多くの女性が働き性産業は大きくなったかと思ったのも束の間で、戦後には国の最高司令官からの指示によって遊郭が廃止となり、条例規制されたことで消滅することとなるのです。
現代の遊郭?大阪・飛田新地や尼崎・かんなみ新地
表向きは旅館や料亭と営業登録をしていますが、現代の遊郭バージョンが存在しました。大阪と兵庫の2県にあったのです。当時の伝統を守りつつ営業を続けていました。およそ1万円前後で遊ぶことができるようです。
大阪の飛田新地
賑やかな近代的な都市とは異なるタイムスリップしたかのような風情ある街並みに遊郭バージョンが存在しています。玄関入り口には若い女の子たちが座り、年配の女性が客引きをしています。
兵庫の尼崎かんなみ新地
表向きは旅館として営業しているので民宿のような家々が並んでいます。好みの女性を指名をし二階へ行って行為をするといった遊郭の伝統を引き継いだスタイルです。
女郎屋で働く女性達・女郎の生涯とは?
恵まれた時代に生きている私たちとは異なり過酷な時代を必死に生きた人々がいます。貧しい生活を強いられ生活のために子供を差し出すしかなかった複雑な風景がありました。
借金や生活難で、幼い頃に売られてきた
貧しい家庭に生まれた子供や借金返済のため、お腹いっぱいご飯が食べられると言われて吉原へ連れて行かれます。そこには子供を売って生計を立てていかなければいけなかった過酷な時代でした。
仲介業者が存在していた
女衒と呼ばれ、対象となる少女を買い付けて、吉原へ売ることを生業とする人間が存在していました。少女を鑑定し、健康体かや陰部の状態も評価し、値段や売り先を決めていたようです。
5歳~8歳までの幼い少女たちが約30万~50万ほどで身売りされていたといいます。
吉原につくと
まずはすでに働いているお姉さんたちに就いて女郎になるための勉強を積みます。お姉さんたちの着替えの手伝いや頼まれごとを任され、夜のお客相手の時間では立ち振る舞いなどを学んでいきます。
初潮を迎えたら働き始める
徐々に教養が身についてくるとお客の隣に座り身体以外の相手をします。そして初潮を迎えたことで初めてお客との床を任されることになるのです。
見世から信頼されたお客が初めての相手
業界用語で水揚げと呼べれますが、初めての相手で嫌な思いをすると働きが悪くなるとのことで、見世が選んだ女性の扱いに慣れている40~50代のお客を床相手に選びます。水揚げが完了すると一人前の女郎として世に出ることができるのです。
女郎の生活
お客相手をするようになってもトップクラスの花魁とは待遇がかなり違い、デビューしたての女郎たちは大部屋で川の字になって眠ります。食事も質素なもので常に空腹だったようです。
空腹に耐えかねて
ときにお客の残した食事を翌日に取っておいて食べたりもしたようで、身売りのときのご飯がたくさん食べられるというのは花魁にまで昇りつめたのちの豪華な生活のことだったようです。
客の床相手も大部屋で
売れっ子女郎になれば個室を与えられましたが、デビューしたての新人は大部屋で屏風のようなもので仕切られただけの大部屋で行為をしました。
働きづめだった
遊郭は昼夜営業中でしたので、女郎たちは常に寝不足でした。お客と行為をするのが午前2時頃から始まり、泊まりこみのお客を送り出すのが朝6時でした。昼の部は10時からです。少しの睡眠で重労働をこなしていたのです。
女郎の一日
- 6:00~夜明けとともに彼女たちは始動です。泊まり客を送り出してから仮眠します。
- 10:00~目覚めて入浴タイムです。その後に遅めの朝ごはんです。基本は白ご飯・味噌汁・漬物と質素でした。
- 11:00~身支度スタートです。白粉をはたき紅を塗ってメイクを施していきます。
- 12:00~昼の部が始まります。昼間は地方の武士が多く見にくるだけで暇な時間が多かったようです。
- 16:00~昼の部が終わり、馴染みのお客に手紙を書いたりし営業をします。芸の稽古や夕飯もこの時間帯に行いました。
- 18:00~明かりが灯ると同時に人が集まり出し賑やかになります。夜の営業スタートです。
- 22:00~吉原唯一の出入り口が閉められます。新規のお客は入れませんが室内では宴会が続いています。
- 00:00~店じまいです。見世の中にいるお客の相手はまだまだ続きます。
- 2:00~床入りです。泊まりのお客と一緒に布団に入ります。お客が起きてトイレなどの相手をしなければいけないので基本女郎は寝ません。
女郎の定年
