいきます。
初潮を迎えたら働き始める
徐々に教養が身についてくるとお客の隣に座り身体以外の相手をします。そして初潮を迎えたことで初めてお客との床を任されることになるのです。
見世から信頼されたお客が初めての相手
業界用語で水揚げと呼べれますが、初めての相手で嫌な思いをすると働きが悪くなるとのことで、見世が選んだ女性の扱いに慣れている40~50代のお客を床相手に選びます。水揚げが完了すると一人前の女郎として世に出ることができるのです。
女郎の生活
お客相手をするようになってもトップクラスの花魁とは待遇がかなり違い、デビューしたての女郎たちは大部屋で川の字になって眠ります。食事も質素なもので常に空腹だったようです。
空腹に耐えかねて
ときにお客の残した食事を翌日に取っておいて食べたりもしたようで、身売りのときのご飯がたくさん食べられるというのは花魁にまで昇りつめたのちの豪華な生活のことだったようです。
客の床相手も大部屋で
売れっ子女郎になれば個室を与えられましたが、デビューしたての新人は大部屋で屏風のようなもので仕切られただけの大部屋で行為をしました。
働きづめだった
遊郭は昼夜営業中でしたので、女郎たちは常に寝不足でした。お客と行為をするのが午前2時頃から始まり、泊まりこみのお客を送り出すのが朝6時でした。昼の部は10時からです。少しの睡眠で重労働をこなしていたのです。
女郎の一日
- 6:00~夜明けとともに彼女たちは始動です。泊まり客を送り出してから仮眠します。
- 10:00~目覚めて入浴タイムです。その後に遅めの朝ごはんです。基本は白ご飯・味噌汁・漬物と質素でした。
- 11:00~身支度スタートです。白粉をはたき紅を塗ってメイクを施していきます。
- 12:00~昼の部が始まります。昼間は地方の武士が多く見にくるだけで暇な時間が多かったようです。
- 16:00~昼の部が終わり、馴染みのお客に手紙を書いたりし営業をします。芸の稽古や夕飯もこの時間帯に行いました。
- 18:00~明かりが灯ると同時に人が集まり出し賑やかになります。夜の営業スタートです。
- 22:00~吉原唯一の出入り口が閉められます。新規のお客は入れませんが室内では宴会が続いています。
- 00:00~店じまいです。見世の中にいるお客の相手はまだまだ続きます。
- 2:00~床入りです。泊まりのお客と一緒に布団に入ります。お客が起きてトイレなどの相手をしなければいけないので基本女郎は寝ません。
女郎の定年
年季という定年があり長くて10年でした。これは売られてからではなく、お客の相手をしてからの数え年です。10年経過したらおしまいではなく、身売りされた時の代金は自分の借金として計算されます。
そして着物やかんざしなどのアクセサリーの代金などがプラスされていき、ほとんどの女郎は借金がなくなることなく働きづめだったのです。
花魁になっても華やかなのは見た目だけ
高価な着物やアクセサリーに身を包み華麗な印象を持ちますが、外見だけでやりくりが大変でした。付き人である少女たちの着物などを用意し面倒見なければならなかったため、トップになっても懐は寂しいものでした。
過酷な労働でも幸せな時代だった
寝不足で借金も減らず大変な毎日を過ごしてはいましたが、身売りされなかったら着ることのできなかったであろう豪華な着物やかんざし、毎日質素ながらも食事にありつけることができることが幸せと感じる過酷な時代だったのです。
女郎は身請けされることが最高の幸せ
一つだけ女郎たちの憧れがありました。それはお金持ちのお客さんにお金を払ってもらい遊郭の外に出してもらうことです。これを身請けと呼びました。彼女らは女郎である以上、遊郭から外へ出ることは一切禁止です。掟を破れば酷い仕打ちが待っています。
莫大なお金が必要だった
身請けされるにはとてつもない金額がかかります。
- 女郎の身代金
- 今までの借金
- これから稼ぐ予定とする代金
- 女郎の世話役などへのチップ
- 送別会をするための宴会代金
これらを払わなければならず最低でも400万の大金が必要だったとされます。トップクラスになれば億になったといいます。こうやって晴れて自由になれるのは、ほんのわずかな数でした。もう一つ自由になれる方法があったのです。
病気で亡くなった人も多かった
それは死です。不特定多数の相手をするため性病にかかりやすく、梅毒が大流行したのです。当時では治療する方法がなく痛みを和らげるのみだったので、命を落とすことが多い病気でした。仏となった彼女らは遊郭の外にあるお寺に埋葬されました。
梅毒とは
感染症で皮膚に赤い目立つ湿疹ができ痛みを伴います。外見だけでなく臓器や脳にも腫瘍ができるため、死に至ります。当時では予防法や画期的な治療法はなく、命が尽きるのを隔離された部屋で待つのみでした。
お客と逃亡や心中するケースも
身体を売る仕事をしているとはいえ、男女の世界です。情が移ることもありました。恋仲になっても叶うことのない儚い恋は、逃亡したり来世で結ばれようと誓い合い心中したのです。
ですが病気で命を落としたとは違い、厳しい罰を与えられます。
投げ込み寺に埋葬
無縁仏として身寄りのない女郎たちが数多く眠っています。人目のつかないよう密かに寺まで運び込まれ寺の男が掘った穴に投げ込まれたことから、こう呼ばれています。25000人もの女性が安らかに眠っています。
身請けが幸せの全てではなかった?
多くの女郎が憧れ自分が身請けしてくれる相手を夢見ながら過酷な労働をこなします。ですが史上最高額の身請け代金を支払ってもらい、年季前に自由になった幸運の女郎は幸運の女神とはなれませんでした。一体どんなことが起こったのでしょうか?
体重分の身請け金を支払う
高尾という女郎がおりました。この源氏名をつけてもらえることは女郎の中でも高位な名前で、その名前に担う美貌と人気がないといけません。そんな人気女郎を身請けしようと申し出た男性に楼主は体重分の金額を払ってもらえればと交渉します。
身請け金は楼主にとって儲け話
高尾にあらゆる着物を着せ、かんざしも挿す場所がないほどつけさせてから体重測定を行ったのです。その結果5億という破格の金額が出たのです。女郎の気持ちは優先されず楼主と身請男性とのやりとりで決定してしまう世界なのです。
この身請けを受けたのは仙台藩主
5億もの大金をすんなりと受け入れ絶大な人気を誇っていた彼女を手にしようとしたのは伊達綱宗という大名でした。伊達忠宗の息子で莫大な資産を持っていました。
大金を支払ったのに見向きもされなかった
身請けした妻はというと、一切心を許すことなく動じなかったため激昂した綱宗は殺してしまうのです。自由の身を多くの女郎が憧れていますが、身請けされたからと言って必ずも幸せになれるかというとそうではないようです。
身請けすることはステータス
江戸の時代では、トップクラスの女郎を身請けすることがステータスで世の男性にとって憧れでした。大金を支払い美人で気立ての良い妻を貰うということは、世間に権力を知らしめる特権だったのです。
自ら自害し身請けを破談したケースも
小紫という抜群の人気を誇る女郎がおりました。その彼女には恋する男がいましたが、その男は身請けできるほどの財産はありません。のちに盗人などの罪人に手を染め死刑となってしまいます。小紫は悲しみに暮れました。
身請け話が訪れる
悲しみの最中、人気抜群だった彼女は身請け話が訪れます。ですが彼女の心には死刑となった男がおり望まない身請けでした。他の男の元へいくのならばと、愛する男の墓前で自害するのです。真実の愛を貫きとおしたピュアな女性だったのです。
年季があけて晴れて自由になったら?
厳しい労働を続け借金も完済し、年季があけた彼女たちはどんな生活を送ったのでしょうか?晴れて自由になり待ちわびていた開放感ですが、現実は程遠いものだったのです。
軽蔑の目で見られる
自由になって自分の生まれた家に戻りたい、両親と会いたいと思い実家へ戻っても現代なら歓迎され久々の再会に涙したでしょう。ところが昔は「売りに出したのだから居場所はない」と逆に迷惑になってしまうのです。
子供のできない体に
妊娠中絶を繰り返し、劇薬が身体に負担となっており妊娠できない身体になっているのです。昔は結婚したら子供を産んで当たり前とされる時代でしたので、結婚相手の対象としてみてもらうことはできませんでした。
家事ができない
踊りや三味線、お酒を注ぐことはできても遊郭内では家事は一切行ってこなかった彼女らは、何をしたいいのかすら未知な世界なのです。家事ができないため結婚も程遠かったようです。
吉原の束縛が一生続く
結局普通の女性としての幸せを掴むことは難しく、吉原に戻ってくるか関連したところを紹介してもらい仕事をするしかなかったのです。年季があけても自由にはならない悲しい現実があったのでした。
再度女郎に戻る場合も
行く当てもなかった元女郎は夜鷹になることを選択する場合もあったようです。暗い夜道に立ち勧誘するのですが、シワを厚塗りした白粉でごまかし、白髪を黒い油で塗り出没していたといいます。約600円ほどで超格安でした。
女郎の階級・呼び方と値段は?
さまざまな人間のドラマがある遊郭ですが、そこで働く儚い女性たちは階級があり呼び方も待遇もさまざまでした。その種類について詳しくご紹介していきます。
最高ランクの「太夫」は1000万!
ナンバーワンとされる太夫になると、知的教養も優れており、踊りや三味線などの芸も抜群でした。教養と芸の両方を兼ね備えた女郎のみに与えられる最高ランクです。2000~3000人いた女郎の中でも3~5人しかなれない超一流なのです。
太夫に会いたい人は粘り強さが必要
付き人である妹分などを含めた宴会代金や女郎屋への祝儀も必要だったため、彼女と床を共にするためには1000万以上の大金が必要でした。大名や公家などの上流階級の男性が利用していたといいます。
「花魁」の値段は400~600万!
遊郭に足を運んで代金を支払えばトップクラスと床を共にできる簡単なものではなく、豪華な遊びをしなければ花魁相手と認めては貰えず、多くのお金が必要でした。
数回通わなければ2人きりになれない
最低でも3回は花魁のために通います。そのうちの2回は宴会で花魁を見るだけです。彼女らの機嫌が悪ければ顔を見ることもままなりません。運よくスムーズに進めば3回目でやっと花魁と2人きりになれるのです。