年季という定年があり長くて10年でした。これは売られてからではなく、お客の相手をしてからの数え年です。10年経過したらおしまいではなく、身売りされた時の代金は自分の借金として計算されます。
そして着物やかんざしなどのアクセサリーの代金などがプラスされていき、ほとんどの女郎は借金がなくなることなく働きづめだったのです。
花魁になっても華やかなのは見た目だけ
高価な着物やアクセサリーに身を包み華麗な印象を持ちますが、外見だけでやりくりが大変でした。付き人である少女たちの着物などを用意し面倒見なければならなかったため、トップになっても懐は寂しいものでした。
過酷な労働でも幸せな時代だった
寝不足で借金も減らず大変な毎日を過ごしてはいましたが、身売りされなかったら着ることのできなかったであろう豪華な着物やかんざし、毎日質素ながらも食事にありつけることができることが幸せと感じる過酷な時代だったのです。
女郎は身請けされることが最高の幸せ
一つだけ女郎たちの憧れがありました。それはお金持ちのお客さんにお金を払ってもらい遊郭の外に出してもらうことです。これを身請けと呼びました。彼女らは女郎である以上、遊郭から外へ出ることは一切禁止です。掟を破れば酷い仕打ちが待っています。
莫大なお金が必要だった
身請けされるにはとてつもない金額がかかります。
- 女郎の身代金
- 今までの借金
- これから稼ぐ予定とする代金
- 女郎の世話役などへのチップ
- 送別会をするための宴会代金
これらを払わなければならず最低でも400万の大金が必要だったとされます。トップクラスになれば億になったといいます。こうやって晴れて自由になれるのは、ほんのわずかな数でした。もう一つ自由になれる方法があったのです。
病気で亡くなった人も多かった
それは死です。不特定多数の相手をするため性病にかかりやすく、梅毒が大流行したのです。当時では治療する方法がなく痛みを和らげるのみだったので、命を落とすことが多い病気でした。仏となった彼女らは遊郭の外にあるお寺に埋葬されました。
梅毒とは
感染症で皮膚に赤い目立つ湿疹ができ痛みを伴います。外見だけでなく臓器や脳にも腫瘍ができるため、死に至ります。当時では予防法や画期的な治療法はなく、命が尽きるのを隔離された部屋で待つのみでした。
お客と逃亡や心中するケースも
身体を売る仕事をしているとはいえ、男女の世界です。情が移ることもありました。恋仲になっても叶うことのない儚い恋は、逃亡したり来世で結ばれようと誓い合い心中したのです。
ですが病気で命を落としたとは違い、厳しい罰を与えられます。
投げ込み寺に埋葬
無縁仏として身寄りのない女郎たちが数多く眠っています。人目のつかないよう密かに寺まで運び込まれ寺の男が掘った穴に投げ込まれたことから、こう呼ばれています。25000人もの女性が安らかに眠っています。
身請けが幸せの全てではなかった?
多くの女郎が憧れ自分が身請けしてくれる相手を夢見ながら過酷な労働をこなします。ですが史上最高額の身請け代金を支払ってもらい、年季前に自由になった幸運の女郎は幸運の女神とはなれませんでした。一体どんなことが起こったのでしょうか?
体重分の身請け金を支払う
高尾という女郎がおりました。この源氏名をつけてもらえることは女郎の中でも高位な名前で、その名前に担う美貌と人気がないといけません。そんな人気女郎を身請けしようと申し出た男性に楼主は体重分の金額を払ってもらえればと交渉します。
身請け金は楼主にとって儲け話
高尾にあらゆる着物を着せ、かんざしも挿す場所がないほどつけさせてから体重測定を行ったのです。その結果5億という破格の金額が出たのです。女郎の気持ちは優先されず楼主と身請男性とのやりとりで決定してしまう世界なのです。
この身請けを受けたのは仙台藩主
5億もの大金をすんなりと受け入れ絶大な人気を誇っていた彼女を手にしようとしたのは伊達綱宗という大名でした。伊達忠宗の息子で莫大な資産を持っていました。
大金を支払ったのに見向きもされなかった
身請けした妻はというと、一切心を許すことなく動じなかったため激昂した綱宗は殺してしまうのです。自由の身を多くの女郎が憧れていますが、身請けされたからと言って必ずも幸せになれるかというとそうではないようです。
身請けすることはステータス
江戸の時代では、トップクラスの女郎を身請けすることがステータスで世の男性にとって憧れでした。大金を支払い美人で気立ての良い妻を貰うということは、世間に権力を知らしめる特権だったのです。